廃れた砂漠の都市の少女 終
辺りは完全な闇に包まれてしまった。
辺りを照らすのはプレハブ小屋の中から漏れ出すオレンジ色の光だけだった。
狭いプレハブ小屋の中にはジルと少女がいた。ランプのオレンジ色の光が狭いプレハブ小屋を柔らかく照らしていた。
少女は地べたに座り、あの本を読んでいる。ジルはそれを少女に渡された小さな木箱の上に座って黙って見ていた。
木箱をくれたのは少女なりの気遣いなのだろうか。ご好意に甘えて使わせてもらっている。座る体勢を直す度に、木箱がぎしぎしと軋んで音を立てた。
少女ジルと出会ってから、あの本を貸してくれとよく頼んでくる。そして、こうして寝床に戻ってくると少女はいつもそれを読んでいた。
それが気に入ったのだろうか。文字も読めないのによく読めるなとジルは思った。
「傭兵………。」
少女が本から顔を上げた。ジルはぼんやりとしていた所に、不意に声を掛けられたので反応が遅れた。
「………ん、何だ?わからない文字でもあるのか?」
と、ジルは言ったものの少女にとっては文字の全てが「わからない文字」に分類されていた。
「文字は別にいい。聞いてもすぐ忘れちゃうし。」
少女はむっと顔をしかめた。
「はは、悪い悪い………。」
ジルは笑って謝った。少女は「もう………。」と、不機嫌そうにぼそっと呟いた。
「なんで鞄に本しか入ってないんだ?」
少女があのボロボロの鞄を指さした。
ジルはそれを手に取った。
「……まあ、本しか入ってないように見えるわな。そりゃ。」
ジルが鞄を逆さまにして、ガサガサと振るも何も出てこなかった。
これで放浪するのは実質不可能だろう。
「これは面白いやつでな、見てろよ……。」
ジルは鞄に手を突っ込んだ。そして、空っぽの鞄なのに中をごそごそと漁るような仕草をした。
ジルがそこから手を出した。少女は目を見張った。
ジルの手には小さなナイフが握られていたのだった。少女は驚いた。
「手品とかじゃないよ。これはちゃんとここに入ってたやつだ。」
呆気にとられた少女にジルはにやりと笑った。その顔は子供がなにかイタズラを成功させた時にみせる顔のようだった。
少女はジルは自分よりも結構年上だと思っているがたまにこうして子供らしさを見せるため、もしかしたらさほど変わらないのかなと、思うこともあった。
鞄の中は完全に空だったはずである。ならばあの空っぽの鞄の中にナイフはどこに入っていたのだろうか。
少女の頭の中に疑問だけが残った。
「入ってた……というか、本当は別の場所にあったというのが正解なのかな?鞄は見た目だけで、これは出し入れ口なんだ。これに物をいれると別の場所に送られる。そして取り出す時はその場所から取り寄せる。簡単に言えば入れたものがその繋がっている場所で保管されるということだな。」
少女は首を傾げた。
ジルが端的に仕組みを説明するも、少女にはいまいち理解できなかった。鞄の中と別の場所が繋がるという言葉が引っかかる。
「………要は鞄の中にその場所があるということなのか?」
ジルは眉をひそめた。
「うーーん…………少し違うけど、全く違うわけでも、ない……うん。けどイメージはそれでいい。」
ジルはナイフを鞄にしまうと、また何かを探すように鞄の中を漁り始めた。
「まあ、別に鞄の中自体に物を入れておくこともできるな、その本みたいに。あと、その出入り口を開けるのは持ち主本人にしかできない。」
ジルは手のひらサイズの薄い長方形の形をした物を取り出した。
それは銀色の紙で包まれていた。ジルはそれを無造作にビリビリと破った。
中から黒いものが顔を覗かせて、それと当時に甘い匂いが漂ってきた。
ジルはその黒いものを半分にパキリと折った。どうやら折れ目がついているらしく、そこで簡単に折ることができるらしい。
「ほら、やるよ。」
ジルがその半分を少女に向かって放り投げた。少女は改めてそれを手に取って、まじまじと見た。
