第106話 兎と羊は拳を振るう⑦

『――ご主人!』


 金羊が叫ぶ。


『何してたんスか! 遅すぎっスよ!』


「……これでも、相当急いできたのだがな」


 真刃は苦笑を零した。

 と、その時、ボボボと鬼火が現れる。

 骨の翼を持つ猿。猿忌だ。

 猿忌は眉をしかめて、痙攣するピアス男を一瞥した。


『このような下衆。主自らが懲罰する必要もなかったのではないのか?』


「……ふん」


 真刃も、ピアス男に目をやった。


オレとて、直接殴りたくなる輩もいるのだ」


 そう呟く。

 それから、ペタンと床に座り込んだ少女へと視線を向けた。

 少女は、未だ茫然としている。


「……大丈夫か? 娘よ」


 そう声を掛けてみるが、彼女は何も答えない。

 涙で溢れた蒼い瞳は、とても虚ろだった。

 心が、完全にどこかに行っている。

 真刃は、双眸を細めた。


(……トラウマか)


 この少女の過去は、金羊から聞かされている。

 数年前に、両親を海難事故で亡くしているとのことだ。

 そんな過去を持った上で、水を得意とする外道との戦闘である。彼女が抱いた恐怖が、どれほどのものだったのかは、察するには余りある状況だった。


(……確か、この娘の名は……)


 真刃は、少女と視線を合わせるため、片膝を突いた。


「……月子」


 少女の名を呼ぶ。

 茫然とした表情に、微かな反応があった。


「もう、大丈夫だ」


 真刃は、優しく微笑んだ。


「お前はよく頑張った。もう身構えなくともよい」


 そう告げると、少女はハッと顔を上げた。

 少しずつ、虚ろだった瞳に輝きを取り戻していく。

 そして――。


「……た、助けて……」


 真刃の顔を見つめて、そう呟いた。

 真刃は「ああ」と、強く頷いた。


「安心せよ。お前は――」


 と、言葉を続けようとした時、


「……さ、燦ちゃんを、助けてあげて……」


 真刃の腕を掴んで、月子がそう告げた。

 真刃は、軽く目を見開いた。

 少し驚いた。


(……この娘)


 ここまで心を追い込まれてなお。

 まず口から出てくるのは、友の身を案ずる言葉とは……。

 本当に、優しく善良な娘だ。

 だが、それはあまりにも……。


(……………)


 真刃は、一瞬だけ双眸を閉じた。

 そうして、


「……安心せよ」


 穏やかな声で、そう応える。


「あの娘も、見捨てる気はない」


 火緋神の少女。杠葉の遠き娘。

 あの娘は、遠き日に愛した少女の忘れ形見だ。

 決して、見捨てるような真似はしない。


「金羊よ」


 真刃は、彼女のポケット内に納められたスマホに宿っている金羊に命じる。


「そこの男のスマホから、あの娘の行方を探れんか?」


『うっス! 早速、ハッキング中っス!』


「うむ。頼むぞ」


 電脳の世界ばかりは真刃も無力。完全な門外漢である。

 ここは自らの従霊を信じて、すべてを託す。

 自分は、いま自分に出来ることをするだけだ。

 時折まだ表情が消えてしまう月子を見やる。


『……主よ』


 その時、猿忌が口を開いた。

 聡明な従霊の長も、この少女の危うさ・・・には気付いていた。


「……分かっておる」


 真刃は頷いた。

 そして「月子」と少女に呼びかける。

 月子は「え?」と顔を上げた。


「……お前は、頑張りすぎだ」


「………え?」


 真刃の言葉に、月子は目を瞬かせた。


「お前の過去は、ある程度だが、金羊が教えてくれた」


 真刃は、一度瞳を閉じる。


「お前はあの燦という娘に、強い友情と恩義を抱いているのは分かっている。それは、お前の性格の良さでもあるのだろう。しかし」


 一拍おいて。


「迷惑をかけたくない。心の奥では常にそう思っているのだろう? お前の優しい性格と立場なら当然とも言える。だが、だからと言って、お前が、自分の感情を無理やり抑えつけてもいいという話ではないはずだ」


