念願の異世界転移を果たしたはずなのに、どうも様子がおかしいんだが?

うろうろ

第1話 なんだか変な場所で目覚めたんだが_前半


 ――――暗闇の中で、俺は目覚める。


 目覚めは、ひどいものだった。目覚めた瞬間に激しい眩暈と吐き気に襲われ、酸っぱい胃液が喉元まで込み上げてくる。


 仰向けの状態では胃液が吐き出せず、喉を塞がれる苦しさを味わいながら、俺は必死に起き上がろうともがいていた。


 だが、身体が思うように動かない。借り物の手足のように、指先に脳の伝達が伝わらず、震えるばかりで動かない。


 しばらくして、気づいた。


 ――――俺が横たわっているのが、俺の部屋にあるベッドじゃなく、縁がある、浴槽のような箱の中なのだということを。


 混乱よりも恐怖が先に立って、俺はがむしゃらにもがき、何度も起き上がろうとしては、力が入らずに倒れるということを繰り返した。


 ようやく五度目の挑戦で、何とか身体を起こすことに成功し、俺はまわりを見回した。


 ――――そこは、とても暗い場所だった。手が届く範囲ですら不確かで、まるで暗色の布に包まれているような感覚だ。そこに何があるのかわからずに、腕を伸ばすことを、ひどく恐れている。


 だが、何も見えなくても、そこが広い場所だということはわかった。うまく言葉では言い表せないが、空気の流れとでも表現すればいいのだろうか、とにかく、そこが広大な空間であることを、肌が感じ取っていたのだ。


(・・・・ここはどこだ?)


 ここに来るまでの出来事が、何一つ思い出せない。


 何も思い出せないことに動揺しながら、俺は箱の中から這い出そうとしていた。箱の縁に手をかけ、外に向かって大きく乗り出す。


「わっ・・・・!」


 だが、何かの力に引き留められた。何かが、俺の腕を引っ張っている。


 なにか、紐のようなものが腕に絡みついて、俺を引き止めているのだ。


 それを引き千切るように外して、俺は箱の縁を乗り越える。


 勢いあまって、顔面から落ちて、床にキスする羽目になった。


 力が入らない膝を叱咤して、生まれたての小鹿のように震えながら立ち上がった。床を這い、何とか手探りで壁を探し当てて、壁を支えにしながら、必死に出口を探した。


 ――――どれぐらいの間、暗闇の中を彷徨っていたのだろうか。暗闇と耳が痛くなるような静寂の中に置かれると、たった数分でも本当に気が狂いそうになるのだと、身をもって思い知る。


「・・・・!」


 通路を曲がった時、ようやく、光を見つけることができた。それは高い位置にあり、光の雫が、階段の踏板の線を、白く浮かび上がらせている。


「出口だ・・・・!」


 思わず叫んで、俺は階段に飛びついた。這い上がりながら、光を目指す。


 ――――外に出ても、しばらくは眩しくて、何も見えなかった。


 少しずつ瞼を開いていく。


 目の前には、緑の世界が広がっていた。書割に描かれたような真っ直ぐな大樹が、視界を埋め尽くしている。深い、森の風景だ。


「・・・・・・・・」


 どうして、俺はこんな場所にいるのだろうか。暗闇から解放されて、少し恐怖が和らぐと、今度は混乱に襲われた。


 振り返り、俺を閉じ込めていた建物を見上げる。


 ――――そこは、神殿のような建物だった。


 あまりにも巨大な施設で、全体像は見えなかったが、白い外壁と列柱は、ローマの神殿を彷彿とさせる。大きな入口は、まるで人間を飲み込もうとしているようだ。


「いてっ!」


 建物の全体像を見るために、後ろに下がり続けていた俺は、背後にあった木に気づかずに、背中をぶつけてしまう。


 振り返ると、Sの字のように折れ曲がった木がそこにあった。


 すぐに離れようとしたが、気づかないうちに、袖が棘のような枝に引っかかっていたらしい。


「あーあ・・・・」


 しばらく、枝にぶら下がった袖の切れ端を見つめたまま、動けなかった。切れ端を取ろうかとも思ったけれど、そんなことをしても、どうせ袖は元には戻らないのだ。諦めて、視線を建物に戻した。


