3 生きる言葉

「これはわかる?」


 ショウタロウが1枚の付箋を指さした。そこにはなにかが書き込まれている。ラピスはそれを凝視して、自分の頭の中から記憶を引っ張り出していく。

 しばらくした唸りながら後おずおずと答えを述べた。


「えーと…『い、す』?」

「うん、正解。じゃあこっちは?」

「これは『ほんだな』。さっきもやったから覚えてる」


 ショウタロウはラピスの答えに満足したように頷きながら、その付箋をそれぞれ正解の家具に貼り付けていった。


 ショウタロウはどうやら、『ライター』という仕事をしているらしい。

 ジル曰く、話を作ったり自分の思っていることを文にして表現する職業のことだと言っていた。主に本などの中身は彼らが書いたことを元にしたことが書かれているらしい。この前ショウタロウがしていたネタ出しというのも、その一環ということになるのだろう。


 ラピスは暇な時間に彼から文字の読み方を教えてもらっていた。ジルがなかなかラピスが字を覚えられないのをショウタロウに愚痴ったらしく、それならと引き受けたようである。


 そのジルは現在買出し中だ。人が増えたので簡易食料なんかの減りが早くなったからと言って出かけて行った。

 ラピスはそれを思い出して少し小馬鹿にされたような気分になった。


 しかし、居候しているうえに教えてもらえるとなると、自分がなかなか覚えられないとなるとだいぶ申し訳ないのでは?

 と、思い結構身構えたのだがショウタロウの教え方が上手いのか、ジルが下手だったのか、思っていたより早いペースでラピスはどんどんと言葉を吸収していった。


 付箋は全て正解の家具の元に貼り付けられた。昔はひとつも読めなかったのに、今はこうして全問正解することが出来る。こうして自分の成長が見れてラピスは嬉しかった。


「うん、簡単なのはだいぶ読めるようになったか……そろそろ書く練習もしていいかもね」


 ショウタロウはふと席を立って、奥の部屋へ行き、新たな本を一冊持って戻ってきた。その本はかなり薄いもので表紙には可愛らしい猫のイラストが書かれていた。


 ショウタロウはその冊子をラピスの前に差し出した。表紙に大きく文字が書いてある。

 意味はわからないが音はわかったので、ラピスは声に出してそれを読んだ。


「………ど、り、る……?」


 ちらりとショウタロウの方を見てみると、彼は優しく頷いてくれた。どうやら合っているらしい。


「そうそう、ドリル。本来ドリル『drill』は反復、繰り返しを意味する言葉。その言葉のように何度も繰り返して学習する為の本をドリルって呼んだりする」

「へ、へぇ………」


 ショウタロウの教え方は、付箋に椅子を貼り付けたりした結びつけやすい教え方や、ラピスでもついていけて尚且つ遅すぎないテンポでかなりわかりやすいのだが、たまにこうした言葉に関して深く踏み入ったことが出てくる。

 その大半はラピスには理解できないものなので対応に困っていた。


「この前掃除してたらたまたま見つけたんだ。多分母さんの仕事で余ったやつかな。なんか使えるかなーって思って取っておいて良かったよ」


 ショウタロウはぺらりとドリルめくり、目次を飛ばして最初の項目を開けた。パステルカラーの背景に黒い点がいくつか規則正しく並んでいた。その下にはうさぎのファンシーなキャラクターがいて、吹き出しには何かが書かれていた。


「ところでラピスちゃん。鉛筆とかって使ったことある?」


 その吹き出しをちらっと読む間もなく、ショウタロウは自分が持っていた鉛筆をラピスに渡した。ラピスはそれを受け取るとしばらくじっと見つめていた。


「……もしかして、鉛筆って初めて聞く?」


 その様子を見て、ショウタロウがおずおずと尋ねてきた。


「いや。……鉛筆………流石に字を書く道具ってことは知ってるけど、実際に触ったりとかは無かった。」

「そうか。でも前住んでいたとことか聞く限り無さそうだもんね。書くとしたら地面に木の棒とかかな」

「うん、木の棒でとかで線は書いてたけどほとんどの子が僕みたいに読み書きできなかったし。」


 渡された鉛筆は三角形のものだった。ラピスは早速ショウタロウから持ち方を教わった。


「まずは一回置いて。それで最初に人差し指と親指で摘むように持って……そうそう、そこに中指を添えてね。全体的に力はいれないで」


 ショウタロウがラピスの右手に手を添えてゆっくりと指を動かしていく。


「こうか?」

「うん。じゃあとりあえず真っ直ぐ線を引いて、この点と点をつないでみて」


 ラピスはゆっくりとページの上に鉛筆をそっとおいた。そして、そっと手前に引いてみた。

 すると、さらさらという音と共に鉛筆が通った後に黒い線が続いていく。


「おー………」


 ラピスは初めての鉛筆の感覚に軽く感嘆の声をあげて、そのまま次々と点と点を繋いでいった。

 あっという間に全ての点と点を繋ぎ終えた。


「できたっ」


 ラピスは満足気に鉛筆を机に置いた。


「お、上手いね。初めてのわりにはいいんじゃない?」

「そう、かな。思ってたより簡単だったけど」

「じゃあ、まずは名前書けるようにしようかな。………えーと、綴りとかは…」

「綴り?」


 ラピスがショウタロウに尋ねた。


「文字ってのは1文字ずつじゃ意味って特にないじゃん。感嘆とかの表現技法とかはともかくね。いくつか文字を並び合わせて初めて意味を持つ単語になるんだ。その意味を作るための文字の並び順のことかな」


