第3章 冬守り

1 北の海

 吐く息が白く曇って消えた。ラピスはから見える灰色に曇った空を見上げた。

 雲は分厚く重なっており、昼間だと言うのにいくらか薄暗く感じられた。


 まだ季節は夏だというのに、大気は酷く冷たかった。目の前に広がる高原の草は寒さに耐えられるようなものなのか深い緑色をしていた。


「………お前、足寒くないのか。」


 隣で歩く、いつもより厚着のジルがラピスの足を指さした。


 ラピスは、上には分厚い上着を追加で来ているが、下はいつものままでショートパンツを履いていた。


 つまりを言うと足が太ももから膝下にかけて露出しているのである。ジルはよくこんなにも冷えているのに生足を出せるものだと疑問に思っていた。


「まあ冷えるけど寒くはない。」


 ラピスは年がら年中ショートパンツだったため慣れてしまっていた。だが、さすがにここまで冷えてくるのは初めてだった。


 ジルが「へぇ……。」と半分興味なさげにラピスの足を見て呟いた。


 二人はその後、しばらく特になにも話すことなく歩き続けた。


 ダウナー街でセツと別れてから早くも2週間ほどが立とうとしていた。旅をしていると一日一日が流れるように過ぎていく。


 セツの言っていたとおり街らしい街は全くなく、農民の集落が少しあったくらいだった。


 旅の間にいくつかの稽古も行い、ラピスはようやく簡単な打撃法やナイフの使い方を教えて貰えるようになった。あの街でのことを受けてジルは教えるのを早めたのだろう。


 だが、それでもジルの相手をするのはなかなか大変なものだった。

 ラピスがナイフの突きを練習する時にジルに相手にしてもらうも軽々と避けられてしまい、簡単に腕をねじ曲げられ地面に押さえつけられてしまう。

 押さえつけられてしまえばそこから抜け出すのはほぼ無理だった。

 逆の相手を押さえつける練習の方もなかなかジルを捉えることがきず、鞘に収められたままのナイフで突かれまくる始末だった。


 いくらなんでもまだ始めて二週間くらいなのに、そこまでされるのは正直に言うとやめて欲しかった。前々から続けてきた避けるほうに至ってはだいぶできるようになってきたのが唯一の救いだった。


 早く打撃とかを教わりたいと言いだした自分の方にも責任はあるがラピスはため息をついた。


 ため息はすぐに真っ白に染まった。


「そういえば、次の所へあとどれくらいで着くんだ?」


 静寂を破って、ラピスは隣を歩くジルに話しかけた。ジルはラピスに尋ねられると、鞄を取って漁り始めた。


 そしてそこから小さな丸いものを取り出した。その丸い物の中心には針が一つだけ取り付けられてゆらゆらと揺れている。


「うーん。あと二日くらいでつけると思う。」


 ジルがそのゆらゆらと揺れる針をみて呟いた。


 これはどうやら方位磁石という物らしい。別名ではコンパス、羅針盤なんかと呼ばれたりもする。


 本来は方角を知るための道具らしいのだが、これは少し違う使い方もできた。これは魔法を使う道具で、魔力を込め自分の目的地を念じることでその場所がある方角と今の場所との距離を知ることができる便利なものだった。


