ピンクの傘

西田彩花

第1話

 突然の雨だった。今日は晴れの予報ではなかったか。


 先週置き傘を使ったばかりの俺は、途方に暮れた。今日は日曜日。遠くから吹奏楽部の演奏音が聞こえるが、その他の声は聞こえない。生憎吹奏楽部に知り合いはいないし、どうしたものか。20分ほど待ってみたけど、やむ気配がない。むしろ雨足が強まっているような。


 普段サボりがちな課題だが、明日提出の数学に関してはヤバい。赤点続きなのはまあ良いとして、数週間課題提出をサボっていたら、先生がキレ始めた。放課後マンツーマンで補習、とか言い始めて、さすがにそれは嫌だ。最低でも3ヶ月続けるとか言い始めている。ちょっと頭おかしいんじゃないのか、とか思ったけど、あいつは頭おかしいから本当にやりそうだ。


 てことで今日は課題を取りにきたわけだ。山ほどあるプリントを見て、うんざりしていた…ところにこの大雨。踏んだり蹴ったりだな。


 傘なしで帰ると、プリント死亡確定。ファイルを持ってこなかった自分を悔やむ。誰のものか分からない置き傘を使うのも気が引けるよなぁ。だって俺、借りたまま忘れてしまう可能性が高いし…。


 職員室に誰かいるかもしれないけど、あっちの建物に行くには、やはりこの雨を通らないといけない。誰だよ、こんな不便な構造にしたのは。


 もう、良心を捨てて置き傘を借りるか…と、傘立てを見た瞬間だった。


「あのー…」


 そこには、長い髪が印象的な女の子が立っていた。あれ、こんな子いたっけ?と目を疑うくらい可愛い子だ。


「雨、すごいですね。傘、ないんですか?」

「そう、急な雨で困ってるんですよね。あなたは?」

「…どうぞ」


 女の子は、ピンクで可愛らしい傘を差し出した。い、いや、この傘で帰るのはちょっと恥ずかしい…けど、彼女がいるフリをしながら歩けると、ちょっと優越感かも。


「いやいや、あなたが帰るのに困るでしょう。気にしなくて大丈夫ですから」

「私、折り畳み傘も持っているので」


 女の子は、可愛い笑顔をこちらに向けた。ほんっとに可愛いな。一緒に帰りたいくらいだよ。そんな勇気ないけどさ。


「じゃ、お言葉に甘えて借りちゃおうかな。何組ですか?返しにいくので」

「3年10組です」

「分かりました、ありがとう!」


 俺は、ピンクの傘を広げて帰った。ハートとかリボンとか、そういう柄がたくさんあって恥ずかしかった。彼女に借りた傘、彼女に借りた傘、優越感、優越感。頭の中でそんなことを唱えながら帰った。


 家に帰ると、一気に疲労感が襲ってきた。いったん眠ってから課題……そして、起きたときには深夜3時で、諦めた。補習をストップさせる方向で動こう…。


・・・


 不思議な夢を見た。ロングヘアの女の子が、誰もいない廊下で泣いていた。俺は彼女に話しかけることができなかった。見て見ぬ振りも加害者、と聞いたことがある。俺は、そういった意味では多くの物事で加害者だ。少しでも不穏な空気がしたら、近づかないようにしている。でもこれは、俺なりの処世術だ。


 廊下には誰もいないんだけど、なぜ「大丈夫?」と話しかけられない空気なんだろう。知らない人だから、とかではない。不穏な空気がそこにあるのだ。俺のセンサーが反応している。関わってはいけない、と。その原因がどこにあるのかは分からない。


 膝を抱えて泣いていた女の子が、不意に顔を上げた。目を腫らしたその顔は、ピンクの傘の子だった。


 驚いて声が出そうになったけれど、平静を装ってその場から去った。廊下を抜けるとグラウンドがあり、いつの間にか、俺はピンクの傘を持っていた。


・・・


「……!」


 夢から覚めると、見慣れた部屋にいた。時計を見ると7時。そろそろ用意しないと今度は遅刻だな。


 多分、ピンクの傘の子が強烈に可愛かったから、印象に残りすぎたんだと思う。ひと晩で夢に出てくるなんて、俺も単純な奴だ。助けてもらったには変わりないから、何か助けられることがあったら助けてあげよう。そんなことを思いながら、ピンクの傘を持って出かけた。


 始業前、3年生の校舎に行った。1学年違うだけなのに、随分大人っぽい生徒がいるものだ、と驚いた。


 …あれ。


 10組なんて、ない。空き教室は確かにあるけれど、クラスらしきものがあるのは、9組までだ。3年生の校舎はここだけのはずだし、うーん。


「おい、田中」

「わっ!三角先生!」

「お前、課題ちゃんとやったんだよな?マンツーマン補習、忘れてないよな?」

「えーっと、は、はい」

「ていうかお前、何でここにいるんだ。3年生の校舎だぞ。しかもやけに可愛らしい傘持って。もしかして彼女?…なわけないよなぁ」

「いやいや失礼すぎるでしょ。や、先生、昨日雨降ったの覚えてます?課題取りにきたんだけどさぁ、傘がなくって。知らない女の子に借りたんですよ。それがこれ。で、その子3年10組とか言ってたから返しにきたんだけど…」