さっきよりも強く甘い匂いが鼻に入った。
ふと、ジルの方を見ると彼はそれを齧っていた。これはどうやら食べ物のようだ。少女も同じようにその甘い匂いがする黒い板に齧り付いた。
パキッという軽い音がして、それが口の中に入るやいなや、自分の体温でじわじわと溶けだしていった。それと同時に強い甘みが口の中に広がっていく。
「甘い。」
少女がぽつりと呟いた。
少女はこの初めて体感する味が嫌いではなかった。久しぶりに甘みというものを感じた。
「美味いだろ?」
ジルは残りの黒い板を口の中に入れた。それを噛み砕くパキパキという音がした。
少女は頷いた。
「こんな甘いもの初めて食べた。」
少女が残りを食べ終えて包み紙をぐしゃぐしゃと丸めた。
「チョコっていうんだよ。お菓子の類だ。」
「へぇ………。」
少女は口の周りについた溶けたチョコを指で拭き取った。その指についたのも舐めていた。その甘い匂いはしばらく小屋全体に薄く残っていた。
少女はまた、あの本を読み始めた。ジルは少し本を覗いてみた。
今、少女の読んでいるページは海について書かれているところだった。小さな写真も、右ページの下の方に貼り付けられていた。
そういえばこいつは海を見たことがないんだったと、ジルは思い出した。一体何を思いながらこれを読んでいるのだろうか。
少女はパタリと本を閉じた。
今日はもうこれだけ読んで満足したのだろうか。
「………そういえば、傭兵。この一番最初に書いてある文字はなんだ?」
少女は閉じられた本の表紙を指さした。
「ああ、これは「題名」だよ。これがどんな中身の本かをざっくりと知るための文字だ。」
ジルは本の表紙をなぞった。
「なんて書いてあるんだ?」
ジルは表紙に書かれている文字を口に出して呼んだ。
「『世界への憧憬』。」
「しょうけい?」
難解な語彙に少女は首を傾げた。文字も読めないわけだから、この語彙の意味がわからないのは当然のことだろう。
「簡単に言ったら憧れってやつだよ。」
ジルは本を手に取り、パラパラとページをめくった。
「出版は本当に結構前だ……この本。昔はまだこういう綺麗な所は沢山あったんだ。けど今は数えられるほどしか残ってない。この都市みたいにどこもかしこも荒れている。」
ジルは本の最後のページの出版年代を見た。
今何年かは忘れてしまっていたが、大体の勘で何年前かの本かは推測できる。この本の出版は2900年代だった。
「戦争とかがなければ世界は廃れることはなかっただろうな。戦争で流れた血や兵器の油。その他にも使われた化学物質、魔法の代償。これがまず大気と大地を汚した。大地が汚れてしまえばあとは早い。その大地に生えている草も汚れ始めて、そこを通る地下水なんかも汚れを吸い取る。さらに動物がその草を食べたり水を飲んだりすれば、汚れは動物にも移るだろう。動物にとって汚れは毒でしかない。それが体の中に溜まっていずれ汚れた大地に殺されるのさ。もちろん人間にも言えたことだ。大気はもっと早い。だって俺たちは息を止めたら死んじまうわけで、それを吸わないわけにはいかないだろ。その大気が汚れているわけだ。毎日毒が溶け込んだ空気を吸っていれば、そりゃ体のどこかを悪くしたっておかしくはない。」
ジルはなにかを少女に教えこもうとして喋ったわけではなかった。ただ自分の思っていることを口にして吐き出しただけだった。
「今はだいぶマシにはなったらしいけどな。でも世界は混乱の渦の中さ。戦争が終わってもまだ人は戦争を忘れられないみたいに、至る所でいざこざが起こっている。俺みたいな傭兵がうじゃうじゃいるのも事実さ。」
ジルはこの本の作者の名前を見た。
残念ながら、その文字は薄く消えかかっていて完全に読み取ることはできなくなっている。
「これを作ったやつは戦争が起きる前の世界をどうにかして残しておきたかったんだろな。世界はこんなにも美しかったのだと。戦時中危険を冒しながら、まだ残っている美しいものの写真を集めて。そして、これを誰かが見た時、この風景に「憧れ」をもってそれを取り戻したいと思ってくれるようにと。」
