字句の海に沈む(中)
*
洞窟は鍾乳洞で横幅は広く、緩やかな下り坂が続いた。
俺とアルカナはお互い持っていた機械式のランプを点け、ゴツゴツした足場を並んで歩いた。
ときおり水滴が落ちる音を聞くだけで、あとはひんやりとした空気が二人を包んだ。
いくつも支洞があったが地図を頼りに最短距離を行く。
俺が天井からぶら下がる鍾乳石にぶつかりそうになったとき、右を歩くアルカナが唐突に口を開いた。
「ねえ、辞書データってどんな形をしているの?」
この様子だとアルカナは辞書データがこの洞窟にあることしか知らなかったらしい。
俺は無償で案内役をやらされているようなものだった。
「いや、どんな媒体に記憶されているかもわからない」
「ふうん、相当大きいデータ量だよね、きっと」
アルカナは右腕がないのにも関わらず、ひょいひょいと軽やかに歩く。水たまりなんかも軽く飛び越える。その度に腰まで伸びている髪の毛が元気よく跳ねた。運動能力が高そうに見える。
「ただし洞窟の一番奥にあるという情報は聞いた」俺はアルカナのように身軽ではないので、より慎重に歩いた。
「それってどれくらいかかるの?」
「えーと、地図が正しければ半日くらいだな」
「そっかあ、意外と小さいんだね、この洞窟」
そのあと俺たちは毒にも薬にもならない会話をしながら奥へ奥へと進んだ。
どうやらアルカナは十年前の戦争の話は避けているようだった。
俺はそれが彼女の右腕がないことに関わっているような気がしていた。
そしてアルカナはまだ自身の目的を話す気もないようだった。
俺はまだ警戒を解いていなかった。
*
洞窟の奥に進むにつれ道幅が狭くなり不安を覚えたが、俺たちはどうにか最奥に着いた。
目的地であるここはぽっかりと円形に開けていて、直径は三十メートルくらいありそうだ。
天井も高く、それがよりこの空間を広く感じさせる。
地図はほとんど正確で十時間程度はかかった計算だ。
しかし問題なのは――
「ねえ、パトス。どこに辞書データがあるの?」
そう、辺りを見渡してもそういった媒体は見当たらない。
あるのは鍾乳石や石柱、水たまり。そういったごく自然のものだけ。
「……ガセだったのか?」
「まあもっと探してみよう」
そう言うとアルカナは縦横無尽に探し出した。
小さく華奢な体つきだが体力はあるようだ。
俺も負けじと懸命に探した。
隠すのに適していそうな岩陰などが無数にあったが、しかし結局どこにも辞書データはなかった。
「――今日はもう遅い。俺はここで泊っていくが、アルカナはどうする?」
「パトスがそうするなら私もそうする。もうへとへとだしね」
アルカナは自身の荷物から簡易テントを取り出すと淀みなく準備した。
さすがにここまで旅をしてきただけあって手慣れている様子だ。
俺も自分のテントを組み立てた。
俺とアルカナはそれぞれの携帯食料を摂取し、簡単な食事を済ませた。
そしてテントでいざ寝ようとしたとき、アルカナはこう切り出した。
「で、なんでパトスは
俺の心臓がどくんと跳ねた。
「……気づいていたのか」
「そりゃ最初からね」
「外見は純粋な人間と何も変わらないと思うんだけどな」
「どうしてか、聞いてもいい?」
「大した話じゃない。そうしなければ死ぬから機械化したんだ。ま、消極的な理由だな」
「ふうん。ケガとか?」
そう尋ねられて俺はアルカナの右腕が脳裏によぎった。
「そうだ。十年前の戦争でやられた。体の二十パーセントは機械だな……アルカナは?」
「私もおんなじ。私はまだ小さかったからよく覚えてないけどさ、どうやら空から爆弾を落とされてドカーンとふっ飛んじゃったらしいんだよね、これが」
アルカナはわざと明るく言っているようだった。
この歳で他人にこう振る舞えるのは並大抵のことじゃない。
「――ねえ、パトス。もうひとつ、聞いてもいい?」
「なんだ?」
「なんでパトスは辞書データが欲しいの?」
やはりそのことか、と思った。
「……俺の身体にあるマスタデータでは不足なんだ」
「不足? どうして?」
俺は適当に嘘でもついておけばよかったのだが、なぜだかそういう気にはなれなかった。
「俺の考える部分――意思決定とかは人間と同じだ。生身の脳みそがやっている。しかし知識としてのデータはマスタデータとして初期登録しておけば簡単にアクセスできるし、計算処理なんかも機械がやってくれる」
