幕間二 天使の仮面

第56話 天使の仮面

 夜遅く。とある広い和室。

 そこには今、重い静寂が訪れていた。

 そこに呼び出された高間洋一は、だらだらと汗を流してた。

 両手を床につき、ポタポタと畳に汗が零れ落ちる。

 これも失態にならないかと、不安で押し潰されそうだった。


「か、重ねて、申し訳ありません……」


 その言葉だけを、どうにか絞り出す。

 天堂院家に従う家。

 系譜術こそ会得しているが、天堂院家には遠く及ばない弱者の家系。

 一応はその当主である高間は、ひたすら土下座をしていた。

 相手は、上座に座る天堂院九紗。

 そして、その傍らに控える天堂院壱羽である。

 二人は、無言で高間を見据えていた。


「……父上」


 視線を父に向けて、壱羽が口を開く。


「高間に、さほど落ち度はないと思われます」


「ああ、分かっておる」


 肘を膝の上に突きつつ、九紗が言う。

 その言葉に、高間はホッとした。

 滝のような汗だけは、一向に収まらなかったが。


「高間。もう下がってもよいぞ。今回の件は不問だ。お前の班にも責は問わぬ」


 九紗に命じられ、高間はガバッと顔を上げて「あ、ありがとうございます! で、では失礼いたします!」と答えた。

 緊張で今にも崩れ落ちてしまいそうな体を奮い立たせて、高間は歩き出した。

 和室を出る際に、一瞬だけ残ったもう一人の人物を見やる。

 天使のような少年は、ニコニコと笑ってた。


「……それでは」


 高間は膝を突いて頭を垂れると、部屋から退室した。

 ここから先は天上の会話だ。自分ごときは関与できない。

 そもそも関与すべきではない。そんな命知らずな真似は出来ない。

 幸運にも、最悪の事態だけは避けれたのだ。

 高間は命が覆される前に、その場から退散した。


 残されたのは三人。

 九紗と、壱羽と、八夜の三人だ。


「……八夜」


 壱羽が嘆息して異母弟の名を呼んだ。


「お前は何を考えている。どうして今回に限って協力など申し出たのだ?」


「え、えっと……」


 八夜は、ポリポリと頬をかいた。


「その……う~ん」


 八夜は少し言葉を詰まらせるが、ここは正直に告げることにした。


「実はね、壱羽兄さんにお願いがあったんだ。お父さんにお願いがあってね。壱羽兄さんには事前にボクに味方になって欲しかったんだよ」


「……願いだと?」


 九紗が呟く。八夜は「うん」と頷いた。

 八夜は九紗を見つめた。壱羽も父に視線を向ける。


「あのね! 実は、お父さんにお願いがあるんだ!」


「……どんな願いだ?」


 興味深そうに、九紗が尋ねる。

 思い返せば、これは八夜の、初めての父への願いかも知れない。

 壱羽も、耳を傾けていた。


「あのね!」


 そして、八夜は笑顔を浮かべて父に願う。


「ボク、七奈ちゃんが欲しいんだ! 七奈ちゃんをボクのお嫁さんにしたいんだ!」


「…………は?」


 微かに瞼を上げて、壱羽はそう呟いた。

 九紗は無言だ。


「あのね! 七奈ちゃんをね! 引導師から解任して欲しいんだ! それで七奈ちゃんにはボクの赤ちゃんを産んで欲しいんだ!」


「……お前は」


 その内容に、流石の壱羽も渋面を浮かべる。と、


「……ふむ、意外だったな」


 初めて、九紗が八夜に対して口を開いた。


「お前が、そこまで七奈に執着していたとはな。どこが気に入ったのだ? あれは魂力がそこそこ高いだけの不出来な娘だぞ」


「何言っているのさ!」


 父の言い草に、八夜はムッとした表情を見せた。


「七奈ちゃんは世界一可愛いんだよ! それだけで充分だよ!」


「……ああ、そうか。そういうことか。八夜」


 壱羽が、八夜に顔を向けて問う。


「七奈に執着していたからこそ、あの娘を殺したのか? お前の苗床だと聞いたから」


「……うッ!」


 異母兄の指摘に、八夜は少し頬を引きつらせた。


「それはさ、ちょっと考えたけど、実際の所はただ手がすべっただけだよ」


「……どうだかな」


 壱羽は、腕を組んで嘆息した。

 すると、九紗が苦笑いを浮かべた。


「まあよい。そう攻めるな、壱羽。確かにあの娘は惜しかった。御影の……の家系らしからぬ高き魂力。もしやあの娘は……と思っていたのだが、どうやら儂の見込み違いだったようだ。この程度で死ぬなど話にもならん。あの娘に関してはもう構わんでいい」


