風の向こう側

マツダシバコ

風の向こう側

 風が吹いていた。

 ママはイラついていた。

 せっかく受話器を取って耳に当てたのに、聞こえてくるのは風の音ばかりだからだ。

 「もしもし」

 「もし、もし?」

 「もしもーし!」

 返事はなかった。

 電話の向こうのどこか遠くで洗面器が転がっているような乾いた音がした。

 

 実際、地面を転がっていたのは洗面器だった。青いポリエチレン製の安ものの洗面器だ。

 辺りには色々なものが舞ったり、転がったりしていた。

 少年はそこに立っていた。

 幼い少年だった。

 まだお母さんにおっぱいをねだってもおかしくないくらいの年齢だ。

 風で飛ばされたものが容赦なく少年の体にぶつかっていった。

 少年は風に逆らって進もうとしていた。

 しかし、数歩歩けば、また数歩押し戻されてしまった。そして、呆然とそこに立ち尽くしていたのだった。

 さっき、受話器を手にしたのは少年だった。

 けれど、ママの声に驚いて手放してしまったのだ。

 ママの声は少年にとってあまりに唐突で、にぎやか過ぎた。

 「もし、もーし!」

 「おーい!」

 「ちょっとー、もう!」

 ママはあいかわらず大きな声で受話器に呼びかけ続けていた。

 電話口にもう誰もいないのかもしれないと思っていても、諦めきれなかったのだ。

 まさにその電話が鳴ったのは100年ぶりだった。

 ママにとってそれは待ちに待った電話だったのだ。

 声が枯れるとようやくママは諦めて、「ちぇっ」と舌打ちをして受話器を放り投げた。

 受話器はコードを垂らして宙にぶら下がった。

 電話は駅のホームに設置されていた。

 黒くて長い一本足の置き台にその電話は置かれていた。

 ママはホームで列車が来るのを待っていた。

 少なくとも100年以上。

 電車がやってくる気配はなかった。

 果てしなく長いホームの端は暗闇の中に消えていた。

 ママはベンチに座った。

 ベンチもホームと同じくらい長い曲線を描いていたが、座っているのはママひとりだった。

 そこは死者が乗る列車のホームだった。

 ママは自殺したのだった。

 寿命を全うして死んだ人たちは、違うホームの違う列車に乗ってとうにどこかに行ってしまった。

 自殺者は黒いずきんを被せられて、暗闇からやってくる列車に乗ることに決まっていた。

 こんなズキンなんて!と脱ごうとしても、ずきんは絶対に頭から外れなかった。

 ズルはできないのだ。

 それでママは仕方なく、いつ来るかわからない電車を待っていた。

 ホームの淵から下を覗くと、下界が見えた。

 でも、それがどこなのか、いつの時代なのかわからなかった。

 ママは電話をかけてきた相手を見つけようと、ホームの淵に立って目をこらした。

 ママは受話器の外れた電話機を見つけた。

 それは潮が荒れ狂う岬の突端にあった。

 そこは飛び込む者が後を絶たない自殺の名所で、電話はそんな自殺志願者の最後の砦として誰かが設置したものだった。

 その電話は受話器を耳に当てると、不思議なことに必ず誰かが電話に出た。

 地上の人々はその電話がどこに繋がっているのかわからなかった。

 「亡くなったおじいさんが死の淵から僕を助けてくれた」と、あるものは言った。

 「いや、あれは天使の声に違いない」

 誰もが都合のいいように電話口の声を聞いて、都合のいい解釈をした。

 実際、電話の向こうの声は、この世のものとは思えない不思議な声なのだ。

 電話をかけてきた者の運命は、上空の世界で電話に出た者に委ねられていた。

 ママはわくわくしていた。

 いい男だったらこっちに引きずり込んじゃおうかしら。それとも涙の説得で感謝されるのもいいわねと、ママは考えていた。

 それで思わず張り切った声を出して、少年を驚かせてしまったのだ。ママは反省していた。

 「戻ってこないかしら」

 ママは宙にぶら下がった受話器に目をやった。

 少年の体は恐怖でぐっしょりと濡れていた。

 少年は自殺志願者ではなかった。

 ただ、この先どうやって生きていけばいいのか方法がわからなかったのだ。

 その絶望が風を呼び、何もかも少年もろともかき消そうとしていた。

 少年の両親は死んでしまった。

 兵隊に捕まって、首を落とされてしまった。

 少年はもの陰に隠れてその様子を見ていた。

 あまりのことに思わず声を上げそうになったが、声さえ出なかった。

 町の中の大人たちはみんな殺されてしまった。

 その死体から金品が剥ぎ取られ、兵隊たちは少年のいる町を通り過ぎていった。

 ホームの淵から下界を見下ろしていたママは、その一部始終を把握した。

 「かわいそうに」ママはつぶやいた。

 とうとう少年は風に押されて、岬の突端に戻されてしまった。

 あとひと吹きで海の中だ。

 少年は電話の置き台の黒い足に必死にしがみついた。

  服の裾が強く風になびいて、そして、布の端をちぎって持っていった。

 「電話に出るのよ!」ママは電話口に叫んだ。「電話に出なさい!」

 少年は怯えきっていた。

 「お願い。電話に出て」

 少年はようやくぶら下がった受話器に手を伸ばして耳を当てた。

 「死んではダメよ!」ママはすかさず、そう叫んだ。

 少年は驚いてびくりとした。

 ママは咳払いをして、歯の浮くような裏声で言い直した。

 「死んではダメよ。坊や」

 「ママなの?」少年は言った。

 「まあ、ママといえばママね」

 あなたのママじゃないけどねと、ママは心の中でうそぶいた。

 「ママ、、。」

 その響きはママをきゅんとさせた。

 

