第73話 怪物たちは躍る⑦

 ……はあ、はあ、はあ。

 その時、天堂院七奈は、息を切らせていた。

 場所は氷壁の頂上。百メートルにも届く氷壁をようやく登り切ったのだ。

 吐く息が白い。《餓者》の肩を掴む手もかじかんで、すでに感触が薄かった。身体能力や代謝機能は魂力で強化しているが、それでも寒さは防げなかった。


 だが、ようやくここまで来た。

 ここからなら、戦場のすべてが見渡せるはずだ。


 七奈は、強化した視力で眼下に目をやった。

 必死に少年の姿を探すと、


「――ッ!」


 息を呑む。

 恐らく二キロほど先か。そこに、巨大すぎる氷の怪猫の姿を見つけたのだ。


(《雹魔ノ猫》ッ!)


 八夜の象徴シンボル独界オリジンを最大顕現した時の姿だ。

 やはり、彼は全力を出している。

 だが、その相手とは――。


「……あれは、何?」


 思わず、そう呟いた。

 《雹魔ノ猫》と対峙するのは、二足歩行の巨大な灼岩の巨獣だった。

 しかも、怪猫よりも巨大な怪物である。そしてあの怪物の影響なのか、二体がいる周辺は、氷河と溶岩が混じり合ったような、奇妙な世界と化していた。


「あれは、一体何なの?」


 象徴化身シンボリック・ビーストなのは分かる。

 しかし、あんな怪物は見たことがない。

 自分の兄弟たちは、七奈以外、全員が象徴シンボルを発現させることが出来る。けれど、兄たちの中にもあんな象徴を持つ者はいなかった。


 ――果たして何者なのか……。


 と、そうこうしている内に、八夜――《雹魔ノ猫》が、巨獣に跳びかかった。

 巨大で鋭利な爪で引き裂こうとするが、全身を黒い鎖で縛られた灼岩の怪物は、襲い掛かってきた怪猫の喉を捕えると、そのまま頭上へと抱えあげて放り投げた。

 氷に溶岩、周囲の木々も吹き飛んで、巨大な猫がバウンドする。

 ここからでは分からないが、恐らく地響きさえも起こしているはずだ。


「――八夜くん!」


 顔色を変えて、七奈は少年の名前を呼んだ。

 すると、聞こえている訳ではないだろうが、怪猫はすぐさま立ち上がった。

 背中の蛇腹剣を逆立てる。無数の氷刃が、まるで大蛇のように鎌首をもたげた。

 そして次の瞬間、灼岩の巨獣に襲い掛かる!

 ――が、


 ――ゴウンッッ!

 巨獣が右腕を薙いだ途端、爆炎の華が咲いた。

 劫火の壁が、巨獣の前に展開される。

 氷の蛇腹剣は、次々と爆炎の渦に呑み込まれていった。


 次いで、巨獣はアギトを大きく開いた。

 七奈は目を瞠った。


 ――ゴウッッ!

 怪物のアギトから、灼熱の光が放出されたのだ!

 爆炎さえも貫いて、赫い閃光が《雹魔ノ猫》へと迫る!

 だが、それに対して、怪猫の動きは迅速であった。


 怪猫が、ズズンッ、と巨大な右手を地面に叩きつける。

 途端、怪猫の前に、山のような氷柱が立ち上がった。

 それも、襲い来る赫光の射線上に連なる山脈だ。

 巨獣が放った赫光は、氷の山脈を次々と溶解させていった。

 だが、それでも停滞はさせている。

 氷の怪猫は、その場から巨体を跳躍させた。

 赫光が山脈を貫いた時には、怪猫は別の場所へと移動していた。

 七奈は、ホッとしつつも、冷たい汗を流した。


「……あの八夜くんが、押されているの?」


 信じがたい光景だった。

 八夜は、間違いなく全力を出している。

 だというのに、あの灼岩の巨獣は、八夜の象徴を圧倒しているのだ。


 ――ゴオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオッッ!


 怪猫が、アギトから吹雪を吐き出した。

 雹も混じった死の息吹だ。

 それは、巨獣の胸部に直撃するが、灼岩の怪物はわずかな停滞もなく、ズズン、ズズンッと前へと進み、大きく拳を振りかぶった。

 隕石を思わせるような巨大な拳が、《雹魔ノ猫》の頭部を殴打する!


 アギトは閉じられ、怪猫は大きく吹き飛んだ。

 怪猫は、巨体とは思えない身軽さで回転。四肢で地面に着地すると、再び跳躍。前転の要領で三本の尾を巨獣に叩きつけた!

 流石にこれは効いたのか、巨獣は大きく重心を崩した。

 しかし、灼岩の巨獣はまさしく怪物だった。すぐさま右手で怪猫の尾の一つを掴むと、片腕だけで《雹魔ノ猫》の巨体を振りかぶり、大地へと叩きつけたのである。


「――八夜くんっ!」


 七奈は口元を両手で押さえて、目を剥いた。

 大地が大きく陥没し、大量の土砂と氷片が噴き上がった。

 大地の鳴動が、自分がいる氷壁にまで伝わってきた。

 立ち昇る土砂と氷片のせいで《雹魔ノ猫》の姿も、灼岩の巨獣の姿も見えなくなった。

 七奈は青ざめた。


「――《餓者》! 急いで!」


 自分の封宮の住人に命ずる。

 鎧武者は、七奈を肩に乗せたまま、氷壁を降りていく。

 八夜の元へと向かうためだ。


(八夜くん! 八夜くんっ!)


 七奈は、泣き出しそうな顔で《餓者》の肩に掴まっていた。

 八夜が、何と戦っているのかは分からない。

 だが、これだけは、はっきりと分かる。

 あれは、絶対に手を出してはいけない相手なのだと。

 いかに八夜であっても、あのままでは――。


「《餓者》! 《餓者》! お願い! もっと急いで!」


 七奈は必死に叫ぶ。

 このままでは、彼を失ってしまう。

 そのことに、どうしようもない焦燥感と恐怖があった。

 物言わぬ《餓者》は、ただ動きだけを早くした。

 だが、それでも氷壁の下まではまだ百メートル近くもある。

 戦場までは、さらに二キロだ。

 遠い。あまりにも遠すぎた。


 ――ズズゥンッッ!

 再び、激しい衝撃音が耳を突いた。

 またしても、大量の土砂が噴き上がる光景が目に焼き付いた。


「八夜くんっ!」


 七奈は叫んだ。


「嫌だよっ! 死なないでッ! 八夜くんッ!」

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