呼吸音・トマト・どうして?

「先着一名だ。希望する者があれば手を上げろ」


 敵国との戦場、その最前線。キャンプ地で束の間の休息を取っていた新兵たちは、ただならぬ表情の軍曹に召集された。また誰か仲間が散ったのだろう――そう思っていた新兵たちであったが、彼らを待ち受けていたのは思っていもいない軍曹の言葉であった。


「軍曹、それはもしかして」

「ああ、噂の果実だ。『神の果実』だなんて言われているな。化学班が作ったとかいう胡散臭い代物だがな、とうとう一つウチにも回ってきた」


 怪訝そうな顔をする軍曹の手には、その手のひらにすっぽりと収まるサイズの丸々とした果実が握られている。真っ赤に熟れたその果実は、どこをどう見てもトマトにしか見えなかった。


「俺も噂程度にしか知らん。ただこれを食べると、常人とかけ離れたほどの戦闘力が得られると化学班が言っていた。別の部隊でも数人食べたようだが、その効果は確かなものらしい。その拳は岩を砕き、脇腹に風穴を空けられても痛みを感じず、腕をもがれてもびくともしないそうだ」


 まるでフィクションのような話に、新兵はどよめきだす。普段ならば一喝するところではあるが、軍曹は何も言わずにただ新兵たちを眺めていた。


「だが、何の代償も得ずにその力を得られる訳ではない。人によってそれは千差万別だそうだが、何かしらの不具合が体に起きるそうだ」


 今にも手にした果実を握りつぶしてしまいそうな様子の軍曹を見て、新兵たちは押し黙る。軍曹の肩は小刻みに揺れ、腕の血管はより濃く浮き出ている。


「正直に言う。俺はこんな得体の知れないものを、お前たちに食べてほしいとは思わない。人間を辞めるような代物だ。だから俺はお前たちに『食べろ』と強制しない。ただ、それでも食べて戦果を上げたいという者も、止めはしない。だから挙手性とする」


 ただひたすらに俺たちを思ってくれている――新兵たちは、心の底からそう感じた。『新兵に食べさせろ』という上からの命に逆らって『食べてほしくない』と言うなど、軍曹という階位の人間の行動ではない。それがわかっているからこそ、新兵たちは何も言えないでいた。


「軍曹、俺にください」


 その沈黙を破ったのは、新兵の中でも若手の男であった。若手ではあるが、高い身体能力と素早い判断力を併せ持った男で、この戦場でも多くの戦果を上げていたはずだ。


「本当にいいのか」

「ええ。軍曹も、俺の境遇をご存知ですよね。俺の古郷は敵国の襲撃にあって滅びました。目の前で、家族が蹂躙されました。俺は、奴らに復讐するためにこの部隊に入ったんです。奴らを一人でも多くぶっ殺せるなら、なんだってしますよ」


 男の目には、確かに復讐の炎が宿っている。それを見ていると、軍曹はもうそれ以上何も言えなくなってしまった。彼の復讐心を否定する気も拒絶する気もない。確かに、このトマトのような真っ赤な果実は、彼のような男にこそふさわしいのかも知れない。


 軍曹は何も言わず、新兵の男に果実を手渡した。

 新兵の男は何も言わず、それを口にした。



「敵襲だ!」

「皆、銃を――」

「――俺が行きます!」


 それからというもの、彼は一騎当千の働きをみせた。


「お、おいなんだこいつは――」

「うるさい」


 率先して敵陣に突っ込んでいき、それらを蹂躙してみせた。


「撃て! 撃てえ!」

「……」

「な、なんだこいつ……。銃弾があたってもびくとも――」


 銃弾の雨をものともせず、それらを身に受けてもなお、彼は止まらなかった。


「おいお前。体は大丈夫なのか?」

「ええ。まるで自分の中にもう一人いるみたいな感じです。最高に気分がいいですよ」


 新兵の男が果実を口にしてから幾度となく敵国との交戦があり、日に日に彼の体には傷が増えていった。あの端正な顔立ちは見る影もなく、刃物による傷だらけとなっている。太くたくましかった腕には、おびただしい数の弾痕が刻まれている。


 痛みを感じなくなったとのことで、敵からの攻撃を一切避けなくなったからだ。銃弾を避けることもせず、切り付けられることをも恐れない。その結果が、今の彼の体だ。


「今日も戦いましたねえ。軍曹、俺腹が減りました」


 ただやはりというか、その代償があった。


「これこれ。これしか受け付けねえんですよ」


 自らの背後にあった段ボールを軍曹は指差すと、新兵は男はそれに飛びついて、その中にあったものを取り出して勢いよく食べだした。


「トマト。トマト。ああ、うめえ」


 段ボールの中に大量に詰め込まれていたトマトが、みるみるうちに減っていく。


 新兵の男はその力の代償として、トマトしか食べられない体となってしまった。それ以外は体が受けつけないようで、口に入れても戻してしまうのだ。おかげで今この部隊には、彼のために大量のトマトを備蓄するようになった。