 ママは黄泉の世界にくる前に子供を中絶していた。

 お腹にいるときは邪魔だったのに、いなくなると世界中の灯りが消えたように寂しくなった。

 それからママは罪悪感やら悲しみやら怒りやら嫉妬やら絶望感やら疲労感やら色々な感情に翻弄されて、思わず自殺をしてしまった。

 「バカみたい」

 その時のことを思い出すと、いつもその言葉が口をついた。

 誰かへの腹いせに自殺なんてするべきじゃなかったのだ。

 おかげでママの左の手首は深い切り傷のせいで今にも千切れてしまいそうだったし、頸動脈の付近にも掻き切った跡が残っていた。

ママはときどき自分でも抑えきれずこうやって景気のいいことをやってしまう。


「死んではダメよ」

 ママはもう一度、やさしい声で語りかけた。

 「聞いている?」

 少年は返事をする代わりに、爪の先で受話器を小さく叩いた。

 ママはそのかすかな音に耳を澄ませた。

 「ねえ、聞いて。死んだらおいしいものが食べられなくなっちゃうの」ママは言った。

 少年の周りにはおいしいものどころか食べ物すらなかった。

 風が何もかも海の中へ吹き飛ばしてしまったのだ。

 たくさんあった死体も転がっていった。

 少年が現実を否定するあまり風にそうさせるのだ。

 風はすべてをリセットする役割を持っていた。

 「風を止めなさい!」ママは叫んだ。

 でも、少年にはもはやどうすることもできなかった。

 少年はすでに上着もズボンも風に剥ぎ取られ裸同然だった。

 「ママ、、」

 その言葉を残して、少年は受話器ごと風に連れ去られた。

 「坊や!」

 ママはあわててホームの下を見た。

 地面が液状になって蠢きながら何もかもを飲み込んでいった。

 そして何もなかったことになった。

 ママは悲しみというより、驚いて呆然としてしまった。

 少年は消えてしまった。


******************


 少年は死んだわけではなかった。

 少年は違う時代の違う場所にいた。

 年ごろは少年というより、青年というにふさわしかった。

 青年は受話器を手に持っていたが、自分がなぜ受話器を持っているのか分からなかった。

 「もし、もし」青年は試しに電話口に呼びかけてみた。

 「うそ!」

 ママは青年の声に気づいて、外したままにしていた受話器に飛びついた。

 「あなたは誰?」青年は言った。

 「そんなこと、こっちが聞きたいわよ」すっかり少年の声がするものだと思い込んでいたママは、思わず言い返してしまった。 

 「よくわからないけど、間違い電話のようですね」青年は電話を切ろうとした。

 「待って。切らないで!ねえ、その辺りに小さい男の子がいないかしら?」

 青年は辺りを見回してみた。

 「いませんね」

 「そう」ママはがっかりした。

 「あなたは、、?」

 「私はママなの」

 「その子の?」

 「そうね」

 「心配ですね。もう少し探してみましょうか」

 「でも、もういいわ」

 ママには、今電話で話している青年こそが、あの少年であることがわかったのだ。

 「でも、お子さんは?」

 「いいの。それより私と少しお話しをしない?あなたはいくつ?どこの国の人?ねえ、恋人はいるの?」

 青年はあきれて電話を切ろうとした。

 「待って、切らないで」

 その様子を察してママは慌てて言った。

 「僕は悪質ないたずら電話に付き合ってる暇はないんです」