ジルは本を閉じた。
「現にそうして「憧れ」を持った奴が目の前にいる訳だしな。そいつがやったことは無駄にはなっていない。」
ジルは笑って少女の方を指さした。
たしかに、少女が前から持っていた海への憧れをこの本はより一層強くした。どんなものであってもいいから海を見てみたいという強いものに変わっていた。
だが、それを叶えるすべはないのだろう。
「………傭兵はこれを読んだから、世界を見たくて旅をしているのか?」
少女はゆっくりとそれを口にした。
ジルの眉が微かに動いた。
「……まあ、多少はそれを読んで綺麗だとかは思ったことはあるよ。けど、俺が旅をしているのはそうじゃない。俺は単純に傭兵であって職を追いかけているだけだ。」
ジルが姿勢を前の方に倒した。木箱がぎしりと軋んだ。
「まあ、昔は傭兵団なんかにいてそこで仕事とかしていたけどさ………ある時大きな仕事が入ったんだ。戦争への加担だ。時々兵力が不足した国が傭兵団を丸々雇うことがあるんだ。」
ジルはさらに続けた。
「なんとかその国は勝利を納めたけどさ、その傭兵団で生き残ったのは俺だけさ。みんな死んじまったんだ。仲間だって、嫌な上司だって。そうなったら自分で仕事を探す他ないだろ?それで、死に損なった俺はこうやってフラフラしてるわけだよ。…………で、お前ちゃんと話聞いていた?」
「ん?何?」
ジルは半分呆れながら言った。
少女は自分で聞いておきながら、いつの間にかあの本をまた開いて読んでいた。開かれていたページはあの大きく海の写真が乗ったところだった。
「お前、ほんとそれ好きだな………読めないくせに。」
ジルはつい本音を漏らしてしまった。
「いいんだ。別に読めなくても。僕はこれが見たいんだから。」
少女はそのページをとんとんと、叩いた。
「海ってのはまあ、大きな水たまりとかしか僕の中ではなかったんだけどよく考えてたよ。昔誰かから聞いた話を思い出しながら。実際どんなものかな、見てみたいなって思ってた時もあった。けど見る機会なんて一生あるかないかなって思ってたんだ。それがこうして叶ったんだし。」
「ふうん………じゃあ次は本物か。」
少女は首を横に振った。
「まあ、多分それは無理かもな。……どこに行けば海があるかもわかんないし……。」
少女はページから目を離すことはなかった。
その平面に広がる小さな海をただ見つめていた。場所がわかったとしても、そこまでにたどり着くために必要なものを集める余裕もない。
ただ、ここでその気持ちに淡い想像を乗せそれを押さえてここで生を全うすることしかできないだろう。
「…………海はそんなに遠くはないぞ。」
ジルが突然ぽつりと呟いた。
「え?」
少女は本から顔を上げた。
ジルは木箱の上でうんうんと何かを考え込んでいた。
「うん、思ったよりは遠くはないな……こっから歩いて3週間くらいだな。」
ジルは結論が出たようで、顔を上げて少女を見た。驚いた少女の青い目とジルの淡い赤の目が重なった。
「あ、でもその本みたいに綺麗な海が見たいならだいぶかかるか……。ここは北の方だし、それみたいに綺麗なのは南の方にしかない。」
ジルはそう付け加えた。
「……けどどっちにしろそれだけはかかるんだろ?僕にはそれだけの旅をする余裕は……。」
ふと、少女はそれを言いかけてあることを思いついた。
それは今1番有効で手っ取り早い方法だった。これを思いつくとは、自分の頭もなかなか捨てたもんじゃないなと少女は思った。
「ん?どうした?そんなにやけて。」
ジルに言われたことによって少女は自然と口角が上がっていたことに気づいた。
たが、少女にはそんなことはどうでもよかった。
「今、いいこと思いついたんだ。」
少女は笑いながらジルの方を見た。
「へぇ、どんな?」
ジルも笑いながら言った。少女が笑っているのが伝染したようだ。