 奇妙な無言が流れた。え、おかしくね?夢で見たような、不穏な空気のような。関わっちゃいけないもののような。


「その傘、ロングヘアの子から借りたのか」

「…はい」

「ちょっと来い」


 先生に連れられた先は、空き教室だった。関わっちゃいけないセンサーがビンビン反応する。


 先生が話し始めた。


 先生が、この学校に赴任したての頃らしい。前にいた学校はかなり荒れていて、生徒に注意できる教師自体少なかったそうだ。生徒同士の喧嘩は日常茶飯事で、教師もよく暴力を振るわれた。子どもといっても高校生。しっかり力はついているし、中年男性よりも体力が有り余っている。要するに、どうすることもできなかったのだ。先生も、他の先生同様見て見ぬ振りをすることが多々あったそうだ。ボコボコにされている生徒がいようと、その生徒が翌日から不登校になろうと。


 そもそもそんな学校が異常なのだが、先生はそれに慣れてしまったそうだ。そして、この学校に来ても、生徒のいざこざに首を突っ込まないスタンスを取っていた。最初に担任になったのが3年10組。ちょうど、今俺たちが座っている教室だ。受験生ということもあり、若干ピリピリした空気。先生は、淡々と仕事をして、淡々と1日を終えていたそうだ。


 そんな中、いじめが起きた。その女の子は、学校でも美人だと有名だった。特に目立つ生徒ではなかったが、たまに恋愛沙汰に巻き込まれている様子があったという。美人も大変だなと、そう思っていた。そんな時、ある噂が流れ始める。担任、つまり今目の前で話している先生と、体の関係を持ったのではないか、と。なぜそういった噂が流れたのかは分からない。事実無根だが、先生は表立って否定しなかった。面倒事に巻き込まれるのが嫌だったのだ。噂は知らない振りをした。


 その生徒は、もともと成績が良い子だった。だけど、先生に媚びを売って、テスト内容を教えてもらっているのではないか。内申点を稼いで、推薦入試を狙っているのではないか。


 恐らく彼女に嫉妬した人が流し始めた噂だろう。恋愛関係のもつれからかもしれないし、美人で成績優秀な存在に対してかもしれない。


「あのー…」


 ある日の放課後、その生徒に話しかけられた。よく雨が降る日だった。


「三角先生。私と先生に、変な噂が流れているんです」

「…噂?」

「私が先生と…その、関係を持ったとか」

「……」

「ずっと辛いんです。先生、ホームルームで否定してください」


 先生は何も言えなかったらしい。帰ろうとしたとき、誰もいない廊下で、膝を抱えて泣いている彼女を見たそうだ。だけど、先生は何も言えなかった。


 翌日、彼女の死を知った。不運だった。雨でスリップした車が玉突き事故を起こし、巻き込まれてしまったのだ。彼女はなぜか傘を持っていなかったらしい。お気に入りの傘は、クラスメイトに盗られてしまっていたようだ。雨に濡れながら帰っていたのだろう。


「…見て見ぬ振りも加害者」

「ん?」

「見て見ぬ振りも加害者っていうじゃないですか。先生だって加害者ですよ。その生徒を間接的に殺したのは、先生ですよ」


 堰を切ったように言葉が出てきたが、自分も人のことを言えないのは分かっていた。俺も多くの物事で、加害者になっているはずなんだ。


 うなだれる先生を一瞥して、教室を出た。もううんざりだ。ピンクの傘は、教室に置いたままにした。


 その日の授業は、何も頭に入らなかった。先生は補習の話をしない。当たり前だ。俺は当然のように、先生を無視して帰った。


 その日も不思議な夢を見た。


・・・


「三角先生、私と先生に、変な噂が流れているんです」

「…噂?」

「私が先生と…その、関係を持ったとか」

「……」

「ずっと辛いんです。先生、ホームルームで否定してください」

「……」

「お願いです、辛いん…!?」

「ちょっと静かにしようか」

「んん!」

「それが単なる噂なんだったら、本当の話にしてしまったら良いんじゃないかな」

「ちょ、やめてください!」

「静かにしないと、もっと酷いいじめに遭うんじゃないの?ほら、見られちゃったら終わりだよ?」

「……!」


 全てが終わった後、私は惚けていた。何が起こったのか分からなかった。悲しいときは涙が流れるのだと思っていたけれど、涙が出ない自分に驚いた。「小さく声を出せ」と言われ、それを拒否できない自分が嫌だった。声の出し方なんて分からなかったけれど、もっと酷いことをされるかもしれないと思って、全て言う通りにした。私は先生に、媚びを売った。噂のまんまだ。私は醜い女だ。


 高校に入学した時、可愛い傘を買ってもらった。おばあちゃんからのプレゼントだ。私はそれを、とても大事にしていた。今日はよく雨が降っている。気づいたとき、その傘はなくなっていた。教室を見渡しても、どこにもなかった。


 廊下に出て、途方に暮れた。雨がやむ気配はない。窓に叩きつけられる雨を見ていると、涙が出てきた。良かった、悲しいという感情はちゃんとあった。1人で泣いていると、足音が聞こえた。顔を上げると、先生がいた。私の大切な傘を持って歩いていた。怖くて何も言えなかった。私は弱いし、醜い。


 先生は、少し笑ったように見えた。弱くて醜い私を嘲ったのだろうか。


 傘はないけれど、もう、帰らなければ。


・・・


「……!」


 やけにリアルだった。どの声も、リアルだった。昨日の夢で、最後にピンクの傘を持っていたのは誰だろう。先生なのかもしれないし、俺なのかもしれない。


「見て見ぬ振りも加害者」


 自分の声が部屋に響く。これはただの夢だ。きっと真実ではない。だけど、もし真実なら。見て見ぬ振りも加害者だ。俺はずっと繰り返すのか。先生を責める資格はない。


「見て見ぬ振りも加害者」


 もう一度、自分に言い聞かせるようにして言った。その声は、やはり部屋に響くだけだった。

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