 代償というから何かと思っていたが、それは拍子抜けするものだった。トマトしか食べられなくなったのは辛いだろうが、それで済んだとも言える。

 軍曹は少し胸をなでおろす一方で、底知れぬ不安に押しつぶされそうになっていた。日を追うごとに、新兵の男の人間性が失われていくように見えて仕方なかったからだ。


 目をぎらつかせて敵陣へと突っ込んでいき、生傷を増やして帰還して、狂ったようにトマトを食べる。その姿と言動は、まるで獣のように見えてしまうのだ。



「――おい新兵! しっかりしろ!」


 そんなある日のことだ。

 敵の乗る戦車の砲台から放たれた一撃が、彼の脳天を貫いた。新兵の首から上は消し炭となり、残された身体はゆっくりとその場に倒れ込んだ。


「新兵! 新兵!」


 頭が吹き飛んだとあっては、いかに最強の体をもっていたとして助からないだろう。軍曹は彼の亡骸に近づいていき、驚愕した。

 かすかに呼吸音が聞こえたからだ。首から上が吹き飛んでもなお肺はまだ活動を続けているようで、吹き飛んだ首の断面からひゅうひゅうと音が聞こえてくる。あのトマトのような果実は、彼にどれほどの生命力を与えたのだと、軍曹はひどく狼狽えた。


 だがその呼吸音――それが呼吸なのかはさておき――も次第に小さくなっていく。そしてやがて、それは聞こえなくなった。文字通り、『息絶えた』のだ。



「では、確かに」

「……ええ」


 彼の亡骸は、化学班へと引き取られていった。

 兵士の亡骸を引き取りたいだなんて、普通ではありえないことだ。だが、あの果実を食べた新兵の体を色々と調べたいのかも知れない。どこまで新兵を冒涜するつもりだと軍曹は叫びたくなったが、上からの命には逆らえない。


 新兵よ、最後までお前を守ってやれなかった俺をどうか許さないでくれ――噛みしめた下唇から、血が滴っていくのを軍曹は感じた。



「……どうして?」


 だが更なる驚愕が、次の日に軍曹の下へ訪れた。

 昨日に新兵の男を引き取っていった化学班から、あるものが届いたのだ。震える腕を必死抑え、軍曹はそれを手に取る。


 見間違うはずがない。

 新兵を狂わせた――赤く熟れたトマトのような神の果実だ。


 軍曹は、何が何だかわからなくなっていた。

 新兵の亡骸を回収したかと思ったら、次の日には新たな果実を届けてくるだなんて、一体化学班は何を考えているのだ。


 上層部は、何がしたいのだ。

 神の果実とは、何なのだ。


 またしてもこれを、誰かに食べさせなくてはならないというのか。部下にまた、あいつと同じような目に遭わせなければならないのか。軍曹は頭を抱えた末、上に逆らうことになってもこれを破棄しようと決意した――その時だ。


「そのトマト、奴がいつも食べていたのとは違いますよね。神の果実、ですよね」


 背後からふと声がした。

 ばっと振り向くと、そこには新兵の一人が立ち尽くしていた。彼は確か、先日亡くなった新兵と親しくしていた男だったはず。あいつが傷ついていくのを誰よりも心配し、あいつの死を誰よりも悲しんでいた男だ。


「それ、俺にください。狂ってもいい。俺は、あいつがこれを食べて何を思い何を考えたのか知りたいんです。そして、あいつの仇を討ちたい」


 ああ、この目は。憎しみが宿ったこの目は。

 あの新兵が神の果実を食べる際にしていた目と、同じ目だ。


 どうにかして説得しようとも考えたが、軍曹はすべてを諦めて、ただただ無言でその果実を男に差し出した。男もそれを、躊躇なく食べていった。


 そこからは多くを語るまい。

 結局この男も、先日亡くなった新兵と同じような末路を辿った。恐怖を捨て、傷を増やし、最後は胸に風穴を空けて静かに倒れていった。


 いや、一点だけ違う点があった。


『軍曹。俺、何を食べても同じ味しかしないんです。トマトの味しか、しないんです。パンを食べても肉を食べても魚を食べても、トマトの味しかしない。トマトを食べ続けたあいつの、魂でも乗り移ってるみたいですよ』


 彼を襲った代償は、『何を食べてもトマトの味しかしない』というものだった。彼が言うように、それはまるであの新兵の怨念か何かが宿っているようにしか思えない。トマトを食べ続けた新兵の無念や苦しみが彼を襲い、その味覚をトマトに支配されてしまったかのように思えて仕方がなかった。


「おい! しっかりしろ!」


 胸に大きな風穴の空いた兵士に、軍曹は駆け寄っていった。心臓が潰されては、さすがにこの生命力をもってしても命を長らえるのは不可能なのだろう。彼の呼吸音もまた、次第に小さくなっていき、やがて消え失せた。


「どうして、どうしてだよ。どうしてこうなっちまうんだ」


 神の果実に翻弄された二人目の犠牲者の亡骸を、軍曹は抱きかかえる。またしてもあの果実に、部下が狂わされ、殺されてしまった。自らの無能さを懺悔して、軍曹は叫びながら亡骸を抱く腕に力を込める。


 その時だ。

 兵士の亡骸から、ぽろりと何かが転がり落ちた。

 すべてが吹き飛ばされ血の一滴すら零れていない――何もないはずの胸の風穴から。


 その転がり落ちた物を見た軍曹は、ただひたすらに驚愕し、狼狽し――恐怖した。


 それもそうだろう。



「……どうして?」



 兵士の胸から零れ落ちた真っ赤なそれは、どこをどう見てもトマトにしか――神の果実にしか見えなかったからだ。

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