春・橋の下・おかしな山田くん
春がきたなあと実感するのは、どんな時だろうか。
満開の桜を見た時、ぴかぴかのランドセルを背負った新一年生を見た時、暖かな木漏れ日についウトウトしてしまう時――その答えは人によって様々だと思う。
「やられましたね」
「ああ、ようやく春がきたってこった。どうりで最近、やけに暖かいわけだぜ」
ただ、この街で働く警察が『春がきた』と感じる瞬間は、すこし変わっている。
「これで四年連続ですか、『おかしな山田くん』が現れるのは」
「六年だ馬鹿たれ」
街のはずれにある橋の下に集った若手警官と老警官は顔を見合わせると、大きく溜息をついた。漏らした吐息が、暖かな春の日差しの中へ溶けていく。
まるでタイミングを合わせたかのように、二人は同時に橋脚へ刻まれた文字を目をやった。
『YAMADA』
圧倒的な存在感を放つ太い橋脚には、圧倒的な存在感を放つ文字が描かれている。恐らく黒いペンキで描かれたであろうそれは、ストリートアート特有のそれとはまったく違う、えらく達筆な楷書体であった。
「けど、なんだってこんなことするんですかね」
「馬鹿の考えることなんざ、考えるだけ馬鹿になるぜ。警察への挑発か、それとも膨れ上がった自己顕示欲がそうさせるのか。何にせよいい迷惑だ」
この珍事件は、老警官が先ほど言ったように、六年連続で起きている。
はじめは、隣の市と街を結ぶ、この街では一番大きな橋の下だった。それから春が来るたび、この街のにある橋のどこかに『YAMADA』の文字が刻まれるようになったのだ。
この街は河川に囲まれており、橋の数も非常に多い。春の始まりから終わりまでの長期間、すべての橋に監視の目を行き届かせることも叶わず、毎年毎年『YAMADA』の文字は刻まれてしまう。
すっかりこれは警察の間で風物詩となっている。この文字を見て、街の警官は春の訪れを実感するのだ。
「まったく、『おかしな山田くん』め。おかしな事件を起こしやがるってもんだ」
いつからか警官たちは、この事件の犯人を『おかしな山田くん』と呼ぶようになった。警官たちは、手練れの犯罪者にあだ名をつけることが多い。デパ地下で万引きを繰り返す主婦を『デパ地下の梅子』なんて呼んでみたり、朝の通勤電車でスリをはたらく輩を『通勤特快のシゲ』なんて呼んだりしているのだ。
というわけで、春になると『YAMADA』の文字を描くおかしな奴を、警官たちは『おかしな山田くん』と呼ぶようになったのだ。
「ええい。堪忍袋の緒が切れたぞ俺ァ。来年こそ『おかしな山田くん』に目にもの見せてやらァ」
六年の長きに渡ってコケにされてきたのが気に食わないのだろう、老警官は橋脚を蹴飛ばしたかと思うと、いきり立って踵を返した。
それから数ヶ月の時が流れ、誰もが『おかしな山田くん』の存在を忘れかけていた時のことだ。若手警官は老警官に呼び出しをくらった。何か怒られるようなことをした覚えもないので、はてと首をかしげながら老警官のもとへ向かった。
「来たな。今日から忙しくなるぞ」
満面の笑みでそう語る老警官の傍らには、おびただしい数の有刺鉄線が鎮座していた。
「なんですかこれは」
「奴に目にもの見せてやると言ったろ。これを今日から橋の下に張り巡らせるんだよ。ま、バリケードってやつだ」
あの不可思議な愉快犯が現れるのにはまだ半年以上あるというのに用意周到な人だ、と感心すると同時に気が滅入ってくる。そして、老警官が次に言った一言に、若手警官はさらに辟雍することとなった。
「今日からこれを、街中の橋の下に張り巡らせるぞ。さあ着いてこい」
街には何個橋があったかを考える暇もなく、彼は老警官に引きずられていった。
それから毎日、二人の警官は橋の下に潜ってはバリケードを組み始めた。気の遠くなるような作業であったが、老警官の真剣な眼差しを見ていると、止める気にもなれない。
そして、春を間近に控えた二月、とうとう街中の橋の下にバリケードを張ることに成功した。
これで奴は手も足もでまいと、春を待った。数人でいくつもの橋を巡回したが、『おかしな山田くん』が現れることもなく、春は終わりを迎えた。
「どうだ。捕まりこそしなかったが、被害もなかったぞ」
警官たちが『おかしな山田くん』のことを忘れてもなお、老警官の頭はあの馬鹿げた事件のことで一杯だった。
春も終わり、梅雨の足音が聞こえてきた雨の日のこと。二人の警官に思いもよらぬ一報が舞い込んできた。
「『おかしな山田くん』と思われる事件です! 現場へきてください!」
『と思われる事件』という言葉にひっかかりは覚えたものの、すっかりと浮かれていた二人は愕然とした。
現場である橋の下に急行すると、彼らが必死に組んだバリケードは破られ、見るも無残な姿となっていた。
この事件の犯人は、どれだけ執念深いのだろう。
春を過ぎてもなお、奴は橋脚に文字を描いていったのだ。
この滴る雨は、奴の悔し涙か、それとも滲む汗か。
有刺鉄線の結界を破るほどの執念が、例年とは一文字違ったかたちで、二人の警官の頭上に広がっていた。
『
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