「へえ、便利なもんだね」
「でも足りないんだ。俺が持っているデータじゃ、故郷を救えない」
「どういうこと?」
「辞書データ――つまり言葉が自由自在に使えれば、俺の計算処理能力と相まって、俺はなんにでもなれる。要職にも就ける。金が手に入る。そうすれば故郷が救える。もしくは辞書データ自体を売ってもいい。一つの村なんか簡単に救える金額が手に入るはずだ」
アルカナは急に黙りこくった。
聞いておいてそれはちょっとひどい。
まさか寝てしまったのだろうか。
「おい、アルカナ。聞いておいて寝たのか」
「――パトスは言葉ってなんだと思う?」
俺は面を食らった。
少女にこんな質問をされるとは思わなかったからだ。
「……言葉は記号だと、そう聞いたことがある」
俺は学がない。だからこれは受け売りだ。
「うん、そうだね。言葉は記号でありデジタル信号だ。パトスとは相性がいいだろうね。そして言葉を使うのはなにも私たち人間だけじゃない。動物だって使う」アルカナはここで一呼吸置いた。「でもね、動物と人間の言葉には決定的な違いがある。なんだかわかる?」
「……いや、わからないな」
こいつ、何者だ? 少女の口ぶりではない。
「それはね、人間はイメージを固定してそのものごとに名を与えることができる、ということだよ」
「イメージを固定?」
「そう。《トマト》は赤くて酸っぱい植物を指しているし、《白いハト》は平和の象徴だ。記号と意味の関係は恣意的だけれどね」
俺はなるほど、と思った。
確かに言葉を使って物事を固定するというのは人間特有のものだろう。
「もちろん情報の伝達には発信者側の能力によっても縛られるけれど、そもそも言葉と事象が一対一の関係ではないから、受信者側にも依存するわけ。そうして誤解が生じたりするね」
「だんだん難しくなってきたな」
ここで俺は気がついた。アルカナの声はなんだか楽しそうなのだ。
「そもそもさ、パトス。『鶏が先か、卵が先か』じゃないけれど、『モノが先か、言葉が先か』といったことも考えられるね」
「どういう意味だ?」
「つまり例えば――そうだね、虹という事象がある。パトスの村では何色だった?」
「七色だ。虹って場所によって違うのか?」
「いいや、一緒だよ。でも虹は五色だ、六色だ、という民族もいる」
そこでアルカナは間を作った。
なぜだか考えろ、ということなのだろう。
「……そうか。
「そのとおり。その文化が色を区別していなければ、色はまとめて一色にカウントするかもしれない。虹が七色なのはその色に対する言葉が先にあるからだね。そしてなぜ区別するかと言えばそこに価値を見出しているからだよ」
赤や橙、青や藍。それぞれに価値があるから色を区別する。
そうやって言葉が生まれていく。言葉が生まれるからモノが認識される。
俺はそんな風に考えたことがなかった。
なんだか、それはすごいことなんじゃないかと思えてきた。
「ねえ、パトス。言葉っていうのは恐ろしい力だよ。それと同時に、人間にしか生み出せない素晴らしいものでもある。言葉って、そういうものなんだよ」
「――そうだな。そうかもしれない。そういうことを思ってくれる人が少しでも増えれば、もしかしたら争いもなくなるかもな」
俺がそう言うと急にアルカナは黙った。
そうして会話は終わりとなった。
俺はそのあとなかなか寝付くことが出来なかった。
アルカナの言葉を一晩中考え込んでしまったのだ。
――言葉っていうのは恐ろしい力だよ。それと同時に、人間にしか生み出せない素晴らしいものでもある。言葉って、そういうものなんだよ
本当にそうなのだろう。
辞書データが戦争で奪い合いになった理由が分かった気がした。
人間が叡智を積み重ねてきた先にあったのがあの辞書データなのだろう。
そんなの価値があるに決まっている。
しかし俺はそれを奪おうとしている。
それによって故郷を救おうとしている。
――そんなこと、していいのだろうか?
身勝手ではないのだろうか?
俺はもうどうすればいいのかわからなくなっていた。
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