第五章 参妃、推参!
第52話 参妃、推参!①
その時、かなたは、入浴から出たばかりだった。
ポカポカとした様子で、寝間着代わりのジャージを着込んでいる。
少し濡れた髪を指で梳いて、彼女は自室にてベッドに腰を下ろしていた。
肩には、いつもの赤蛇を乗せている。
『今日も長湯だったな。お嬢』
「……うるさい」
と、赤蛇の台詞に、ぶっきらぼうに応えるかなた。
その頬が微かに赤らんでいるのは、湯上りのせいばかりではない。
以前のかなたは、カラスの行水だった。
入浴中は隙に繋がる。そのため、シャワーだけで済ますことも多かった。
しかし、このフォスター邸に来てからは、しっかり入浴するようになっていた。
正確に言えば入浴時間は短い。しっかりと体を洗うようになったのだ。
――そう。いつあの人に命じられても応じられるように。
かなたは、やや赤い顔のまま、自分の胸元に片手を置いた。
(とりあえず、私は大切には思われている)
そのことにホッとする。
こないだは、久しぶりにあの人に我儘を言ってしまった。
膝の上抱っこを、ねだってしまった。
あの人は困った顔をしつつも応じてくれた。
不機嫌なかなたの頭を、何度も何度も撫でてくれたのだ。
本当にホッとした。
ただ、今朝の件を経て、少し考える。
――エルナ=フォスター。
妃の長である壱妃。
何とも凄い
それに比べて、今の自分の姿は何だ?
「…………」
無言のまま、眉をひそめる。
色気の欠片もないジャージ姿。
この姿を見て、あの人はどう思うだろうか……。
(……うん。明日にでも)
かなたは、静かに頷いた。
(買いに行こう。
強く決意する。と、その時だった。
不意に机の上が震動した。
マナーモードにしてあるスマホの振動だ。
かなたが手に取ると、真刃からの通話だった。
「……もしもし」
かなたは即座に出る。
すると、スマホから愛しい人の声が聞こえてきた。
『かなたか?』
真刃の声だ。かなたは「はい」と答えた。
「どうかされましたか? 真刃さま」
そう尋ねるかなたに、
『緊急事態だ』
真刃は率直に答えた。
『エルナにもかけたのだが繋がらん。エルナはどうしている?』
「エルナさまは、今は入浴中のはずです」
フォスター邸では決まった入浴順はない。手が空いたものから入浴するのだ。
真刃は『そうか』と呟いた。
『体格的にはエルナの方が近いと思ったが、まあ、かなたでも問題ないだろう』
と、前置きしてから真刃は告げる。
『己は今、秘匿拠点――セーフハウスだったか? その一つにいる』
「……セーフハウスですか?」
かなたがそう尋ねると、真刃は『そうだ』と答えて、そのセーフハウスの場所を告げた。
『そこにお前の予備の服を持ってきて欲しい。己の服も適当に持ってきてくれ。それと食料もだ。特に鉄分を補うものがいい』
「鉄分? 真刃さま。まさかどこかお怪我を?」
かなたが不安そうに尋ねる。
すると彼女の不安を察したか、真刃は優しい声で答えた。
『大丈夫だ。己は負傷していない。だが、負傷した者はいる』
「……そうですか」
少しホッとしつつ、かなたは即座に応じる。
「承知いたしました。エルナさまにもお伝えしましょうか?」
『いや、エルナには己から連絡しておこう。お前は急いでくれ。どうにか持ち直しはしたが、血が足りていないのは確実だ。早く食事をさせてやりたい』
「承知いたしました」
かなたがそう答えると、『では頼んだぞ』と告げて真刃は通話を切った。
『お嬢? ご主人からか?』
「うん。任務」
かなたはそう告げると、ジャージの上を脱いだ。それを赤蛇の上に被せる。
いかにあの人の従霊であっても、ここから先を見ていいのは、あの人だけなのだ。
かなたは、すぐさま制服に着替え直した。
現状、これがかなたの戦闘服だ。この服が最も動きやすいのである。
エルナが、弐妃に相応しい戦闘服を用意中らしいのだが、それはまだ手元にない。
『お嬢。オレも行くぜ』
言って、赤蛇が、かなたの体を登ってくる。
そして赤いチョーカーとなって、彼女の首に巻きついた。
続けて、かなたは、クローゼットから大きなリュックを引っ張り出すと、自分の
次に向かったのバスルームだ。曇りガラスのドアの前で「エルナさま。緊急事態です。出かけてきます」とだけ告げて駆け出した。
「え? かなた?」
エルナの声が浴場の奥から聞こえるが、彼女への説明は真刃がしてくれるだろう。
風呂から上がれば、着信履歴でも分かるはずだ。
かなたは先を急いだ。
まず向かうは、近くのスーパーだ。そこで食材を購入する。
レバー、マグロ、ホウレン草。
鉄分を補うとなると、そんなところだろうか。
かなたは、ありったけの食材を入手すると、それもリュックに詰め込んで、タクシーを捕まえる。ここまでで二十分も経っていない。
「お客さん? どこへ?」
大きなリュックに、セーラー服。
まるっきり家出少女のような姿のかなたに、運転手は目を丸くしつつもそう尋ねた。
かなたは、セーフハウスのある街の住所を告げた。
「急いでください」
そう頼んで、先に一万円札を渡した。
セーフハウスまで行くには、充分すぎる額だ。
「あ、はい。分かりました」
先に金銭を払われたら、文句の言いようもない。
タクシーは発進した。
かなたは走るタクシーの中から、外の様子を一瞥した。
そして、
「真刃さま」
愛しい人の名を囁く。
「どこであっても、すぐに参ります」
リュックを大切そうに両手で抱えて、かなたはそう呟くのであった。
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