憎い・明確な言葉・心臓

 ここは、楽園に違いない。

 争いやいさかいもなく、誰もが笑顔で日々を過ごしている。


「皆さん。食事の時間です。よく噛んで、いただきましょう」


 溌剌とした声でそう叫ぶ先生も、また笑顔だ。

 大きく元気な声と明るい笑顔で、僕たちは一斉に『いただきます』と声をあげる。この施設の食事は、栄養バランスが完璧に計算されており、毎日決まった時間に食べるだけで心身ともに健康を保つことができる。


 僕たちがこうして病気知らずで元気に生活を送れているのも、施設の努力の賜物と言えよう。食材と施設に感謝の念を抱きながら、僕は箸を手に取って白米を口に含んだ。


 咀嚼の回数は三十回と決まっている。これ以上少なくてもいけないし、多くてもいけない。栄養を効率よく吸収しつつ、食事の時間を長引かせないのにはこの回数が最適なのだ。三十回分の咀嚼とともに感謝を噛みしめて、栄養と感謝を飲み込む。ここでの食事しか知らないけれど、きっとこれが『美味しい』という感情なのだろう。


「皆さん、それでは昼寝の時間です。三十分、しっかりと眠りましょう」


 食事を取ってから一時間後には、昼寝の時間がやってくる。満腹となりぼんやりとした頭を落ち着けるのには、昼寝が一番よい。眠気からくるストレスは、まるで健康によろしくない。三十分の睡眠をとることで、脳は休まり体はリフレッシュし、健やかな体を維持することができる。これも、三十分より少なくても多くてもよくない。


「今日はランニングです。一定のペースを保ったまま、決まった距離を走りましょう」


 昼寝のあと少しすると、運動の時間がやってくる。運動に関しては、一ヶ月のルーティンが決まっているが、その大半はランニングだ。適度な運動が体に良いことは、もう言わなくてもいいだろう。


 そしてまた夕飯の時間となり、夜十時には床につく。

 こうして、僕たちは健康な生活を維持できているのだ。


 ストレスもなく、完璧なカリキュラムのもと健康な体を維持する。

 ここには憎いとか悲しいとか怒りだとか、負の感情は一切ない。何不自由なく健康に暮らしているのだ、そういった感情を持つことすらおかしいと言えよう。


 第一、憎いだとか悲しいといったマイナスの感情は、体へいい影響を及ぼさない。そしてそのことを先生たちは誰よりも知っていて、僕たちをそうはさせまいと細心の注意を払っていてくれるからだ。


「今日は嬉しいお話があります。彼は今日、この施設を卒業します。これから外に出て、人々の役に立つのです。皆さん、笑顔で彼を送り出しましょう」


 時々、朝礼でこういったことがある。

 外での役割を得た生徒が、ここを巣立っていくのだ。そこにも、悲しいといった感情はなく、卒業する彼も、見送る僕たちも笑顔だった。


 卒業するということは、外で人の役に立つ時がきたということだからだ。これまで健康に保ってきたその体を遺憾なく発揮する、これまでの集大成であることを、誰もが理解していたからだ。卒業して、ようやく人の役に立てる、こんなに嬉しいことはないだろう。


 彼が卒業してから、一ヶ月が経った。

 相変わらず、ここは楽園だ。朝早く起きて、食事を食べ、勉学に励み、運動をして、夜早く寝る。幸せで健やかなる生活が、この楽園にはある。毎日何不自由なく、健康な体を維持し続けることこそ、僕たちの目的であり幸福なのだ。


「今日は嬉しいお話があります。彼は今日、この施設を卒業します。これから外に出て、人々の役に立つのです。皆さん、笑顔で彼を送り出しましょう」


 そして、とうとう僕が卒業する時が来た。

 体に異常はなく、相変わらずの健康体だ。外に出て役割を果たすことができると確信できる。


 ああ、これから僕は人の役にたてるのだ。

 生まれてから十数年、この楽園で保ってきた健康な体で、人の役にたつことができる。僕はなんて幸せな人間なんだろう。そう考えると、自然に笑みがこぼれてしまう。


 眼前にいる何人もの生徒たちは、これからの僕を待つ幸福を祝うよう、笑顔で僕を送り出した。


「ここです。いいですね、あなたはこれから人の役にたつのです。あなたの生まれてきた意味は、ここにあります。幸福を祈ります、お幸せに」


 先生に連れられてやってきたのは、とある大学病院の一室だった。扉には、よく見知った名前が書かれている。先生に促されるまま、僕だけが病室の中へと足を踏み入れる。


 病室の中には、よく見知った顔の男が、ベットに横たわっていた。


「はじめまして。僕はあなたの幸せのためにやってきた者です。体は健康そのもので――」

「おべんちゃらはいい。幸せだか何だか知らねえけどよ。何だか浮ついた綺麗な言葉で濁すのがお前んとこの工場の方針なんだろうけどよ、明確な言葉で言ってくれ。回りくどいのは嫌いなんだ」


 僕の言葉を遮って、男は大層不機嫌そうな声でそう言った。

 その言葉に苛立つこともなく、彼の要望に応えて明確な言葉で端的に、けれでも笑顔で、伝えることにした。



「製造番号M-199307、体に異常は見られません。健康体そのものです。あなたが移植を希望する心臓につきましても、一切の疾患なく正常に作動しています。あなたのクローンである僕の心臓ですから、移植も問題ないでしょう。この度は『クローン保険』のご利用ありがとうございました。つきましては契約内容のご確認を――」



 目の前に横たわる、僕とまったく同じ顔をした男に、憎いだなんて感情は一切ない。契約者であるオリジナルに命を捧げることこそ、僕たちクローンの幸福なのだから。


 ここは、楽園に違いない。

 その幸福を噛みしめて、僕は満面の笑みを浮かべた。

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