第94話 思い出は今もここに②
時は現代に戻る。
広大な敷地を持つ、火緋神家の本邸。
その最奥には一つの屋敷があった。
御前さま。すなわち杠葉のみが一人で暮らす日本家屋だ。
個人で暮らすには大きすぎる屋敷でもある。
――すうっ、と。
緋色の着物を纏う火緋神杠葉は、鏡台から髪飾りを取り出した。
鈴蘭を模した白い髪飾りだ。
それを胸元に寄せて、そっと握る。
杠葉が今も大切にする彼からの贈り物だった。
これを貰った時の喜びは、今でも忘れたことはない。
(……真刃)
双眸を細める。
最近、彼のことをよく思い出す。
彼と過ごした少女時代。
杠葉にとって、今も色褪せない幸せな日々。
いつも笑って、我儘ばかりを言って。
――そう。自分は、本当に我儘な娘だったと思う。
特に彼に対しては。
全身で体当たりしたような愛の告白。
何度も何度もぶつかって、ようやく受け入れてもらった。
頑固でひねくれ者だった彼を根負けさせたのである。
これもまた、我儘で押し切った形だった。
それから一緒に日々を過ごして、彼と迎えた初めての夜。
あの夜は、当然、緊張していたこともあるのだが、それ以上に自分の悪癖のせいで、彼にとても迷惑をかけてしまった。
これまで悪癖など気にもしていなかった分、本当に申し訳なかった。
彼は『気にする必要はない』と、何度も、彼女の髪や頬を撫でてくれた。
自分はといえば、そんな彼にやはり甘えてしまった。
……まあ、あの悪癖だけは、その夜の内に頑張って直したのだが。
その後、少し遅れて紫子が彼の隷者となり、さらに一年後、紫子も彼に愛されるようになった時は、複雑な気分なったこともよく憶えている。
(結局、嫉妬していたのね。私は……)
小さく嘆息する。
それが、引導師の宿命だと分かっていても。
彼を独占できなくなったことに、自分は嫉妬していたのだ。
(本当に、過ぎ去った日ばかりが記憶に残るのね)
杠葉は、鏡台に髪飾りをしまった。
唐突に現れた、今代の『久遠真刃』。
やはり、『彼』の存在に心が乱されているのだろう。
(これは、早目に『彼』と面談すべきね)
正体が知れないから、落ち着かないのだ。
一度、適当な理由をつけて『久遠真刃』を呼び出せばいい。
それである程度は正体を探れるはずだ。
(そう。ただの同姓同名だったってこともあるのよ)
下手な考え、休むに似たる。
そんな結果で終わる可能性は、大いにあり得るのだ。
「そこはまた大門さんと相談しましょう。それよりも」
杠葉は、そそくさと茶の間へと向かい、羊羹を用意した。
今日は来客がある。
可愛い孫娘たちが遊びに来るのだ。
京都の名店から取り寄せたこの羊羹は、孫娘たちの好物だった。
杠葉はお盆に乗せて、私室に羊羹とお茶を運んだ。
この屋敷には、一族の直系であっても近づくことを禁止している。
しかし、燦と月子だけは別だった。
あの子たちにだけは、いつ来てもいいと伝えていた。
屋敷の出入りに関しても、自由にしていいと告げている。
そして先日、今日の夕方頃に遊びに来ると、スマホ――杠葉は真刃と違って独力でスマホもPCも使いこなしていた――に連絡があった。
そろそろその時間だ。杠葉はそわそわしながら孫娘たちの来訪を待った。
すると、
「……御前さま」
不意に襖の向こうから声を掛けられた。月子の声だ。
襖の奥に見えるシルエットから、燦もいることが分かる。
「……お邪魔してもいいですか?」
「ええ。構わないわ。月子ちゃん。燦も」
杠葉は、ほがらかに笑ってそう答えた。
襖がゆっくりと開かれる。そこには制服姿の月子と燦の姿があった。
「いらっしゃい。二人とも」
そう答える杠葉だったが、ふと気付く。
燦の様子が少し変なのだ。
「あら」
杠葉は尋ねた。
「どうかしたの? 燦」
……十分後。
燦の様子はおかしいままだった。
羊羹には見向きもせず、無造作に両足を投げ出して、ポーっとしている。
火照った顔で、虚空をただただ見つめているのだ。
完全に心ここにあらずだった。
「……本当にどうしたの?」
杠葉は眉をひそめて、羊羹を上品に口にする月子に尋ねた。
月子は羊羹を咀嚼してから、
「その、実は燦ちゃん」
そう切り出して、おっとり少女は少し困った表情を見せた。
「好きな男の人が出来たみたいなんです」
「――まあっ!」
杠葉は、手を口に当てて目を丸くした。
「あのお転婆な燦に好きな人が!」
月子は「はい」と頷いた。
「一週間前にあった人です。燦ちゃんが凄く困っていた時に助けてくれた人で……」
そこで、月子は燦の方に目をやった。
「その人と別れた時は、まだ普通だったんです。けど、ここ数日ぐらいであんな感じになっちゃって……」
月子は困った顔をした。
「もう上の空で。何もしない時はずっとあんな感じで」
「あらあら~」
杠葉は興味深そうに、燦の方を見つめた。
「なるほど。燦の初恋なのね。けれど、燦は一体何に困っていたの?」
「えっと、それは……」
月子は眉を寄せつつ、一週間前の出来事を語った。
月子のために霊具を探して『
そこで出会ったおじさまのこと。
燦が暴走して、そのおじさまが体を張って燦を落ち着かせてくれたこと。
燦の悪癖を初めて聞いて、これも一族の血なのかと、杠葉は内心では冷や汗を流す気分だったが、その騒動が無事に終息して安堵の息を零す。
「……そんなことがあったの」
「はい。多分、おじさまは雷電系の引導師だったんだと思います」
「……確かにそうかもね」
杠葉は、燦に再び視線を向けた。
燦は、未だポーっと座り込んだままだった。
「それで、その『おじさま』に燦は心を奪われてしまったのね。数日経って、それを徐々に自覚してきたってことかしら」
「そうだと思います」
月子は頷いた。
「けど、おじさまは、凄く年上の人で流石に……」
「あら。何を言っているの。月子ちゃん」
杠葉は、クスクスと笑った。
「恋に歳の差は関係ないわ。私の初恋の人も結構年上だったもの」
と、呟いた瞬間、
「――ひいお婆さまも、おじさんと恋をしたの!?」
唐突にスイッチの入った燦が、目を見開いて喰いついてきた。
杠葉は、少し苦笑を浮かべた。
「……彼は、そこまでおじさまではなかったけれど……」
そう呟くと、月子まで興味津々な眼差しで杠葉を見つめてきた。
二人の瞳が『聞かせて』と訴えかけている。
やはり二人とも少女である。恋の話が大好きなようだ。
思わぬ展開に杠葉は少し困ってしまう。が、
「……そうね」
自分が、彼の名前を口にするのはおこがましいことだ。
自分には、もうその資格はない。
けれど、彼との思い出は杠葉のモノでもある。自分の宝物だった。
それを未来に生きる少女たちに語るぐらいはいいだろう。
それぐらいなら、きっと、彼も許してくれるような気がした。
「……うん。いいわ」
そうして杠葉は微笑んだ。
「じゃあ、話してあげましょうか。お婆ちゃんの初恋の話を」
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