 ためしにショウタロウは自分の名前をその辺に置いてあった紙に書いた。綺麗な字であった。


「ばらしちゃえばただのSとかIとかの文字なんだけど、こうして並べることで初めて僕の名前「天草彰太郎」ってことになる」


 ショウタロウはさらに筆を進めて、今度は別の文字の羅列を生み出した。


「多分君の文字の綴りはこうだと思うんだけど……音だけで拾ってるから間違ってる可能性はあるかな」


 Lapis


 どうやらこれが自分の名前の綴りのようだ。ラピスはしばらくそれをじっと見つめていた。初めて自分の名前を文字として認識した。


「ふぅん。じゃあジルはどうなんだ?」

「たぶん、こうだと思うけど……」


 ショウタロウはさらに隣に文字を書いていく。ショウタロウやラピスの綴りよりも短かった。


「これで「ジル」か」

「たぶんね。言語によって綴りとかって変わったりもするから本人に聞いた方がいいけど。これはみんなコイネー語での綴りだよ」

コイネー語共通語?言葉にも種類ってあるのか?」


 ショウタロウはほんの少しの間ラピスを見た後、頷いた。


「あるよ。トーキョーで使われてるのはコイネーとニポネカって言葉。………いまは使われてるほとんどがコイネーだけどね。」

「ふぅん………じゃあ、そのニポネカ?でショウタロウって書くとどうなるんだ?」


 ショウタロウはまた紙に文字を連ねる。カサカサと鉛筆が紙の上を走る音が響く。


 できたのはコイネー語より角張った文字だった。それに構造も複雑で、見ているとその文字の線がぐにゃりと曲がってきたかのような錯覚を起こしてきた。

 ラピスは眉間に皺を寄せて、紙から顔を一度離した。


「なんか……カクカクしてるな。線も多いというか……ごちゃごちゃしてる」

「そうだねぇ。あとニポネカはすっごい字体の種類が多いよ。こっちも一応ニポネカだよ」


 そう言って、ショウタロウはさらに下に文字を追加した。今度はカクカクしたのとは違って丸みを持った文字だった。これも意味は「ショウタロウ」なのだろう。


「これもそうなのか……あ、これは街の看板でも見たことあるかも」

「この丸いヤツはヒラリスって呼ばれてる字体だよ。種類が少ないからまだ使ってる人は多いほうかな。こっちのやつ、カジーラは下手したらもう読めない人もいる。最近学校とかで教えられなくなっちゃったから若者に多いかな」

「ショウタロウは若者でも読めるんだ」


 ラピスがそう言うと、ショウタロウは少しだけラピスの方を見た後、また紙にへと視線を戻した。


「まあ、両親が教えてくれたからね。覚えてても役に立たないことはないからって言って教えてくれたけど、本当は言語を死なせたく無かったからじゃないかな」


 ショウタロウがそう言った。


「『死なせたくない』?」


 ラピスは直ぐにその意味を問うた。

 言語に生死というものが存在するのだろうか。ラピスのイメージではそんなふうに感じたことは無かった。


「言語って言うのはね、みんな生まれた直後から話せる訳じゃないでしょ?こうやって誰かに教えられて使えるようになってく」


 ショウタロウは「今の君みたいにね」と、ラピスを指さし、付け加えた。


 ショウタロウはさらに続けた。


「ニポネカも昔はこうやって次の世代へと教えられていったんだよ。でも、外からコイネーが入ってきた。外の都市とのやり取りでは圧倒的にコイネーを使うことが多いし、なによりニポネカはこの辺りでしか通じない。近くのノーラ王国の言葉、ノイラーニみたいに複数の場所で使われているわけじゃないからニポネカを使う機会はどんどん減っていって、伝えていく言語もニポネカからコイネーに置き換わっていった。」


 ショウタロウはコイネーとニポネカで書かれた自分の名前を見た。


「最終的にそれが繰り返されることによってニポネカを使う人はいなくなる。そして、それを覚えている人もいなくなる。言語もこうして存在しなくなる……」

「つまり、それが………『死んでいく』ということか」


 存在が無くなる。無かったことになる。それは死の概念そのものだ。

 ラピスがそう言うと、ショウタロウは頷いた。


「……そう。それを何とか食い止めようとするのが僕みたいな『書き手』の使命とかでもあるのかな。使ったり、本作ったりとか。」

「本にその、ニポネカを使うのか。」

「そうだね。一応本を通して教えることは出来る。このドリルみたいなのや簡単な絵本とかもね。けど、それだけだと、どうにか生きているだけになる。回復の見込みがない患者に延命治療を延々と続けてるみたいな、ね。結局は書物の中の文字になっちゃう」

「えーと………結局は使える場所がないということか?」


 知っていても、その言葉を生き生きとさせる場がない。


 まさにその通りであった。

 ショウタロウも一応はニポネカを使える人間ではあるものの、機会は激減していた。

 本を書いたりなどの仕事では使うが、外との交流はほとんどコイネーや、その他の言語であった。

 ふと思えば、書類なんかに自分の名前を記す時に使うのもほとんどコイネーになっていた。ニポネカでの名前は久しく書いていなかった。こうしてラピスに説明しなければ、書く機会はもっと先になっていたのかもしれない。


 これでは存在していてもないの同然である。

 そして、ぼそぼそと続けている延命でさえもだんだん意味を成さなくなり波に呑まれ、しずんでいく。

 自分もこうしてコイネーの波に呑まれつつあるのだろう。そう思うと何とも言えない無力感が脳内に広がる。


「……言葉も生き物なんだな。」


 そうラピスがポツリと呟いたことによってショウタロウは現実に引き戻された。


「そうだね。………自分の存在を認めて貰えないと生きてけない。人間と一緒だよ」


 ショウタロウのその顔は柔らかい笑顔であったものの、悲しみが漏れ出ていた。



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