 真刃は、真っ直ぐ少女の瞳を見据えた。


「お前は、誰かに甘えることが出来ているのか?」


「あ、甘える……?」


 呆然とした表情で、月子が反芻する。

 真刃は頷いた。


「子供としてだ。ただ我儘に。純粋に。感情をぶつけられる相手はいるのか?」


「そ、それは……」


 月子は、おどおどと視線を逸らした。

 その相手は、かつては母であり、父であった。

 けれど、両親が亡くなってからは……。


「何年、無理をしてきた? どれほど我慢をしてきた? 心が怯えている時にまで自分の感情を抑え込んでしまうのは、あまりにも危ういことだぞ」


「……わ、私は……」


 月子の蒼い瞳が、泳ぎ始める。

 真刃は、小さく嘆息した。


「……やはり、お前は頑張りすぎだな」


 月子は、どこか、かなたに似ている。

 ただ、かなたは心を閉ざすことで、ある意味、心を自衛してきた。

 一方、月子はずっと我慢をしてきたのである。恐らく本人も気付かない内に、心に強い負荷をかけ続けてきたのだろう。


 それは、いずれ、この娘の心に大きな亀裂をもたらすことになる。

 心を決壊させてしまう時が来るはずだ。


「……月子」


 真刃は優しく微笑み、大きな手で少女の頭を撫でた。

 月子は目を見開く。


オレは、火緋神家とは無関係な男だ。ゆえに気遣いなど不要だ」


 一拍おいて。


「自分の心を無理に抑え込む必要もない。今お前の目の前にいる男は、どれだけ迷惑をかけても構わない相手だからな」


 そう告げる。

 月子は、数瞬ほど唖然としていたが……。


「……月子」


 真刃は、再度彼女に呼びかける。


「今ここで無理をする必要はないのだ。素直に甘えてもいい」


 その言葉を受けて、


「うわあ、うあああ……」


 不意に、ボロボロと涙を零した。


「うああああああああっ! うわあああああああああああああああああああっ!」


 そして大声を上げると、立ち上がり、真刃の首に抱き着いた。


お母さんマーマも、お父さんパーパもいなくなって!」


 月子は、真刃にしがみついて想いを吐き出す。


「私は一人ぼっちになって! 誰も助けてくれてなくて、叔父さんは怖くて――」


 それは、何年も溜め込んだ感情の激流だった。


「なんで、なんで、なんでっ!」


 涙が止まらなかった。


「なんで、私だけがこんな目に遭うの!」


「…………」


 真刃は何も語らない。

 ただ、黙って、彼女の感情の受け口となる。


「わ、私は……私はっ!」


 月子は、そのまま感情を吐き出し続けた。

 今まで心の奥にしまい込んでいた不満。恐怖。怒り。哀しみ。

 それらを、初めて言葉にした。

 それは、およそ数分間にも渡って続いた。

 時折、叫びすぎて呼吸困難に陥ると、「大丈夫だ。呼吸を整えよ」と、青年は月子の髪を撫でて落ち着かせてくれた。

 そうして……。


「……ぐすっ、おじさまぁ……」


 ようやく少し平静さを取り戻した月子が、腕を離して真刃の顔を見上げた。

 少女の細い肩は、まだしゃっくりで少し跳ねていた。


「少しは、心の内を吐き出せたか?」


 そう尋ねる真刃に、


「………うん」


 月子は、まだ少し涙を零しつつも、こくんと小さく頷いた。

 その蒼い瞳に、先程までの危うさはもうない。


「……そうか」


 真刃は優しく笑った。


「それは良かった。しかし」


 そこで、ふっと苦笑を零す。


「折角の綺麗な顔が、随分と台無しになってしまったな」


 言って、両手で月子の頬に触れる。

 親指で涙の跡を拭い始めた。


「……やあぁ、やめてェ、もう。おじさまの馬鹿あぁ……」


 月子は、頬を朱に染めて恥ずかしがった。

 けれど、恥ずかしがっているだけで嫌がってはいない。

 少しの間、されるがままに頬を撫でてもらってから、


「……もう。子供扱いしないで。おじさま」


 真刃の両手に、そっと触れる。

 それから、数秒ほど、真刃の顔を見つめて……。


「……おじさま……」


 月子は、再び真刃の首に両手を伸ばした。

 今度は、激情に任せたような跳びつきではない。

 ゆっくりと、両腕を回して抱き着いた。

 どうしても、確認しておきたかったのだ。

 そして、青年の温もりを感じた。


(………あ)


 トクントクン、と自分の高鳴る鼓動が聞こえる。

 心が、とても落ち着いてくる。

 心の奥が、暖かいもので満たされていく。


(……ああ。そっか。これが、お母さんマーマの言っていた……)


 うなじまで赤く染めて、月子は真刃の首にしがみついた。

 一方、真刃は、どこまでも優しい表情だ。

 ポンポン、と少女の背中を宥めるように叩いている。


『……ふむ』


 その様子を見て、猿忌が呟く。


『……なるほど。確かにこれは逸材。金羊が強く推すのも分かるな』


 と、その時だった。


『――ご主人!』


 突如、声が響く。金羊の声だ。

 それは月子のスマホから聞こえてきた。

 真刃と月子、そして猿忌も表情を変えた。


「――分かったのか? 金羊」


『うっス! あいつのスマホから、PCへと経由して調べまくったっス!』


 金羊は告げる。


『燦ちゃんの居場所が分かったっス!』


「……そうか」


 真刃は頷き、立ち上がろうとするが、


「……あ」


 少女の声が零れ落ちる。

 その時、月子はまだ真刃の首を両手で抑えていた。


「ご、ごめんなさい」


 月子は慌てて手を離そうとする。と、それは真刃が止めた。


「いや。構わん。まだ不安なのだろう? 心を抑えつけなくてよい」


 一拍おいて。


「月子。お前を抱くぞ」


「……え?」


 月子は一瞬、目を瞬かせた。

 ――が、すぐに耳まで赤くして真刃を見つめた。

 しばしの逡巡。


「……月子?」


「……あ、は、はい……っ」


 名前を呼ばれて、月子は反射的に頷いた。

 それを承諾と捉えて真刃は月子を抱き上げた。お姫さま抱っこだ。

 月子は「ふわっ!?」と目を見開いた。


(う、うそ……)


