第3部 『太陽と月の姫』

プロローグ

第77話 プロローグ

 炎が舞った。

 巨大なアギトを開いた火竜だ。

 それが、怪物の肩に喰らいつく。並みの我霊ならば、それだけで焼失する。

 しかし、目の前の怪物は、仰け反るだけで火竜の一撃に耐えた。


 途方もない。

 本当に、途方もない怪物だった。


 その灼岩の体躯は、山よりも大きく。

 全身には火を纏い、牡牛のごとき角を持つ巨獣。

 後世において、《千怪万妖センカイバンヨウ骸鬼ガイキノ王》と呼ばれる怪物だった。

 けれど、は一度もその名で呼んだことはない。


(……真刃)


 心の中で、彼の名を呼んだ。

 飛翔する。

 真紅に変わった彼女の長い髪が揺れた。

 彼女は今、裸体の上に、炎の天衣を纏っていた。

 そして手には、柄の長い岩を削り落として造ったような赤い刀身の剣。


 ――神刀 《火之迦具土ひのかぐつち》。


 神の名と力を宿した、一族に伝わる神威霊具。

 彼女の運命を決めた一振りだった。

 後に、彼女は何度も何度も思うことになる。

 この剣さえなければ、こんな結末にはならなかったのではないか。


 彼は最強だった。

 いかなる引導師であっても彼には勝てない。

 それこそ神器でも用いて、それと契約できる人間さえいなければ……。

 だから、この剣さえなければ、自分が彼と戦うことはなかったのではないか。

 それを何度も考えた。


 ――そう。帝都など放っておけば良かったのだ。


 一族の責務も、どうでも良かった。

 彼は、愛する人を無残に奪われて、哭いていた。

 そんな彼に寄り添い、共に生きることこそが、自分のすべきことではなかったのか。

 決して消えない後悔と、どうしようもない消失感。

 そんな胸中で、彼女は何度もそう思った。


 けれど、それは未来のことだ。

 今、この瞬間、彼女が選んだ道は帝都を守ることだった。

 無辜の民を救うため。

 一族の使命を果たすため。

 彼を討つ。その大義名分なら幾らでもある。

 いかなる理由があろうとも、彼のしたことは、引導師として、決して許されざる得ないことなのだから――。


 ――ゴウッッ!


(――ッ!)


 その時、巨獣が、アギトから赤光を撃ち出した。

 彼女は空中を高速飛翔して回避する。空を切った赤い光は帝都の一角を薙ぎ払った。

 直線状に火柱が噴き上がった。

 彼女は、グッと唇をかむ。

 このままでは帝都が壊滅する――と、思ったのではなく、を抱いてしまったのだ。

 彼は、本気で彼女を倒そうとしている。

 それは、彼女の命よりも、あの少女の仇を討つことを優先しているということだった。


『もう。真刃さんは、ダメな人ですね』


 彼女は、彼によくそう告げていた。

 自分の従者でもあった少女。

 同じ人を愛し、友人でもあった彼女の笑顔が、脳裏によぎる。

 彼の腕を幸せそうに掴み、寄り添う彼女の笑顔が。

 ずっと。

 内心では、ずっと思っていたのだ。

 彼に最も愛されているのは自分ではなく、やはり彼女の方であって――。


(………私は)


 静かに、柄を強く握った。

 天を衝くような巨大なる獣。

 あの姿こそが、あの少女への愛の深さそのものだった。

 仮に自分が命を奪われたとして。

 彼は、あの姿を見せるだろうか。

 帝都を滅ぼしてしまっても構わない。

 そう思うほどの激しい怒りを抱いてくれるのだろうか。

 嫉妬が、不安が、胸中を灼く。心が乱され、迷いを抱く。


 と、その時だった。

 唐突に、大地が鳴動したのだ。

 いや、それだけではない。巨獣自身も大きく震えていた。全身に這う溶岩流が赤く輝き始めている。かつてないほどの魂力が収束されていた。

 彼女は息を呑んだ。


(――《災禍崩天》!)


 それは、彼の最強の術だった。

 見たのは、ただの一度だけ。

 けれど、決して忘れられない。天さえも撃ち抜くような劫火を四方へと解き放つ術。もはや天災としか言い表せれない恐るべき術だった。

 あんなものを使えば、帝都が丸ごと焼失してしまう。


「――真刃ッ!」


 彼の名を呼ぶが、巨獣は答えない。

 もう迷っている暇はなかった。

 ここで止めなければ、この戦い自体、何の意味もないものになってしまう。

 こんなにも辛いのに。

 哀しいのに。泣きたいのに。

 それが、全く意味のなさないものになってしまう。

 彼女は覚悟を決めた。

 神刀の刀身に片手を添えて、自分の前にかざした。

 もうこれしかない。


「御身の巫女が願い奉る! ここに威を示めされよ! 猛き火の神よ!」 


 途端、神刀が赤く光り輝いた。

 まるで太陽のごとく、大いなる光と炎で周囲を照らした。


 ――それは、彼女の切り札だった。

 神刀の威を解放した、人の身では決して辿り着けない天上の力だ。


 剣を天にかざす。

 刀身からは業火が噴き出し、巨大な炎剣と成った。

 彼女は、それを振り下ろす!

