跳梁するモノ

キロール

目覚めは……

 目覚めたファランは、寝起きのぼーっとした頭で、何でこんなに頭が痛いのかを考えるが、全く分からなかった。

 周囲を見渡しても真っ暗で何も見えず、状況が何一つ思い出せずにいた。


「ここは……?」


 身を起こした途端に金属音が鳴った。

 騎士に与えられた制服の上にガントレットやブーツ、それにブレストアーマーを付けている事を漸く思い出した。

 霞がかかる様な曖昧な記憶にもどかしさを覚えながら、立ち上がるとぬかるみに足を取られて転んでしまった。

 泥の上に転んだのか、ガントレットに覆われた指先がずぶりと沈む。

 妙に粘つくぬかるみが不快だった。


「何でこんな所で寝ていて……それに、頭が痛い……」


 こんな粘ついて、ぬかるんで、酷い匂いの場所で何故寝ていたのか。

 飲めない酒でも無理やり飲まされたか?

 同じ訓練連隊に配属された男達のからかいを思い出して、彼女は心底嫌気がさした。

 しかし、それにしてはあまりに妙だ。

 最近は酒の席など無かった筈だし、何よりこの痛みはまた別の……。


「酷い匂い……」


 だんだんと落ち着いてきたためか、吐き気がする様な、何とも言えない生臭い匂いも一層感じ取り、ますます不快になっていく。


 しかし、落ち着いてくると曖昧だった記憶が少しずつ整理されていくようにも思えた。

 どうして、こんな暗闇で寝ているのかはまだ分からないが、確か国境近くの村……コルラネ村とか言う名前の村に連隊から選抜された部隊の一員として辿り着いたはずだ。

 村人を襲うと言う『獣』の討伐を命じられて。


 その事実に行きついた瞬間にファランは小さく呻き声を上げた。

 獣と言う単語が放つ恐怖、それが何か分らないのに、体が勝手の震え始めていた。

 記憶を取り戻してはいけないとでも言うかのように、頭痛は一層ひどく、匂いの所為か吐き気も酷くなった。


「何が、あったの……?」


 獣の討伐なんて簡単だ。

 皆はそう言って居た。

 選抜された者達は訓練で優秀な成績を収めた者達ばかりで、選ばれた事が誇らしくもあった。


「何かあっても必ず守る」


 出立の前の逢瀬で、ファランと同じく選抜された『あの人』も、優しい声でそう言ってくれた。

 選抜部隊は獣を討伐後は、連隊の者達より一足先に王都に戻れることも決まっていた。

 全てが順調に動き出していた。

 その筈なのに。


 ともかく、ぬかるむ大地が匂いの元らしいと判断すれば、震える体に鞭打ってファランは立ち上がった。

 起ちあがった拍子に少し立ちくらみがして、一歩、後によろける。

 其処もぬかるみが在り、ずぶりと足が埋まるような感覚を覚えた。

 

(どちらかと言えば……何か柔らかい物を踏んだような感触に近い?)


 そんな事を考えて視線を下に向ける。

 暗闇とは言え少しずつ目が慣れてくる。

 地面に何か白い物が転がっている事に気付き、目を凝らす。


「あ……ああ……」


 そこには、同じ部隊の仲間であるアニタの頭が転がっていた。

 自慢だった銀色の髪にべったりと赤黒い何かが付着しており、痛みと恐怖にひきつった顔は、いびつな形で断たれて半分しかない。

 見開かれ濁った瞳から血涙の様な物が零れ落ち、ただただ闇を見上げているかのようだった。

 そして、頭から下は体と呼ばれた残骸が辛うじて繋がっているに過ぎなかった。

 

 ファランの思考は、乱れに乱れた。

 訳が分からない。

 何故アニタはこんな姿になっているのか?

 自分はこんな所で寝ていたのか?

 今踏んづけた物は何だったのか?

 もしかして、それは……それは……。

 嘗てアニタであった物ではないのか?


