第103話 兎と羊は拳を振るう④

「――くそったれがあッ!」


 怒気を吐いて、ビアンは立ち上がった。

 その右側の顔には、生々しい火傷が刻まれていた。

 雷光の直撃を受けた痕だ。

 まさかの一撃だった。一体、何者なのか――。


「――月子ォ!」


 ビアンは、少女の名を叫んだ。

 しかし、返事はない。

 部屋には、すでにビアンの姿しかなかった。


「あの糞ガキがッ!」


 痛む右側の顔を押さえつつ、ビアンは吠えた。

 途端、ガシャンと部屋の奥――備え付けのシャワールームから大きな音がした。

 そして数秒もせずに巨大な蛇が現る。

 全身が水で創られた蛇だ。


「……逃がしゃあしねえよ」


 ビアンは、凄惨な笑みを見せた。

 それに合わせて、部屋の中で水の蛇が蠢く。


「お前のことは、全部調べあげてんだぜ」


 ビアンは、ゆっくりと歩き始めた。

 と、同時に水の蛇が動いて、ドンッと部屋のドアをぶち破った。

 水浸しになった出口から、ビアンは外へと出た。

 廃ホテルの暗い廊下だ。


「てめえと俺の相性は、最ッ高にいいんだよ」


 ビアンは月子が逃げたであろう方向を見やり、目を血走らせて嗤う。


「どこに逃げようと無駄だ。それを思い知らせてやるよ」



       ◆



「あ、あの!」


 月子は廃ホテルの廊下を走りながら、自分のスマホに話しかける。


「あ、あなたは誰なんですか?」


『アッシは金羊っス』


 スマホ――金羊は、まず名乗った。


『こないだ「百貨店ブラックストア」で出会った人を憶えてるっスか?』


「え?」


 月子は、走りながら目を瞬かせる。

 最近『百貨店』で出会った人。思い浮かぶのは一人だけだ。


「それって、もしかして、おじさまのこと?」


『そうっス。まあ、ご主人は、その呼び方はいまいち嫌そうだったスけど』


 アッシはご主人の従霊。式神みたいなモノっス。

 と、説明を続ける。

 月子は目を丸くした。


「ど、どうして、おじさまの式神が私のスマホに?」


『たまたまアッシが調べ物をしてたら、月子ちゃんたちが攫われるところに遭遇したんス。悪いっスけど、咄嗟に月子ちゃんのスマホにアッシの分身を潜ませてもらったっス』


「そうだったんだ……」


 月子は、ランドセルを片手に持ったまま、走り続ける。


『この件は、すでに火緋神家にも連絡済みっス。救出班もすぐに動くっスよ!』


「――ホント!」


 月子は、表情を輝かせた。


「じゃあ、燦ちゃんも大丈夫なの!」


『そうっス! それと、ご主人が先行してここに向かっているっス』


「……え」


 トクン、と。

 走る月子の鼓動が、少し跳ねた。


『アッシはかなり近づいたから先に転送したっス。危ないところだったっス』


 ふいィ、と息を吐く金羊。

 危うく最低のクズに、無垢な肆妃が穢されるところだった。


『あんな奴、信じちゃダメっスよ』


「け、けど、燦ちゃんが……」


 と、哀しそうに眉をひそめる月子。

 落ち込む少女に、金羊は『あわわ』と動揺し、


『そ、その、まあ、仕方がないっスよね。悪いのは、全部あのクズっス。アッシの分身の記憶だと、燦ちゃんはここに連れられてきた後、またどっかに連れていかれたようっス』


「……そ、そんな……」


 月子の顔色が青ざめた。


「じゃあ、燦ちゃんは、どこに……」


『……今は分からないっス』


 神妙な声で答える金羊。


『あの子のことも心配っス。けど、今は月子ちゃんの方も危ないっス。ご主人が到着するまでまだ六、七分はかかるっス。何か時間稼ぎできるような道具はないっスか?』


「ど、道具? あ、それなら」


 月子は、自分のランドセルに目をやった。

 スマホをハムっと口に咥えて、ランドセルの中から紙袋を取り出す。

 素早く袋を開けると、中に入っていたのは、指先の開いた一対の手袋グローブだった。


『それは何スか?』


 スマホに、顔をポップアップさせて尋ねる金羊。

 白を下地に、銀糸で刺繍された結構お洒落な手袋グローブだ。

 月子は、とりあえず、それを身に着けた。

