第126話 旅路②

 列車の旅は、順調に進んだ。

 桜並木の道を越えて、再び田園風景。森の間を走り、トンネルを通り抜けた。

 そして、


「うわあ……」


 刀一郎が瞳を輝かせる。

 海沿いに出たのだ。車窓には、陽光に輝く海岸が見えた。


「久遠! 久遠!」


 真刃の顔を見て言う。


「見ろ! 海だぞ! 海だ!」


「……いや。見れば分かるが……」


 真刃も車窓を見やる。


「騒ぐほどでもないだろう。いや、もしや初めてなのか?」


「うん! 初めてだ!」


 刀一郎は満面の笑みで頷く。


「自分は帝都からあまり離れないからな! 海にも行ったことはない!」


「……そうか」


 真刃は少し目を細めて、改めて海を見る。

 美しい蒼い海原だ。波はほぼなく穏やかに輝いている。


オレは幼少時に行ったことがあるな。知っているか? 桜華」


「え、あ、はい……」


 その名を呼ばれて、刀一郎の鼓動は跳ね上がる。

 少し緊張した面持ちで姿勢を正し、真刃を見やる。


「な、何をだ? 久遠」


「海は塩辛いのだ」


「………………」


「とても呑めたモノではないぞ」


 真顔でそんなことを言う。

 刀一郎は半眼になった。


「……莫迦にしているのか?」


 ボソリとそう告げると、真刃はくつくつと笑った。

 やはり冗談だったらしい。


「お前の冗談は分かりにくいぞ」


「いや。お前になら通じるかと思ってな。それよりも」


 真刃は少し真面目な顔になった。


「そろそろ目的の駅に到着だ。オレの呼び名も改めておかんとな」


「………?」


 刀一郎は小首を傾げた。


「自分は偽名だが、別にお前は『久遠』で構わんだろう?」


 今回の偽装は、特に目立たなければよい程度のモノだ。女装――実際は正真正銘、女性ではあるが――している刀一郎は必須だとしても、完全に偽名を使う必要性はない。


「いや。あのな」


 真刃は嘆息した。


「忘れるな。お前はオレの『妻』なのだぞ。夫を名字で呼ぶ妻がいるか?」


「………あ」


 刀一郎は、口元を片手で抑えた。


オレも、極力お前のことは『桜華』と呼ぼう。だから、お前もオレのことは『真刃』と呼べ。いいな。桜華」


「あ、うあ、それは……」


 刀一郎は口元を隠したまま、もじもじとする。

 やや頬も赤く、視線を逸らして「むむむ」と唸っている。


「……おい」


 真刃は、再び嘆息した。

 名前で呼ぶのは、男女問わず親しい者に限られることだ。

 そして真刃たちは、お世辞にも仲が良いとは言えない。

 いつかお前を斬るとまで宣言されているほどだ。

 そんな因縁の多い自分を、名で呼ぶことに抵抗があるのだろう。


「お前の気持ちも分からんでもないが、これも任務だ」


 真刃は言う。


オレを名で呼べ。桜華」


「~~~~~ッッ」


 刀一郎は言葉もなく、口を真っ直ぐに結んだ。

 真刃は、正面から刀一郎を見据える。

 刀一郎はプルプルと震えながら、


「………し、真刃……」


 出会ってから初めて。

 ――そう。初めて彼の名前を呼んだ。

 対し、真刃は刀一郎を見やり、軽く息を吐いた。


「……そこまで嫌がらんでもよかろうに」


 小さくそう呟く。

 真刃の前に座る刀一郎。

 同僚の顔は真っ赤で、目尻に涙まで溜めて睨みつけている。

 肩や、膝の上に乗せた手まで震えているぐらいだ。

 相当に憤慨しているように見える。


(まあ、女装までさせられているのだから、御影の憤懣ふんまんも当然か)


 真刃はそう思った。

 実際のところ、刀一郎が抱く感情は真逆なのだが、真刃がそれに気付くことはない。


『……………』


 一方、真刃の隣にて浮かぶ猿忌は、神妙な表情を見せていた。


(……う、むゥ)


 内心で唸る。

 御影刀一郎のこの反応。

 これは果たして、どう判断すればいいのか……。


(……紫子。杠葉よ)


 猿忌は、真刃と刀一郎を見やり、改めて思う。


『……これは、よもや本当に危惧通りにはなるまいな?』


「ん?」


 真刃が猿忌を見やる。


「何か言ったか? 猿忌」


『……いや。何でもない。主よ』


 猿忌は沈黙した。

 今は沈黙するしかなかった。

 いずれにせよ、列車は進む。

 海沿いを越えて、再び森林の道へと。

 大きな森の中をさらに一時間、列車の旅は続いた。

 そうして、

 ――ガタン、ゴトン……。

 ゆっくりと、列車は停車した。

 真刃たちの目的の駅に到着したのである。

 ガヤガヤ、と。

 真刃以外の乗客も、数人が荷物を持って立ち上がる。


「さて、と」


 真刃も、荷物を片手に立ち上がった。


「では行こうか。桜華」


 言って、迎えの席に座る『妻』に声を掛ける。

 対し、『妻』は『夫』の手を取った。

 早鐘を打つ鼓動は隠しつつ、


「うん。分かった」


 そう答えて、刀一郎は改めて心を決める。


(そう。今の自分は、こいつの『妻』なのだ)


 一度だけ大きく息を吐く。

 そして、


「行こう。真刃」


 桜色の唇を動かして、刀一郎はそう告げた。

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