 「いたずら電話じゃないわ。大事な話があるの」

 「何ですか?」

 「えっと、そうね、何の話にしようかしら」

 「もういい加減にしてください」青年はだんだんイライラしてきた。

 「ああ、そうだ。あなた死にたいんじゃない?」

 返事はなかった。

 「ほら!図星でしょう?」ママはうれしくなって言った。「ねえ、どうして?わかった。恋人に振られたんでしょう?」

 沈黙はさらに深まった。

 しかし、青年は恋人に振られたのではなかった。恋人は死んでしまったのだ。

 彼女は重い病気だった。青年はその看病を何年も続けた。彼女の面倒をみることは、青年の人生の一部だった。

 彼女が死んでしまうと、青年の中身は空っぽになってしまった。

 「死んではダメよ」ママは言った。

 「何故?」

 でも、青年のその問いにはうまく答えられなかった。

 「もう、電話を切りますよ」青年は言った。

 「だって、あなたはまだ若いんだし。将来は有望だし」ママはとりあえず、ありきたりなことを言ってみた。

 青年は確かに若かった。けれど、心はもう老人のように枯れていた。

 「ねえ、あなたはもっと色々なことを体験するべきよ」

 「どんな体験をしろっていうんですか?」青年の声は氷のように冷たかった。

 「そうね。生きていれば、また素敵な恋人ができるかもしれないし、旅行にも行ったり、いろんなことにチャレンジしたり、友達と遊んだり、、、」

 「それが何だっていうんですか」

 「それが?」

 ママは青年の言葉にかちんときた。

 「あなたねぇ、あなたは死んだことがないから分からないかもしれないけど、死んだらすっごく退屈なのよ」

 「退屈?」

 「そうよ。ヒマでヒマでヒマでヒマでヒマでヒマで、、、もう、死にそうに退屈なんだから!」

 ママは果てしなく続くホームの先の暗闇をうんざりと眺めた。

 「まるで、死んだことがあるような言い草ですね」

 「バカね。まるで、どころじゃないわ。こっちは現役の死人なの」

 言ってしまってからママはしまったと思った。こんなことを言ったって信じてもらえるはずはないのだ。

 「もしもし?」ママは恐る恐る声をかけてみた。

 「フフフ。いいでしょう。あなたが死人として……」

 青年が電話を切る様子がないことがわかって、ママはほっとした。

 ママは何より暇になることが嫌なのだ。

 青年は続けた。

 「あなたが本当の死人だとして、あなたが言ってることが本当だったとしても、僕がこんなに苦しんでいるのに、それを退屈なんかと比べるだなんて!」

 青年の声には怒気がこもっていた。

 「ハハ。みんなそう思うのよ。自分が抱えている悩みこそいちばん辛いんだって。私だってそうだったわ。でも、そんなもん。退屈の恐ろしさに比べれば」

 ママは気持ちよさそうに鼻で笑い飛ばした。

 「退屈なんて……」

 「いいじゃない。悩んだり、悲しんだり、苦しんだり、人を恨んだり、ドラマみたいで。ここには本当ーーっに何もないのよ。おいしいものもないのよ?」

 「彼女が死んでから、何を食べたって味なんて感じやしないさ」

 「もったいない!」ママは心の底から言った。

 「味も感じない。何を見ても感動しない。誰に会っても楽しくない。何をしてても上の空。やる気も起きない。ただ、生きているのが、辛くて、辛くて、苦しいだけだ。それでもあなたは生きている意味はあるっていうんですか?」