 そこで、八夜を一瞥する。


「むしろ八夜。お前の心境の変化こそ興味深い。好ましく思うぞ。思えば、『あの男』も自分の女に執着しておった」


 ゆえに、あの災厄が起きたのだからな。

 九紗は自嘲する。


「お前が『あの男』に近づくことはよいことだ。よかろう。七奈はくれてやる。好きにするがいい。だが、苗床が七奈一人だけという訳にはいかんぞ」


「ええエ~」


 八夜が嫌そうな顔をした。


「ボク、七奈ちゃんだけでいいよ。なんならもう隷者もいらないぐらいだし」


「それは許さん。隷者の解約も許さんからな。苗床に関しても新たな候補を見繕う。まあ、しばらく期間は空くが……」


 そこで、九紗は壱羽に視線を向けた。

 父の視線を受けて、壱羽は静かに頷いた。


「父上と私は、明日より一月ほど海外出張を予定しております。ようやく例のゲノム研究の成果が上がったそうです。そして――」


 一呼吸入れて、


「三狼は北条家との会合のため、五日ほど留守にします。五蔵は例の探査で手一杯。六炉は未だ行方知らず。四我は……あれ以降、全く本邸に寄りつかなくなっております」


「……ふん」


 九紗は鼻を鳴らす。


「四我め。六炉といい、遅めの反抗期か。まあ、それはよい。しばらくは誰もが忙しいな」


「はい。ですので、留守居役は二葉に任せようと思うのですが」


 と、告げる壱羽に、九紗はかぶりを振った。


「それは却下だ。二葉は儂の傍に置く。先ほど、早速仕込んではみたが、流石にまだ数度程度では儂の子を孕んだ確証はない。しばらくは儂の夜伽に専念させるつもりだ」


「え? 何それ? 初耳なんだけど?」八夜が目を丸くした。


「お父さん。もしかして二葉姉さんに手を出したの? 確かに二葉姉さんは美人だけど、うわあ、お父さんって鬼畜だね」


「ふん。何を言うか」


 九紗は、八夜を一瞥する。


「母体が違えど、姉を手籠めにしたお前に言われたくないな。そもそもお前に倣っただけだ。二葉は七奈と違って優秀だ。理外の『型』を生み出すことも期待しておる」


 そこで、小さく嘆息する。


「だが、そうなると人手がないのも事実だな。七奈は……使えそうなのか?」


 九紗としては、それは壱羽に聞いたつもりだったのだが、答えたのは八夜だった。


「もちろん、大丈夫だよ!」


 ニコニコと八夜は笑って告げる。


「七奈ちゃんはもう元気だよ! こないだは一緒にお風呂も入ったんだ!」


「………なに?」


 壱羽が眉をしかめた。


「八夜? お前、七奈に会っているのか?」


「え? あ……」


 八夜は、慌てて口元を両手で押さえた。

 険しい表情を見せる壱羽をよそに、九紗は興味深そうに八夜を見た。


「これも意外だったな。お前、七奈の心まで落としていたのか?」


「え、えっと……」


 八夜は、少し気まずそうに頬をかいた。


「まあ、よい」


 九紗はふんと鼻を鳴らして言う。


「ならば、留守居は七奈に一任しよう。八夜。お前は儂らが帰国するまで謹慎だ。その後、お前の新たな苗床の選出を行う」


「ええ~」


 八夜が不満の声を上げた。


「ボク、本当に七奈ちゃん以外いらないんだけど。せめて隷者ってことじゃダメ?」


「駄目だ」九紗は無下もない。


「苗床だと言っておろう。これは、もはやお前の義務だ」


「ぶうう~」


 八夜は頬を膨らませた。

 が、すぐに、にぱっと笑い、


「けど、まあいいや! 七奈ちゃんをお嫁さんには出来るんだよね!」


「ああ、それは確約しよう」


「ありがとう! お父さん! 大好き!」


 八夜は天使の笑みを見せた。

 ……相変わらず歪んでいるな。

 末弟も、父も、そしてこの自分も。

 そんなことを思いつつ、壱羽は弟に問うた。


「ところで、八夜。苗床の娘の死体を持ち去ったという男なのだが……」


「ん? ああ、多分、たまたま出くわした引導師じゃないかな?」


 写真を両手で掲げながら、まじまじと眺めて八夜が答える。


? すぐに逃げ出したぐらいだし」


「……そうか」


 少し腑に落ちないが、壱羽は頷いた。


「まあ、死体を処分できなかったのは痛いが、そこから足がつくこともないだろう。気に掛けることでもないか」


「うん。そう。気にしない、気にしない」


 八夜は、ケラケラと笑った。


「それより、ボク、もう七奈ちゃんの所に行ってもいいよね? もう別に隠れてこっそり会う必要もないよね?」


「七奈が、お前を拒絶していないのなら構わんが……」


 壱羽がそう言うと、八夜はにぱっと笑った。


「もちろん大丈夫だよ! むしろラブラブだから! じゃあ、ボク行くね!」


 言って、八夜は浮足立った様子で退室していった。

 七奈との面会を解禁されたこと。

 何より七奈を手に入れたことが、よほど嬉しいのだろう。

 壱羽は、異母妹の歪な運命に少しだけ同情する。

 一方、九紗は、


「……ふむ」


 あごを手に、少し考えていた。


「……父上?」


 壱羽は、父に視線を向けた。


「どうかされましたか?」


「……いや」


 九紗はかぶりを振った。


「八夜の最後の様子が少しばかり気になったが、気のせいだろう。それよりも、明日の出立予定だが、その前に――」


 そう切り出して、九紗と、壱羽は明日についての打ち合わせを始めた。

 一方、八夜は庭園が見える長い渡り廊下を、早足で走っていた。

 向かう場所は、もちろん七奈の部屋だ。

 この結果に、きっと彼女も喜んでくれるはずだ。


「えへへ。やった! これで七奈ちゃんはボクのお嫁さんか。それと――」


 そこで、ふと足を止めた。

 夜空を見上げて、双眸を細める。

 もう一人だけいる独占したい相手。

 あの夜に遭った、黒髪の青年のことを思い浮かべる。


「……お兄さん」


 一目見て分かった。

 あれは自分の同類であると。

 果たして、あの青年は今、どこにいるのだろうか?


「……ふふ」


 八夜は笑みを零した。

 天使の顔ではない。人間味あふれる笑みだ。

 父にも、兄弟たちにも。

 愛しい七奈にさえ見せたことのない顔だった。

 そして、初めて天使の仮面を外した少年は、ポツリと呟いた。


「お兄さん。また遭える日を楽しみにしているからね」

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