 方位磁石の針は普段は黒色をしているのだが、目的地に近づくにつれてだんだんと明るく赤みを帯びてくる。

 今の針の色はすっきりとした明るい赤になっていた。


「どこに向かってるんだ?」


 ラピスが針を見てジルに尋ねた。海が見たいという以外は完全にジルに行き先を任せているので詳しい行き先は知らなかった。


「俺の馴染みがいるとこだよ。近くに来たし寄ろうと思ってさ。そこで海が見えるからちょうどいいだろ。」


 海と聞いてラピスの眉が動いた。


「じゃあ、あそこを出てからもう三週間くらい経つのか。」


 らぴすの言葉にジルは頷いた。


 ジルと最初に出会った頃、彼はここから1番近い海は歩いて三週間くらいと教えてくれたのを覚えていた。


 三週間と聞くとだいぶ長いように感じられたが、実際体感してみるとあっという間だった。


「南ほど綺麗なもんじゃないけどな。北の海って。 」


 ジルが隣でそう言うが、ラピスは特にそこは気にしてはいなかった。


 とにかく海が見れるということだけで内心わくわくしていた。それにあの本の海は南の海らしいので、どのように北の海が違うのかも見てみたかったのだ。


「別に特段と綺麗とかじゃなくてもいい。」


 ラピスが口を開いた時、自分の鼻先を白い何かが通り過ぎていった。


 何かと思い、辺りを見るといくつもの白い小さな粒が空から舞い落ちてきていた。その粒が自分の手の手の上に乗ると、瞬く間に溶けて消えていった。


 ラピスは空を見上げた。灰色の雲を背景に白いものが空をひらひらと舞っていた。その光景に目を丸くした。


「お、降ってきたな。」


 ジルが手のひらを空に向けて天を仰いだ。


「何これ。」


 ラピスが尋ねるとジルが笑った。


「これが雪だよ。」


 雪はどんどんと粒が大きくなっていった。大きな結晶がラピスの頭の上に舞い落ちた。


 その粒を取ってみると柔らかくひんやりと冷たかった。これもすぐに指の熱で溶けて消えていった。


「雪って本当に冷たいんだ……。」

「当たり前だ。雪なんだから。」


 そう呟いたラピスに大してジルは口を開けて笑った。そうしている間にも雪は目の前の道に薄く積もり始めていく。

 薄く積もった箇所を歩くと、足跡がくっきりと残った。ラピスはそれから薄く積もった箇所を見つけてはそこを通るようになった。


「雪って積もるのか。」


 ラピスがサクサクと音を立てながら雪の上を歩いていく。

 声色はさほど変わってないが、仕草ではしゃいでいるのが人目でわかった。


「雨で水溜まりができるのと一緒だな。この調子で行けばこれからもっと積もるぞ。」


 ジルは子供のように雪を踏み、先頭を歩くラピスの足跡を追いかけていく。


 二人の残した足跡はその上にさらに雪が振り積もって雪の中に埋もれていった。



 ***



 雪は一向に止む気配なく、今日も空からひらひらと雪が舞落ちてくる。昨日から二人は森の中の小道を進んでいた。

 周りの木々も雪を被って白く染っていた。さくさくと雪を踏み鳴らしながら二人は真っ白な道を進んでいた。


 ふと周りの木が途切れ、視界が開けた。二人は小高い丘の上にたどり着いた。その丘も白い雪で覆われている。

 その丘からはいくつもの点々と立つ建物が見えた。


「着いたぞ。」


 ジルがコンパスをみて呟いた。コンパスの針は赤から黒に戻っていた。


「ここがノーラ王国領のイーズ市だ。」


 ラピスは王国というものに初めて踏み入った。


「王国って……都市が集まって大きくなったやつだよな……。」


 ジルは頷いた。


 こういう所に入る時はちょっとした検査を受けないといけなかったりするともジルから聞いていたのでラピスはそれも尋ねてみた。


「そうそう。けど検問とかをしているのは王都の近くだけでこの辺の国境は割と自由だよ。役所置くにも人と金が足りないんだろうな。」


 他にもそういう国が多数あるため、重要な場所じゃない限り国境はさほど意味を成してないようだった。現に国に人力と金があるのならこんなジルのような傭兵は至る所に蔓延ってはいないだろう。