 まさか、これから……。


「ま、待って、おじさま。そ、その……」


 恐らくは魂力オドの増強。

 おじさまは、この場で《魂結びの儀ソウルスナッチ・マッチ》を行うつもりなのだ。


 それは一理ある。

 未知の勢力を相手に、燦を助けに行くのだ。

 人を怪物化させる道具以外にも、敵がどんな力を隠し持っているのか分らない状況だ。

 時間的にまだ余裕があるのならば、戦力は増強させた方がいい。

 けれど、それを行うということは――。


「~~~~~~ッッ」


 月子は、口元を片手で押さえて視線を逸らした。


「ん? 嫌だったか?」


「……え」


 そう問われて、きゅうっと月子の心が鳴った。

 まだ自分には早い。明らかに早い。

 それに、何より強い不安がある。

 なにせ、直前まで、最低な男に貞操を狙われていたのだ。

 その恐怖は、簡単には拭えない。

 だけど、おじさまは、あの男とは全然違っていて……。


 ……ぎゅっと。

 青年のシャツを強く握りしめた。


 鼓動は、ずっと跳ね上がっていた。

 月子は視線を伏せて、キュッと唇を噛みしめた。


 そうして、


「……い、嫌じゃ、ない、です」


 そう答えた。


(言っちゃった!? 私、言っちゃったよ!?)


 月子の蒼い瞳が、ぐるぐると回り始める。


(おじさまは燦ちゃんの好きな人なのに! 嫌じゃないって……OK・・って言っちゃった!? け、けど、燦ちゃんを助けるために必要なことだし……し、仕方がないよね?)


 瞳の回転は、さらに加速する。


(そ、それに、引導師の世界だとハーレムは当然だそうだし、ネットの噂だと、十二、三歳で経験がある子もいるそうだし、その、おじさまは燦ちゃんの未来の旦那さまで、私は燦ちゃんの相棒バディだから、きっとこれはもう遅かれ早かれで……だから、え、えっと、あ、私って《隷属誓文ギアスレコード》のアプリって持ってないけど大丈夫かな? 決闘の儀式は多分必要ないよね? あ、後は……とにかく頑張らないと! 頑張らないとっ!)


 ……プシュウっ、と。

 月子の頭は、ショートした。


 それから、コテンっと真刃の肩に頭を乗せる。

 彼女のうなじや耳は、もう真っ赤だった。


「月子? 大丈夫か?」


「だ、大丈夫、です……」


 月子は、視線は合わせず――正確には合わせられず、そう答えた。

 一方、真刃は「そうか」と満足げに頷くと、


「では、あの娘の元に行くぞ」


 そう告げた。


「………………え?」


 月子は顔を上げて、目を瞬かせた。

 てっきり、このまま近くの空部屋に行くとばかり思っていたのだ。

 けれど、おじさまの言葉は……。


「え? おじさま……?」


 月子は混乱するが、すぐに「あ」と気付く。

 抱く……とは、抱き上げること。


(あ……わああッ!)


 自分の勘違いを知って、月子はカアアっと顔を赤くした。


「……? どうした? 月子?」


「も、もうっ!」


 思わず涙目になる月子。


「言い方っ! もうっ! おじさまの馬鹿あぁ!」


 そう叫んで、ポカポカ、と両手で真刃の頭を叩いた。

 こんな姿も、今まで月子は誰にも見せたことがなかった。


「こらこら。暴れるでない」


 真刃が、優しい声で戒める。


「元気なのはよいことだが、今はあの娘の元に急ぐぞ」


「……うゥ、は、はいィ……」


 月子は少し不満だったが、こくんと頷いた。

 今は、燦を助けに行くことを、何より優先すべきだった。


(ううゥ、ごめェん、燦ちゃん。私の馬鹿ぁ……)


 深く反省しつつ、しっかりと真刃の首にしがみついた。


「うむ。しっかり掴まっていろ」


 そう告げて、真刃は、月子を抱き上げたまま歩を進めた。

 駆け足に近い早足だ。

 宙に浮く猿忌も、主の後に続いた。


「さて。金羊よ」


 廃ホテルの外に停めてある車の元に急ぎながら、真刃は金羊に問う。


「あの娘はどこにおるのだ?」


『うっス。それなんスけど、その前に報告したいことがあるっス』


「……なに?」


 真刃は眉をひそめる。


「それは何だ?」


『あのクズ野郎のPCを漁って分かったんス。本当に胸糞悪くなる画像や情報ばかりだったっスけど、そん中に、あいつらの目的を推測できる情報もあったんス』


 それは、とある儀式に関するモノだった。

 儀式を遂行するための必要な道具について記載されていたのだ。

 恐らく、奴らの目的とは――。


『急ぐっス。ご主人』


 そして、金羊は神妙な声で主に警告した。


『あいつら。とんでもないことをするつもりっスよ』

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