 「あなたが意味がないって言うなら、それならそれでいいけど」

 ママは青年のことをそっちのけで、かつて大好物だった料理を指折り数えていた。ママは久しぶりに感じた強い欲望を楽しんでいた。

 何も必要ない何も与えられない何もない世界では、欲望の経路もいつの間にか退化して塞がれてしまう。それが、青年という下界の存在に刺激されて久しぶりに目覚めたのだ。

 ママは青年の脳みそに詰め込まれた記憶を介して、地上のごちそうをむさぼった。

 「そりゃ、あなたの勝手よ。私はあなたのママでもないんだし。だけどね、私から言わせればもったいないわよ。楽しまなきゃ。悲しむことも、苦しむことも、それに食べることもね」

 ママは山と積まれた架空の食べ物を夢中でお腹に詰め込め込んでいった。

 「本当に、ここには何もないのよ。何も」

 ママは何もない闇の中にぽっかりと浮かんだ。

 「苦しみも?」

 「そう」

 「痛みも?」

 「そう、何も感じないの」

 ママは膨れ上がったお腹をさすった。そのお腹はぱっくりと割れていて、中からへその緒が電話線のように飛び出ていた。

 自殺者は死んだときの象徴がそのまま姿となって表れるのだ。

 ママの心には、堕胎した時の記憶が深く刻まれていた。

 「悲しみも。苦悩も?」

 「ないわ」

 「屈辱も罪悪感も」

 「ないのよ」

 「だったら、天国みたいなところじゃいか」

 「そうかしら?虚しいだけだわ」

 ママはお腹の裂け目に手を突っ込むと、さっき食べた架空の料理を引っ張り出して、つまらなそうに宙に散らばせた。

 「君がうらやましい。君と変わりたいぐらいだ」

 「別に私と変わらなくたって、死ねばすぐにそういう目にあえるわ」

 「だから、僕は死のうと思ってるんだ」

 「どうぞご自由に」

 「もう、止めないんだね」

 「もうどうでもよくなっちゃったわ」

 結局、痛みも、苦しみも、悲しみも、大したことじゃないのに、そのことは死んでみないとわからないのだ。

 「でも、これだけは言っておくわ。あなたが死ぬと、死にたいほど悲しむ人がいるってこと。恋人を亡くした今のあなたみたいにね」

 「そんな人はいないって言ったら?」

 「そうねえ。ま、死んでみるとわかるわよ」

 「君にはいたんだね。悲しんでくれた人が」

 「いたわ。思いもよらない人だった」

 「どう思った?」

 「驚いたわ」

 ママは宙を見つめた。

 人はとても複雑で、罪悪感が大きな愛に育つことをママは知った。

 「そうね。死んでみるのもいいのかもしれない」

 「えっ?」

 「だって、色々なことがわかるのよ。だけど、すごーく後悔するの」

 「生きることにする」

 「えっ?」

 「もう少し、生きてみることにするよ」

 「何それ」ママは少しがっかりしたように唇を尖らせた。「ねえ、でも、それって私のおかげ?」

 「一応、お礼を言っておくよ」

 「お礼なんていらないわよ、何の役にも立たないもの。でもよかったわ。そうよ、もっと生きていっぱい恋をしなさいよ。あなたハンサムなんだから」

 「僕の顔を知ってるの?」

 「知らないけど。ハンサムに決まってるわ。そういう話し方をしてるもの。私そういう男にたくさん騙されたからわかるの」

 「僕はそんな男じゃないよ」

 「でも私、生まれ変わってもまたハンサムに恋をすると思うわ」

 「たくさん騙されたのに?」

 「そうよ。だってハンサムが好きなんだもの」

 生まれ変わったとしても、また彼女を愛するだろう、と青年は思った。


******************


 次にその電話が鳴ったのは、それから30年もしてからのことだった。

