字句の海に沈む
西秋 進穂
字句の海に沈む(上)
俺がそこで出会ったのは、右腕のない美しい少女だった。
少女はどこか儚げで、彼女が持つ錆びた青色の瞳には神秘的ななにかが宿っているように見えた。
*
大陸の西端に近い山を、三つ越えた先にある洞窟。
俺は昼前にそこへ着いた。
十年前に起きた戦争で壊滅的な打撃を与えられたこの周囲は、何百キロにわたって国はおろか小さな民族集落すらないはずだった。
だから洞窟に入ろうとしている少女の背中をみたとき、俺はひどく驚いた。
しかし無視するわけにはいかない。
俺も洞窟内部に大切な用事があるからだ。
「こんなところでなにをやっているんだ?」俺は努めて冷静な声色を出した。
少女はまるで驚いた様子はなく、ゆっくりと振り返った。そしてその錆びた青色の瞳で俺をじっと見つめると、白銅色の前髪を左手で払った。
「なにって……たぶん、あなたと同じだと思うけれど」
「同じ?」
「そ、同じだよ」
俺はこのとき幾分か安堵していた。
言葉が通じる上に敵意を感じなかったからだ。
それにいざ力比べとなったら俺の方が圧倒的に優位だということもあった。
見たところ少女の身長は百六十センチ程度で、俺より二十センチは小さい。
年齢は十五、六歳といったところだろうか。俺より十歳ほど若い計算になる。
華奢で肩から腰のラインは心配になるほど細かった。
それになにより――少女には右腕がなかった。俺はその事実を確認すると、右腕があるべき位置から目を逸らした。
「同じって、俺の目的を知っているわけでもないだろう」
「わかるよ」少女の表情にはまだ残る幼さの中に神秘的ななにかがあった。「――
「……なぜそれがここにあることを知っている」
「あなたこそ」
この洞窟にその貴重なデータがある事実を知っている者はごくわずかのはずだ。
俺だって大金をはたいてその情報を手に入れたのだから。
余計なことを言わないように気をつけながら俺は話す。
「確かに俺はそのデータが欲しいし、どうやってお前がこの情報を掴んだのかは聞かない。聞いても俺には関係ないからな。――しかし、ひとつだけ先に言っておく。お前も欲しいならな、それは無理だ。諦めてくれ」
この星のありとあらゆる言葉が記録されていると言われる《辞書データ》。言葉のデータと言い換えてもいい。
それは十年前の戦争でも奪い合いの対象となったデータのひとつだ。
俺がこんな辺境の洞窟まで来た理由はそのデータにある。
どうしてもそれが欲しかった。なにがなんでも必要だった。
それを
戦争で貧しくなった村の救世主となることが出来る。
「……勘違いしているようだけれど、私にそれは必要ないよ」
少女はまた髪を左手で触った。癖なのだろう。左耳にだけつけている銀色のピアスが鈍く光った。
「……どういうことだ? お前はさっき『あなたと同じ』って」
「――お前、お前って。私にはちゃんと親につけてもらった名前があるんだけどな」
俺は会話のペースを掴めずにちょっとした苛立ちを覚えた。
「……なんて呼べばいい?」
「まずは自分の名前を名乗るって教わらなかった?」
なんとなくこの少女の性格がわかりかけてきた。
「生憎だが俺は学校というものに通ったことがない」
「あ、そう。じゃあいいよ。私はアルカナ。あなたは?」
「パトスだ」
「ふうん、パトス、ね」
アルカナは俺を上から下までゆっくりと観察した。
俺は羊毛で作った簡単な衣服に、旅の道具を入れる麻袋を持っていた。
明らかに旅装だ。
対するアルカナはある程度都会的な恰好をしているものの、よく見れば薄汚れている。ここまで旅が一筋縄ではいかなかったことが伺えた。
そしてアルカナは観察を終えて一つ頷くとこう述べた。
「じゃあパトス、一緒に行かない?」
このとき俺は素っ頓狂な顔をしてしまったと思う。
「え? 一緒にってこの洞窟の中をか?」
「それ以外になにがあるの?」
俺の恰好を見て安全だと判断したのだろうか。
この年頃の少女にしては随分と不用心だ。
だがしかし、それよりもまず確かめておくべきことがある。
「……さっき辞書データは必要ないと言ったな。それが本当なら目的はなんだ?」
「んーとね、辞書データを見たいだけなんだよ」
「データを《見たい》?」
「そ、見たい」
半分は本当で、半分は嘘。そんな顔に見えた。
俺は逡巡した。
アルカナにはなんとなく得体の知れない感じがあった。
しかし俺には地図があるとは言え、未知の洞窟で一人きりというには心もとない。
それに帰れと言ってもこんな場所まで来るようなやつだ。
素直に聞くとは到底を思えなかった。
だったら、口先だけでも協定を結んでおいた方が幾分かマシというものだろう。
俺はそう判断した。
「わかったよ。明かりくらいは持っているんだろうな」
「もちろん。じゃあ行こう。よろしくね、パトス」
そう言ってアルカナはすぐさま洞窟のなかに入っていく。
俺は慌ててあとを追った。
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