 迫りくる炎の巨剣を、灼岩の怪物は静かに見据えていた。

 そうして――……。




 ――バシャアアァ……。

 真冬にて、凍えるような水が飛散する。

 禊用の薄布を纏った彼女の肢体に、水が余すことなく被さった。

 彼女の長い黒髪にも滴り、水が流れていく。

 そこは大きな浴場だった。

 檜風呂が、印象的な和の浴場だ。

 そして、そこにいるのは一人の女性だけ。

 途方もなく美しい女性だった。

 歳の頃は十八歳ほど。腰まで伸ばした黒髪が印象的な女性だ。

 豊かな双丘に、引き締まった腰。しなやかな四肢。水によって張り付いた、薄布を纏う肢体もまた美しく、女性として完璧なほどのプロポーションを持っていた。

 そこには、かつて帝都を救った少女が、全く変わらない姿で存在していた。


(……あれから百年)


 桶に水を溜めて、再び体にかける女性。

 彼女の黒い眼差しは、とても辛そうだった。


(……そう。百年。私は、あの日から、時の牢獄に閉じ込められた)


 それは、神刀との契約の副作用だった。

 契約して初めて気付いたことだ。

 神の名を冠する神威霊具と契約した使い手は、もはや人とは呼べなくなる。

 膨大な魂力を得ると同時に、《半人半神》とも言える存在へと化すのである。

 だが、それは神の祝福ではない。むしろ呪いのようなものだった。 


 人の世で、人の時から取り残される。

 親しき者。愛しき者。そのすべてが彼女よりも先に逝ってしまうのだ。

 父も。母も。弟も。甥も。姪も。友人も。

 あまりにも辛くて。

 いつしか、彼女は長として一族を守りつつも、自分の顔は隠すようになった。

 いや、顔だけではない。

 自分の名前も、正確な素性も。その変わらない姿も。

 すべてを薄布で隠し、ただの高齢の老人のように演じてきた。

 それが、今の彼女の生き方だった。


(私が望むのは人の世の平穏。そして、火緋神の子供たちの繁栄)


 それだけを考えていた。

 だというのに、先日のことだった。

 まさか、まさか、今になって彼の名前を聞くことになるとは思わなかった。


 あの『久遠真刃』の名を。

 その名を知っている者は、もうほとんどいない。

 彼の存在を詳しく知るのは、もはや自分と天堂院九紗ぐらいだろう。


「……偶然なの? いえ、もしかすると……」


 彼と同じ血を引く者がいるのかもしれない。

 あの頃、彼が愛した女性は、自分とあの日亡くなった彼女だけ。

 そのため、彼の直系とは考えにくいが、親族でないと言い切ることも出来なかった。

 彼の父親は、当時行方不明だったからだ。

 第二の骸鬼王の出現を危惧し、火緋神一族は父親の行方を追ったのだが、結局、居場所を知ることは叶わなかった。もしかしたら、その血が今も受け継がれているのかもしれない。

 今代に現れた『久遠真刃』を名乗る者。

 久遠家の血縁者の可能性は捨てきれない。だとしたら憂慮すべき事態だ。

 ただ、同時に、彼女は思った。

 もしも、本当に、彼の血族なのだとしたら……。


「あなたと同じ血を引く人に……たとえ、それがただの残影だったとしても……あなたに、あなたに、もう一度だけ……」


 逢えるの……。

 思わず零れ落ちそうになったその台詞を、グッと呑み込む。

 その台詞を吐く資格は自分にはない。

 あるはずもない。

 強く、そう自制した。

 彼女は瞳を閉じると、三度、桶に水を注いで肢体にかけた。

 水が大きく飛散して流れていく。


 ――火緋神ひひがみ杠葉ゆずりは


 百年前、滅びゆく帝都を救った火緋神の巫女。

 今代の火緋神家においては『御前さま』と呼ばれる者。

 彼女の名を知る者は、もはや一族にはいない。

 だが、彼女もまた知らないことがあった。

 思うはずもなかった。

 かつて誰よりも愛した男が、今代に蘇っているなどと――。

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