第3話 世界の理②

 自室から出ると、良い匂いがした。

 真刃の好む豚汁の匂いだ。エルナの得意料理でもある。

 いや、真刃のために、彼女が頑張って習得した料理と言うべきか。

 色々と彼の好みに合わせてくれるのだ。


(……ふむ。嬉しくないと言えば嘘になるが)


 何とも微妙な気分で真刃は頬をかいた。

 ともあれ、真刃は廊下を進む。

 都内にあるフォスター邸は、平均より大きめのマンションの一室だった。

 その名も『ホライゾン山崎』。

 マンションのくせに、地平線を名乗る奇妙な高層建造物である。

 十階建ての築十年の物件で、エルナはこのマンションのオーナーでもあった。

 齢十四で家賃収入を得る少女。それが、エルナ=フォスターなのである。

 戸籍さえ持っていなかった青年を、拾って養えるのも納得の財力だ。

 真刃としては、実に不本意な事実ではあるが。


(いずれ出て行くとしても、世話になった額は倍で返さねば立つ瀬もないな)


 朝からそんなことを考えている。と、


「おはようございます。お師さま」


 キッチンとも繋がるダイニングに入り、エルナと会った。

 白いセーラー服の上にエプロン。両足には真刃が一目置く黒いタイツ。

 窓から差し込む朝日で銀色の髪が輝く、美しい少女である。

 彼女は、フライパンでスクランブルエッグを作っていた。


「ああ、おはよう。エルナ」


 真刃は、二人分の料理が置かれたテーブルに着いた。

 メニューはやはり豚汁。他には白米とサラダ。そして、たった今、エルナが運んできたスクランブルエッグだ。


「それでは朝ご飯にしましょうか。お師さま」


 言って、彼女もテーブルに着く。

 二人は箸を取り、食事に入った。

 二人とも無言だ。しかし仲が悪いわけではない。

 ただ、食事中は静かに。食材と料理人に感謝を抱いて食べること。

 それが二人の認識だった。

 だからこそ食事が終えたら、真刃は優しい笑みで、エルナを褒め称える。


「うむ。今日も美味かったぞ。エルナ」


 こと食事にかけては、真刃は本当に誠実だった。

 美味い料理を作る料理人を心から尊敬している。技術の発展ぶりに色々と驚くばかりの今の生活ではあるが、中でも料理は最も多彩に発展したのかではないかと思っていた。


「あ、ありがとうございます」


 一方、エルナの顔は真っ赤だった。食事の後、真刃は本当に嬉しそうな顔をする。彼に強い好意を抱くエルナの腕も上がろうというものだ。


『そこで「デザートには私を」と言えんところが、お主の駄目なところだぞ』


 と、告げるのは、いつの間にか顕現していた猿忌だった。


「……猿忌よ」真刃は、眉をしかめた。「朝からセクハラはよさんか」


 それから、エルナを一瞥し、


「すまんな、エルナよ。猿忌の悪ふざけと思ってくれ。それと、猿忌の台詞を真に受けて手帳を付けるのは止めてくれ」


 一心不乱にメモを取る少女に、若干頬を引きつらせる。

 彼女はハッと顔を上げて。


「デ、デザートには私を……」


「いや。実践するのも止めてくれんか」


 真刃は深々と溜息をついた。続けて、おもむろに立ち上がると、キッチンにある冷蔵庫へと向かい、中から一本の缶コーヒーを出した。

 よく冷えている。この冷蔵庫とやらは本当に大したものだ。


「そんなことより、のんびりしていても良いのか? 学校があるのだろう」


「あ、はい」エルナは二階に上がった。


 そして数分後、鞄を持って階段から降りてくるエルナの姿があった。

 日本に来て、初めて購入した時以降、ずっとお気に入りだと聞く黄金の龍のジャンパーも身につけている。彼女は龍やドラゴンが大好きらしい。


「それじゃあ、お師さま」


 玄関先でコツコツと踵を鳴らしてローファーを履き、エルナは告げる。


「缶コーヒーは三本までですからね。守ってくださいね」


「ああ。分かっておる」


 厳しいことを言う少女に、真刃は苦笑した。


「それより、お前も自動車には重々気をつけよ。あれはもはや下手な我霊よりも強力だ」


「はい。分かっています。けど、車なんてどこにでもあるものですよ」


 今度はエルナが苦笑した。

 しかし、そこでエルナは動きを止める。一向に玄関から外に出ようとしない。


(……やれやれ)


 理由は分かっている。

 彼女は、真刃に『行ってらっしゃい』の挨拶を期待しているのだ。

 もちろん、言葉だけではない。スキンシップも込みだ。

 異国の出身ゆえにか、エルナは結構大胆なスキンシップを好んでいた。

 特に『ハグ』と呼ばれているらしい抱きしめる行為など。


(本当に困ったものだ)


 とは言え、このままではエルナが出かけようとしない。

 やむを得ず、真刃はいつも通り、彼女の頭をくしゃりと撫でた。


「気をつけて行ってこい。エルナ」


「はい。私の旦那さま」


 エルナは幸せそうに笑った。ただ、台詞は聞き捨てならなかったが。


「いや待て。エルナ。何度も言うが……」


「それじゃあ行ってきます!」


 しかし、確信犯なのか、エルナは聞こうともしない。

 すぐさま、ドアを開けて飛び出していった。

 真刃はしばしその光景を眺めていたが、


「やれやれだな」


 いつまでも、呆けてもいられない。

 まずは食器の片付け。その他にも洗濯や掃除、食品の買い出しなどもある。

 カシュッ、と手に持った缶コーヒーを開けた。喉を鳴らして一気に飲み干す。

 今回は糖分過多なほどに甘かったが、やはり美味い。

 本当に缶コーヒーは凄い逸品だ。


「さて。そろそろオレも仕事をするか」


『……大分、主夫が板についてきたな。主よ』


 とりあえず、猿忌の言葉は聞こえなかったことにした。

 早速、テーブルの上の食器をキッチンに持って行く。

 こうして、真刃の日常は始まるである。


「さて。今晩用の買い出しは何にするか」


 本当に、主夫が板についた台詞を呟く真刃であった。







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