 ラピスは丘の下に広がる集落を見下ろした。その集落のさらに先に、雪の白が途切れて深く黒みを帯びた青が拡がっていた。


 所々白いものがぷかぷかと浮いてもいた。白いものの大きさは様々だった。


「傭兵。あそこって……。」


 ラピスが指を指した。

 ジルはその指の先を追いかけて、その指をさされたものを見ると笑った。


「そうだ。あそこが海だ。」


 深い青の中に波が一際大きく、白く泡立った。この海はあの写真とは違う、覗けばどこかへと沈みこんでしまうほど暗い色をしていた。

 波が白い沿岸に打ち付ける度に、その浮いている白いものも揺れた。


「あの白いのは?」


 ラピスが浮かぶ白いものを指さした。


「あれは流氷だ。詳しいことは知らないけど海に流れた水が凍ってここまで流れてくるらしい。」


 ラピスはは雪で霞んだ視界の中、海のさらに向こうに目を凝らした。

 よく見ればうっすらと………なにか向こうに大きな塊が浮いているのが見えた。


「要は海に浮いてる氷の塊だな。」


 ジルがそう補足を付け加えた。


 二人はしばらく丘の上の景色を眺めた後、丘から降りて市街地に踏み入った。通りにはちらちらと人の姿も見ることもできたが、ダウナー街ほど人の行き来は少なかった。


 通りに並ぶ建物の入口や窓はどれもしっかりとした作りになっていた。


「どこも閉まってるように見える…。」


 建物から盛れる灯りや煙突から見える煙、縦看板などからして決してそんなことは無いのだが、扉がどこもかしこもしっかりと閉じられているのでそんなふうに見えてしまった。


「こんな寒いのに扉を開けておく方がおかしいだろ。」


 二人はそのまましばらく市街地を歩いていた。道の雪はしっかりと脇にかき集められて歩きにくいことは無かった。

 ここに来るまでところどころ雪が深く積もりすぎて足を取られたりもしたので少し滑りやすいが、ありがたかった。


 たまに道の脇に積まれた雪の他に、丸い雪の塊を二つほど重ねたものを見かけた。上に乗っている塊には石や木の枝で顔が作られていたりもした。


 ジルにこれは何かと尋ねたところこれは雪だるまというものらしい。


 子供が雪を固めたりして作ることがあるとの事だった。ラピスも試しに小さいものを作ってみようとしたが、雪が冷たすぎてなかなか握って持つことができなかった。


 雪の冷たさを完全に舐めていた。ここまで本当に冷たいとは思っていなかった。


「冷たい……。」


 ラピスは赤くなった指先を摩って、ポケットに突っ込んだ。


「そうだ、手袋はあそこに置いてなかったんだな……。」


 ジルはそう呟きながら、カバンから一組の手袋を取り出してラピスに渡した。手袋は随分と使い込まれていて黒ずんでいた。


「俺の使いな。……ボロボロだけど。」


 手袋は少し大きめだったが、暖かいことに変わりはなかった。手袋の上から手をさするラピスをみて、ジルは彼女の足に目を写した。


「………お前本当に足寒くないのか。」


 冷えた大気に晒された足をジルは指さした。ラピスはことある事にこれを尋ねられていた。


「別に。」


 ラピスは毎回こうしてこの回答を平然として答えていた。

 ジルが眉を八の字に曲げた。ジルの本心は見てるこっちが寒くなってきそうで見ていられなかった。


「………今度長いやつ買ってやるわ。」


 ジルはぽつりと呟いた。


 市街地はほぼ海の目の前に位置している。二人は沿岸の道に抜けた。


「あれはなんだ?」


 ラピスが手袋をはめた手で指さした。そこには流氷とはまた違う何かがいくつも浮いていた。


「ああ。船だ。」


 船は小さいものから、これからこの港に入ってくる貨物船までが行き来していた。

 ラピスが指さした小舟は器用に流氷を避けて、沖へと出ていった。


「よく鉄とかが水に浮くもんだな。」


 ラピスが感心したように言った。


 この街は小さな港を中心としている。なので船大工や魚を扱う店が多数存在した。


 その店舗に混じってひっそりと立つ掲示板をジルは見ていた。ここ最近のイーズ市の簡単な情報や求人の広告などが貼り付けてある。


 ジルは黙々とそれを読んでいたが、ラピスはぽつぽつと意味のわかる記号が認識できるくらいで内容は全くだった。


 ラピスはそれを退屈そうに少し眺めた後、沿岸の少し離れたところで海を見ていた。


