第三章 太陽の娘。月の少女

第85話 太陽の娘。月の少女①

 そこは、まさに死と隣り合わせの場所だった。

 ――見渡す限り『青』。

 群青なる世界。


 青く、白く。

 何より凍えるほどに冷たい。


 絶えず、水の猛威が襲い来る場所だった。

 逃げても逃げても、水が迫ってくる。

 無慈悲なる激流だ。

 沢山の人たちが、呑み込まれた。

 為す術もなく、青い悪魔に呑み込まれていった。

 悲鳴も、怒号も、何もかも。

 そして、彼女の命もまた、呑み込まれそうになっていた。

 ガバッと、水面から顔を出す。


(だ、誰か……)


 必死に手を伸ばすが、何も掴めない。

 ここは、太平洋の上だった。

 場所は豪華客船の船内。

 豪華客船プリンセス=ルシール号の船室の一つだった。

 本来ならば、三ツ星ホテルにもそう劣らない内装の部屋だ。


 けれど、今はもう見る影もなかった。

 家具や調度品は流され、海水が天井近くにまで浸水していた。


(た、助けて……)


 ゴボゴボ、と何度も水中に沈みつつ、彼女――蓬莱月子は涙を零していた。

 二週間かけての船旅。

 普段は、財閥の総裁として非常に多忙である父と、その秘書である母が、彼女のために用意してくれた旅行だった。

 月子は喜んでいた。父は、船上でもテレワークなどで忙しかったようだけど、それでも彼女が近づくと、優しく頭を撫でてくれた。

 母はドレスアップして、彼女を船内の様々なアミューズメントに連れて行ってくれた。

 九歳の娘がいるとは思えないほどに若く美しい母に、沢山の男の人が視線を送ってきたり、声を掛けたりしてきて少し困った。母は苦笑いを浮かべ、月子も笑った。

 寂しい日々を過ごすことの多かった月子だが、家族仲は決して悪くなかった。

 だから、この旅で、彼女は目一杯、両親に甘えるつもりだった。


 だというのに――。


(だ、誰か、助けて……)


 大量の海水に、体温と体力が奪われていく。


『――月子! 逃げろ!』


 父の声と、最後の姿が脳裏に浮かぶ。

 鉄砲水のような海水に、父と……母も呑み込まれてしまった。

 本当に、あっという間だった。

 まるで巨大な怪物が、喰らい去っていったかのように。

 彼女は、パニックを起こした人たちの流れに巻き込まれて、ここまでやってきた。

 後で知ったことだが、客船の機関部に不備があり、爆発を起こしたらしい。

 船体には一気に海水が流れ込み、巨大な船は悲鳴を上げた。


 総勢二百五十三名が亡くなる最悪の海難事故。

 それが、この地獄なのである。


 海水に沈んでいく船体の中で、月子は茫然自失になっていた。

 家族を目の前で失ったのだ。それも無理もないことだ。

 絶望で動けなくなってしまった少女。

 それでも、今の瞬間まで生き延びることが出来たのは、親切な老紳士がいたからだ。


『お嬢さん! しっかりなさい!』


 彼と出会ったのは偶然だった。

 老紳士は、誰かを探しながらも月子の手を引き、何度も何度も励ましてくれた。

 けれど、そんな彼とも途中ではぐれてしまった。

 再び一人になった月子は、迫りくる海水から逃げ続けて、ここに至り……。


 ――ゴボゴボゴボ……。

 もう体力が持たなかった。


 月子は、水の中へと沈んでいった。

 海水越しに天井が、少しずつ離れてく。


 と、その時だった。

 突然、太陽が現れたのだ。


 熱波が周囲に降り注ぐ。

 海水は一瞬で干上がり、月子の髪も、着ていた服も乾く。

 それから、腕を強く掴まれた。


『おひいさま! お気を付けください!』


 誰かの声が響く。

 いや、この声は、あの親切なお爺さんの声だ……。


『水を大量に気化させれば、水蒸気爆発が起こる危険性もありますぞ!』


『すいじょうき? 何それ?』 


 次いで、少女の声が聞こえた。


『水を気化させる際に生じる体積爆発のことです。恐らく、おひいさまは、それさえも蒸発させたようですが……』


『燃えたの? ならいいじゃない! もう山岡! 難しいこと言わないで!』


 そんなやり取りが聞こえてくる。

 少女の声はかなり幼い。多分、月子と同い年ぐらいだ。


(……?)


 月子は、ゴホッと海水を吐き出し、自分の腕を掴む人物に目をやった。

 すると、


『あ、大丈夫だった?』


 彼女は、ニコッと笑った。

 そこにいたのは、やはり月子と同い年――九歳ぐらいの少女だった。

 長く艶やかな赤い髪。毛先に行くほど明るいオレンジになるその赤髪を、腰まで下ろし、真っ赤なリボンで分岐させるかのように、左右で結いだ女の子。

 身に纏う赤いドレスが、とても良く似合っている。

 瞳もやや赤く、活発そうな眼差しの、凄く綺麗な少女だった。


 そして、彼女の傍らには、途中まで月子を助けてくれた老紳士がいた。


『お、お爺さん?』


『どうにか間に合ったようですな。お嬢さん』


 ホッとした表情を見せる老紳士。

 月子は、視線を少女の方に向けた。


『あ、あなたは……?』


 続けて少女にそう尋ねる。と、


『あたし? あたしはさんだよ!』


 そう名乗って、少女はニコッと再び笑った。

 まるで太陽みたいな子だと思った。

 これが、彼女との出会い。

 蓬莱月子ほうらいつきこと、火緋神燦ひひがみさんの、初めての出会いだった。


『おひいさま。危機はまだ去っておりませんぞ』


 と、老紳士が告げる。

 どうやら、彼はこの少女の執事的な人らしい。

 燦は、月子の手を取って立たせると『分かっているわ!』と叫び、


『さあ! 逃げるわよ!』


 そう言って、月子の手を掴んだまま走り出した。

 そうして――……。

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