 其処まで考えが及ぶともう如何にもできなかった。

 えづく様な吐き気に突き動かされたまま、その場で吐いた。

 吐いたが、出て来るものは胃液ばかり。

 喉が焼かれるような不快さを覚えながらも、胃部は痙攣するように震えて何度となく胃液を吐き出させる。


 何度か吐いた頃合いでファランは気付いた。

 鼻梁を伝い流れ落ちる何かがある事を。

 臓物と汚物の匂いに交じり、鉄錆めいた臭いも鼻腔に届いた。

 ずきずきと痛む頭。

 彼女はそっと腕を持ち上げて、止めた。

 このまま傷口に触れば、感染症になる可能性が高いと思い至ったからではなく、額に何故傷があるのか、アニタが何故死んでしまったのか思い出せたのだ。

 正確には、思い出してしまったと言うべき惨劇を。


 燃えるような眼光に射抜かれて、動きを止めてしまったのは誰だったのか。

 二つに割かれ、のたうつ大蛇の様な尾が誰の首を絞めていたのか。

 長い毛に覆われた丸太のように太い前足が、誰の頭を踏み砕いたのか。

 その鋭い爪が、誰の腹を抉ったのか。

 黒い体毛を赤く染めあげて、大きな顎が、無数の牙が誰の腕をかみ砕いて咀嚼していたのか。

 その恐怖を思い出してしまった。


「……ひぃっ……!」


 ひきつったような悲鳴を上げて、思わず口元を抑え、その拍子にファランは身を仰け反らした。

 尻もちをついて、何かを潰したような感触を覚えると共に、ガントレットに纏わりつくぬかるみが放つ酷い匂いに、再び嗚咽と共に胃液を吐き出した。

 喉を焼く酸っぱい様な感覚の不快さなど、今度は感じる余裕はない。


 逃げなくちゃ。

 死にたくない。

 助けを呼ばなきゃ。

 でも、ここは……!


 事の一部始終を思いだしたファランは、先程よりも激しく体が震るわせた。

 声を上げて助けは呼べない。

 獣に気付かれれば一巻の終わりだ。

 

 ならば、自分で動くしかない。

 助かりたいのならば、自分で動くしかないんだとファランは強く思う。

 のだと強く思った。

 だが、足は震えるばかりで中々立てなかった。


 頭の中で繰り返される惨劇の映像。

 笑いあっていた部隊の仲間が一瞬で物言わぬ死体になった、悍ましい衝撃を繰り返し味わう。

 厳しい訓練でも決して挫けなかったアネッサが、一思いに殺してと懇願し、最後は消え入るような声でなおも懇願を繰り返していたその姿を見てしまったのだ。

 また、ファランよりも年下ながら気丈なクリスが、弱々しい声で嫌だとか止めてとしか口に出来なくなり、お母さんと呟くしかできないほどに、精神的に追い詰められたその暴力をみてしまった。

 思い出される光景は、どれも恐ろしく、不快で惨たらしくて、胸が張り裂ける程に悲しい。


「……みんな、死んだ?」


 呆然として平坦な声が自分の物だとファランは一瞬気付かなかった。

 そして、何故自分だけが軽傷で済んでいるのかも分からなかった。

 卑怯にも一人逃げ出したのだろうかと思い、自己嫌悪を覚えたが何かが違う。

 逃げ出せたならば、こんなに被害は出なかったと訴える何かが頭の中にあった。


 逃げ出せたならば。

 まるで逃げる事を阻害されたかのような言葉に、ファランは混乱して、意味も無く左右を見渡した

 頭が、痛い。

 傷口ではなく頭が。

 認めたくない。

 思い出されそうな記憶を。

 

 そして、閃くのはあの絶望の光景と、言葉であった。


 死の残骸の只中で、尻もちをついたまま起き上がれないファランは、先程までの震えとは意味合いの違う体の震えに襲われた。

 

「……そんな……でも……」


 断片的であった記憶の殆どを漸く思い出す。

 獣の襲来時の事を。

 その直後の絶望を。

 ずっと忘れて居たかった裏切りを……。


 獣を狩りだすために山野に分け入り、部隊員同士で密集出来なかった所を獣に襲われた。

 木々の合間を滑る様に獣が駆け、一人、一人とその牙と爪で仕留めていく。

 その間は生きた心地はしなかったが、それでもファランの周囲の者達は、細い山道に辿り着き、円陣を組んで周囲を警戒する事に成功した。

 息が詰まる様な時間が過ぎていく中、徐々に、徐々に生き残りが集結していく。

 狭い山道ではあった為に、幾つもの円陣を組み周囲を警戒しながら村へと退却を始める。

 