 海はどうやら塩を含んでいる水らしいのでこの塩の匂いもそのせいなのだろうか。浮いている流氷の隙間から青が少しだけ見えた。

 ラピスはさらに歩いていき、流氷が割れて少し空間のできた所を見つけるとその場にしゃがみ込んだ。


 自分の髪よりも黒く青い水がゆらゆらと揺れている。下はだいぶ深いようで海底は見えない。小さい雪の粒がその氷の間から覗いた水面に落ちる度に、小さな波紋を作った。


 あの写真とは程遠く濃く濁った色をしているが、ラピスはこの深い色も好きだった。


「ちょっと君!そこ危ないよ!」


 突然声がした。ラピスは驚いて水面から顔を離して顔を上げた。


 が、どこからかぴしりという音がして急に視界が傾いた。


「え?」


 正確には視界が傾いたのではなく、自分の体が傾いていたのだった。


 ラピスはなにをする間もなく、そのまま海面にへと滑り落ちていった。ばしゃりと水がはねる音がしたあと、音がくぐもり周りに冷たい海水がまとわりつく。

 目を開けるも、目が染みて薄らとしか開けられなかった。


 暗い水の中にぼこぼこと浮いていく泡を見て、なんとか泡が登っていく方に登っていき海面へと顔を出した。


 水に変わって冷たい空気が顔に触れた。だが、体が重くてすぐに沈んでしまいそうだった。


 そんなラピスの目の前に、木の棒が差し出された。


「ほら!早く!」


 あの時と同じ焦った声がそう言い、ラピスはその差し出された棒を掴んだ。その時声の主の姿を改めて確認した。


 くすんだオレンジの分厚いコートを着込んでいて、深く被った帽子の下から黒いショートカットの髪と黒い目の女の顔が見えた。


 女はなんとか気張ってずるずるとラピスを岸に引き上げた。どうやらラピスが乗っていたところも実は凍った海の上だったようだ。見ると自分のしゃがんでいた辺りの所が粉々に砕けていた。全く気づかなかった。


 冷たく風が吹いて、ラピスの体に着いた海水が凍り始めた。


「さ、寒い……。」


 ラピスは体温が急激に下がってがたがたと震え始めた。


「こ、こっち!」


 女は慌ててラピスの手を引っ張った。ラピスが言われるままついて行くとそこではいくつかの市民が焚き火を囲んでいた。


「どうしたんだ?!その子?!すぶ濡れじゃないかい!」


 焚き火に当たっていた老人が真っ青な唇をしたラピスに驚いた。


「氷が割れて海に落ちちゃった!早く、毛布!」


 女が叫ぶと、何人か焚き火に当たっていた者が慌ててどこかへと飛んで行った。

 女はラピスが来ていた服を何枚か脱がせて自分が着ていたオレンジ色のコートを着せた。コートはだいぶ丈夫なものなのか、随分と暖かかった。


 しばらくして何人かの人物が毛布を抱えて戻ってきた。毛布を受け取り、ラピスは頭からそれを被って丸まった。そうするとなんとか体の温度は徐々に戻ってきた。


 女はラピスの服をぎゅっと絞り、火に当てて乾かし始めた。女は随分と若くラピスとさほど歳は離れていないように見えた。


「おーい、どうしたんだ?!」


 後ろから聞きなれた声がしてラピスは振り返った。そこにはこちらへと駆けてくるジルの姿があった。


 ラピスがジルのことを呼ぼうとした時女が口を開いた。


「じ、ジル!?」


 女がその知らないはずの名前を呼んで、ラピスは女の方を振り返った。

 その黒い目は大きく見開かれて口をぽかんと開けていた。


「お!シイナか!タイミングいいな。」


 名前を呼ばれたジルは嬉しそうに笑って聞いた事のない名前を口にした。


 ラピスは状況がわからず、二人の間に座って互いの顔を交互に見回していた。


「………来るなら連絡寄越してほいいんだけど。」


 シイナと名前を呼ばれた女は驚いた顔のまま呟いた。


「悪い悪い。ちょっと色々あったもんで。」


 ジルは詫びる様子もなく笑った。


「で、こいつは俺の連れなんだけど……何かあった?」


 ジルが毛布にくるまって焚き火に当たっているラピスを指さした。


 女は眉を八の字に曲げてラピスを見て言葉に詰まった。しばらく考えた後、こう口を開いた。


「………ここで話すのもあれだし………家にいこ?」

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