 伸縮性があるようでぴったりと合うが、月子は眉をひそめた。


「燦ちゃんから貰ったんだけど、使い方は分からないの」


『う~ん、アッシの見立てだと、この素材は……』


 ピンと「!」マークを浮かび上がらせる。


『これ、「反羊反」っスか! なるほど! あの燦って子、面白いこと考えるっスね!』


 と、金羊は納得したようだ。


「金羊さん?」月子は走る速度は緩めずに尋ねる。「これの使い方が分かるの?」


『うっス。多分、これの使い方は……』


 と、金羊が呟いた時だった。

 ゴゴゴゴゴゴッ、と突然、廃ホテルが揺れた。


「じ、地震?」


『違うっス! 気をつけるっス! 月子ちゃん!』


 金羊が警告する。と、背後からそれはやって来た。

 月子は目を瞠る。

 それは、廊下一杯を覆う巨大な水の蛇だった。


(――ひッ!)


 月子の脳裏に、トラウマがフラッシュバックする。

 ――そう。父と母を失ったあの日の事故の記憶が蘇ったのだ。


『月子ちゃん! 下の階に跳ぶっス!』


 金羊が叫んだ。そこは丁度、階段へと続く場所だった。

 月子は、反射的に下に跳んだ。

 直後、水の蛇が、月子がいた場所へと襲い掛かってきた。

 大きなアギトが、その場に残したランドセルを、バクンッと呑み込んでいく。

 まさに間一髪である。月子は下の階に着地。たたらを踏みつつ、そのままさらに下の階層へと降りていこうとするが、


「――ひッ!」


 そこで、思わず息を呑んだ。

 さらに下へと続く階段。そこが浸水状態だったのである。

 まるで海のようだ。月子は足が竦み、それ以上は進めなかった。


『月子ちゃん! 廊下の方に逃げるっス!』


「は、はい!」


 金羊の指示に従い、その階の廊下の方へと走る。

 どうやら、あの敵の男は水系統の引導師のようだ。

 しかも、これだけの規模。相当な技量と魂力の持ち主である。


(多分、水で覆ってんのは、この階の上下だけとは思うっスけど……)


 金羊は、内心で舌打ちした。よりにもよって水系統とは。


(……月子ちゃん)


 明らかに、少女は怯えている。

 きっと両親を失った海難事故を思い出しているのだろう。あの男もそれを理解している。彼女のトラウマも利用した強固な『檻』だ。

 その上、ここは九階。容易に窓から飛び降りられる高さでもない。

 完全に袋小路状態だった。


(……ご主人)


 金羊は、真刃の位置を確認する。

 まだ遠い。まだ五分はかかる距離だった。

 この階層だけで、五分も逃げきるのは不可能である。


(どうすればいいんスか……)


 金羊が悩んでいると、


「……金羊さん」


 月子が声を掛けてきた。


『どうしたっスか? 月子ちゃん。やっぱり怖いっスか?』


「……怖いです。けど」


 月子は、スマホの前で手袋グローブを掲げて告げた。


「これの使い方を教えてください」


『え?』金羊は目を剥いた。『た、戦う気なんスか!?』


 そう尋ねると、月子は青ざめつつも頷いた。


「逃げるだけじゃダメなの。燦ちゃんが攫われている。あの人から居場所を聞き出さないと」


『……月子ちゃん』


 金羊は、茫然と月子を見やった。

 彼女が怯えているのは一目瞭然だ。

 謎の敵に加えてトラウマ。本当は、この場で膝を抱えたいぐらいだろう。

 けれど、それでも彼女は戦おうとしている。


 ――そう。友達を救うために。


『……月子ちゃああん』


 金羊は涙した。スマホ画像の羊は号泣である。


『やっぱり、君こそが肆妃の器っスゥ!』


「……え? よんひ?」


 月子は、青い顔色のまま目を瞬かせた。

 一方、金羊は涙を拭い、


『いずれ分かるっス! 大丈夫! 君は幸せになれるっスから! 間違いなく溺愛されるっス! いっぱい愛されるっス! けど、そのためにも!』


 金羊は「キリッ!」の文字をスマホにポップアップさせた。


『あいつをぶちのめすっス! 反撃っスよ! 月子ちゃん!』

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