 真の絶望はその後に来た。

 村へ戻る途中に、吊り橋の掛かった谷がある。

 獣は村に来る際は別のルートを使うか、谷を下ってくると言う事で、残されていた吊り橋。

 数組の部隊員が円陣を解いて、渡りだす。

 残った者達は周囲を警戒していた。

 何組目か分からないが、ある者達が吊り橋を通りすぎると、徐に吊り橋を支えるロープへ剣を振りかざした。


「お前らが餌になり時間を稼げ!」 


 切ったのは、その声からあの人だと分かった。

 獣の恐怖に何とか耐えていたファランはその衝撃に呆然としてしまった。

 嘘だと叫んだ。

 どうしてとも。


「未来を誓い合ったのに!」


 その言葉は、ファランの物では無かった。

 傍らのアニタの口から放たれていた。

 いや、クリスやアネッサも愛しているのにとか、お金も貢いだのにとか叫んでいたようだった。

 何を言っているの? 彼女たちは何を言っているの?

 訳が分からなくなり、ファランが叫びをあげた瞬間……山野を我が庭としていた獣が横合いから飛び掛かって来た。

 目の前で仲間に裏切られ、再び恐怖に晒された取り残された者達は、バラバラに逃げだした。


 最初の襲撃で獣の爪がファランの額を抉った。

 痛みと恐怖はあったが、感情の爆発がそれを凌駕していた。

 ファランは闇雲に剣を振り、暴れながら逃げ出した。

 

 そして、今に至る。

 立ち上がろうと足掻いていたファランは、力を無くしてへたり込んだ。

 ファランの心を圧し折ったのは、裏切ったあの人の顔を思い出し、自分言囁いた言葉の数々が嘘であった事が分かった事と、部隊の皆の死に様である。

 あの日、愛を囁いたあの口が、死ねと言ったんだと言う乾いた実感。

 腹を裂かれて、生きたまま内臓を貪り食われて、痛みを訴える絶叫と止めてと哀願する泣き声を迸らせて死んだアネッサ。

 守ると言ったあの時の笑顔が、その場限りの嘘であった喪失感。

 ただただ、息の根を止めて喰らう為だけに振われた暴力に心を壊してしまったクリスは、獣に自分の身を差し出して、最後は痛みで半狂乱になりながら果てた。

 彼女たちの恐怖に満ちた眼差しが、心を締め付ける。


(死のう。生きたまま食われるよりは……それに、生き残った所で……)


 ファランは項垂れてていた。

 震える指先が死を求めて腰の方へと延びる。

 絶望のあまりか、既に震えは止まっていた。

 自刃の痛みは一瞬だろうか。

 多少長引こうとも、食われるよりはマシだと思うその刹那に気付く。

 腰に携えていた長剣が無い。


(武器が……ない……)


 抵抗は勿論、自死すらできない事に今更ながらに気付いた。

 ファランは、嫌だよと小さく呻いて、自然と溢れ出た涙をこぼす。

 抵抗する気力がもはやない。

 逃げ出す力も既にない。

 力無く俯くとファランは自身の死も、あの惨たらしい死も間近に迫っていると感じていた。



 だが。

 暗闇が微かに明るくなった事に、ファランは気付く。

 光に照らされた地面に散らばる物を見て、即座に目を瞑ったファランの耳に人の声が響く。


「生存者だ! マリウス殿、生きて居る者が居る!」

「確保を」


 力強い女の声と落ち着いた男の声が響いた。

 暖かさと力強さを感じさせる女の声は、暗闇を切り裂いたかのようにファランは感じたが、実際には彼等が持つランタンの灯りこそが、暗闇に沈む数多の物を浮かび上がらせていた。


 だが、ファランは無意識のうちに気付いていた。

 一方の男の声には、何処か訝しげな、敢えて言うならば疑心が含まれている事に。


 その一事が、彼女に囁く。

 男の方には気を許すなと。

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