「僕にでも旅ができる方法。」
少女はそう言って立ち上がった。
何をするつもりなのだろうか。ジルは立ち上がった少女を見上げた。少女は、しばらくジルを見ていた。
少女はあることを思った。あいつとジルがどうして似てるように感じるのかと。
ジルの淡い赤の瞳は、その奥にさらに強い光を宿している。そして、その命の灯火かのように強い光を記憶の中のあの目も宿していた。
ジルのその目の光を少女は知らずのうちに懐かしく思っていたのだった。
(ああ、あいつの目もこんな感じだった…。)
少女はその光をじっと見据えていた。
そして、ジルの前に静かに手を差し出してこういった。
「傭兵。僕を連れて行ってくれないか?」
***
まだ薄暗い空の下。小さくて簡素な墓標の前に佇む人影があった。
空にはまだ星が輝いていたが、じきに太陽の光に飲み込まれてしまうだろう。それでも星は消えた訳では無い。また、夜になればその存在を示すかのように輝く。
少女はこの中で一番新しい墓標の前に立っていた。
「どうだ。お別れは済んだか?」
声をかけられて、少女は後ろを振り返った。
案の定、あの目に焼き付く桃の髪をした傭兵が立っていた。
「うん。だいたいは。」
少女は目の前の墓地を見渡した。ここにはしばらく戻ってこないだろう。もしかしたら、もう二度とこの光景を見ることはないかもしれなかった。
今になって背後にそびえ立つ、大きなガラクタ達が急に愛おしくなってきた。
こんな廃れた砂漠の都市でも少女にとってはただ一つの故郷なのだから。
「……連れて行ってくれ、って言われた時はさすがに驚いたな…。まさかそう言ってくるとは……。」
ジルは困ったように笑った。
「でも断らなかったってことは、嫌じゃないんだろ?」
少女は後ろの建物からジルに視線を戻した。
ジルは「それもそうだな。」と言って笑った。
「けど、この旅はそう簡単なものじゃないからな。………いつ死んでも文句は言えないぞ。」
ジルは突然真顔になって少女を見た。
その少女の目も一切の迷いはなかった。
「ここでもそれは一緒さ。それに簡単に死なないようにいろいろ教えてくれるんだろ?」
少女はにやりと笑った。
ジルは頷いた。
「ああ、そうだな。自分の身を守れるくらいには教えてやるさ。」
ジルの表情が崩れて、いつものよく見る笑い顔に戻った。
ふと、その顔に朝日が流れ込んできた。朝日は建物の間から辺りの墓標を次々と照らしていく。ジルは顔に当たる朝日に目を細めながら、空を仰いだ。
まだ微かに星が残る空には見事な色の層が作られていた。
「あ、そういえば……。」
ふとジルが何かを思い出したように言った。
「お互い、名前聞いてなかったな。」
ジルは少女の方を見た。その顔にも朝日がこぼれ落ちて、真っ青な髪がより一層綺麗に輝いていた。
少女はジルの言葉に頷いた。
「たしかに……。一応知っておかないと不便だ。」
少女はぽつりと呟いた。
「俺はジルだ。よろしく。」
ジルが端的に名前を述べた。
既に知り合った中だというのに、今更名を名乗るなんてどこか変な感じがした。
「ラピス。」
少女は名前だけを口にした。
「ラピスか……なかなか綺麗な響だな。」
少女…………ラピスは急に自分の名前を褒められて恥ずかしくなった。
「ま、まあ……とりあえず名前はわかったし……行こうよ、ジル。」
「そうだな、そろそろ時間だ。」
ジルはゆっくりと歩き始めた。ラピスその後続いていく。
風が二人の淡い赤の髪と、瑠璃のように青い髪をゆらゆらと揺らした。
朝日は明るく、暖かく二人を照らしていた。
後ろのひっそりと佇む先人たち遺産だけが、静かに二人を見送っている。砂漠の都市にその足跡を残しながら、二人は朝日の中に溶けるように消えていった。
これが二人の旅の始まりだった。
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