「どうして、俺はここに――――」


 ――――道路に落としたものを拾おうとして、車に撥ねられた。


 ようやくそこまで思い出したが、それ以降の記憶がない。病院にいるはずなのに、どうして俺はこんな場所にいるのか。


 いや、今はそんなことを考えている場合じゃない。この身体の倦怠感、借り物のようにぎこちない手足の感覚――――事故の後遺症が、残っているのかもしれなかった。


 早く、誰かに助けを求めなければ。誰かに出会えれば、どうして俺がこんな場所にいるのか、その人が教えてくれるだろう。


 幸い、建物から森まで、未舗装の小道が、蛇の背中のように続いていた。明らかに人の手が加えられた道だ。この周辺に、人が住んでいる証拠だろう。


 人を探して、俺は歩き出す。


 でも、歩いても歩いても、人里は見えてこない。


 歩いているうちに、徐々に不安が強くなってきた。


 人が作ったと思われる道があるのだから、単純に歩き続けていれば、人里にたどり着けると考えていた。だけど、間違っていたのかもしれない。


 ――――この道が、どこにも繋がっていないのなら。


 そんな不安が、膨張していく。


(いや、ほんと、なんで俺はこんな場所にいるんだ? ・・・・まさか、誘拐されたのか?)


 すぐに、あり得ないとその可能性を否定する。若い女ならともかく、交通事故に遭って意識がない人間を、遠くまで運ぶメリットがない。


(まさか、異世界に来たとか――――いやいや、あり得ないよな)


 一時期流行っていた、異世界転生を題材にしたストーリーを思い出していた。事故で死に、気づいたら、違う世界に転生していた――――なんていう展開は、もはやお約束だ。


「・・・・はは、まさか、な」


 だけど俺は、声に出して、その可能性を否定する。――――創作物をリアルに重ねるなんて、馬鹿げている。


 俺が歩いた距離は、まだわずかだ。だけど疲弊しきった今の健康状態では、数メートルの距離すら、苦痛に感じた。


 ゆっくりと歩き続けることで、少しずつ体力が戻ってきたけれど、それでも万全の体調に戻るには、まだまだ時間がかかりそうだった。


「まず、出口がどっちにあるのか、確かめてみるべきかもしれないな・・・・」


 俺は独り言を言いながら、まず何をするのが最善なのか、それを考える。


 道を歩いていれば、いずれ人里にたどり着くと単純に考えていたが、もしかしたら途中で、道がどこかで途切れている可能性もあった。

 

(森の広さを確かめよう)


 森の広さを確かめるために、俺は小高くなっている場所を見つけると、登れそうな斜面を探し出して、足をかけた。


「ふう・・・・」


 ひいひいと情けない声を上げながら、丘を登り切った俺は、一息ついてから、あたりを見回した。


「・・・・嘘だろ・・・・」


 ――――目の前に広がっていたのは、広大な緑の絨毯だった。視界に入る限り、大地は、すべて、羽毛のような軽やかな緑色に覆われている。山の輪郭は遠く、霧の向こうにあるように、薄ぼんやりとしていた。


 そして山の向こう側にあるのは、巨大な壁だ。


 灰色の壁。コンクリートのような素材でできていて、すべて直角だから、人工物であることは間違いない。


 問題は、その高さだ。その壁は、手前にある山と同じぐらいだったのだ。山がそれほど高くないことを考慮しても、この距離から同じ高さに見えるのだから――――おそらく、あの壁は、高層ビルのように高いのだろう。


 そして壁が大地を分断しているから、その向こう側は見えない。横に視線を動かして、壁が途切れる場所を捜してみたものの、壁はどこまでも続いていて、途切れている場所は見つけられなかった。


 どこだよ、ここ――――この広さは、郊外にある、こじんまりとした雑木林の規模じゃない。富士の樹海並みの広大さだ。


「な、なんで俺、こんな場所に・・・・」


 もしかしてここは、富士の樹海なのだろうか。


(いや、そもそも富士山が見えないし・・・・)


 そもそも富士山が見えないのだから、ここが富士の樹海であるはずがない。――――とすると、本当にここはどこなのか。


「・・・・まさか、マジで異世界に来たのか?」


 俺の呟きは滴るように、森の静けさの中に波紋を投げかけた。


 だけど、呟きは虚しい。ここには、俺の質問に答えてくれる者が誰もいないのだから。


「・・・・いや、異世界なんて存在するはずがない、か」


 そして俺は、いつもの自問自答の習慣から、自分が虚空に投げかけた質問に対して、自分で答えていた。友達も彼女もいない、孤独のうちにすっかり身に付いてしまった習慣だ。


 さて、これからどうするべきか。ここがどこなのかという、決して出ない問題について考えるより、これからどうするのかを考えたほうが、まだ有意義だ。


 結局、森の出口がどちらなのか、わからなかった。とにかく、誰かに会いたい。この状況で誰かに会うには、やはり道を歩くのが一番だろうと、俺の考えは最初に立ち戻る。


 俺は丘を下り、道に戻って、とぼとぼと歩き続けた。道を歩き続けていれば、誰かに会い、どこかにたどり着ける。――――思考停止した頭は、そんな希望的観測に向かって、突き進んでいた。




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