ママはまだホームにいて、腐りきっていた。

 ここには雑誌の一冊もないのだ。

 それに年をとることも、寿命がきて死ぬこともあり得なかった。

 お行儀が悪いことにママはベンチに寝そべっていびきをかいていた。

 電話が鳴った時、寝起きのママは機嫌が悪かった。

 「ちょっと!今、何時だと思ってるの?」

 黄泉には時間なんてないのに、ママは寝ぼけて言った。

 「もうっ!」

 電話を切ろうとしたところで、ママは我に返って慌てて受話器に呼びかけた。

 「もし、もし?もし、もし、、」

 返事はなかった。

 ママはホームの淵から下界を覗き込んだ。

 そして不思議な光景を見た。

 電話の前にいたのはカエルだった。詳しく言うなら、カエルのような人だった。

 カエルは二匹で、二人は手を繋いで立っていた。二匹のうち一人は、コピーのように影が薄かった。

 「何これ?」思わずママはつぶやいた。

 でも、地上に降りて見てみれば、受話器を持っているのは、小さい普通の男の子だった。単にカエルの要素が強いだけなのだ。

 人間には色々なタイプが存在した。

 ママはじっくりカエルの子たちを観察した。

 「なるほどね」とママは頷いた。それからだんだん腹が立ってきた。

「あんたたち、いい加減にしなさいよ!そんなんじゃ、いつまで経っても幸せになれないんだから!」

 ママはホームの淵から下界に向かって怒鳴りつけた。

 その怒気は雨となってカエルの子たちの頭の上に降ってきた。

 カエルの子たちはぺこりとまぶたを閉じた。

 「ごめんなさい。怒鳴ったりして。だって、あんたたちってバカなんだもの」

 ママはカエルのように受話器に飛びついて言った。

 返事はなかった。

 カエルの子たちは辛抱強く雨の中に立っていた。

 この子たちも、以前電話で話した少年や青年と同じ魂の持ち主だった。

 黄泉にいるママからはそのことがわかるのだった。

 生まれ変わりというよりは、同時にいろいろな世界で生きているのだ。

 そして、やれやれと思った。

 「自分の大切な人は、自分を置いて死んでしまう」

 その魂にはそんな思い込みが頑固なカビのようにこびりついていた。

 「だから、いつまで経っても、いつまで経っても、同じことを繰り返して。もうっ!」

 ママは地団駄を踏んだ。

 雨足はさらに強まった。

 雷も鳴った。

 ママは体に溜まったフラストレーションをどう発散すればいいのか分からずに、ホームをごろごとと転がった。

 

 カエル子たちは一卵性の双子なのだった。

 その一人の子は自殺していたが、兄弟のことが心配で残像として隣に立っているのだった。

 残された弟は、兄を追って池に飛び込もうとしていた。

 「ダメよ。ダメダメ。絶対にだめ。そんなことをしたらお兄ちゃんが浮かばれない」

 受話器から話しかけなければ声はカエルの子に届かないのに、ママはいてもたってもいられずにホームを行ったりきたりした。

 双子はみなし子だった。

 ある日、双子が暮らす施設へ、どちらか一人なら養子にしてもいいというお金持ちが現れた。

 兄は弟の幸せのために、池に身を投げた。

 弟は、ただ悲しいばかりだった。

 兄はいつでも弟の隣にいて、しっかりと手を繋いでいるのに、弟は悲しさのあまりそのことに気づいていないのだった。

 「おーい。お兄さんは隣にいるのよ。おーい」

 ママはホームから身を乗り出して、カエルの子に呼びかけた。

 雨はますます降り続いていた。

 あまりに降るので二人の姿は霞んでしまった。

 カエルの子は受話器を耳に当てていたが、聞こえてくるのは風の音ばかりだった。

 ママが電話をそっちのけでホームの淵に齧りついているせいだ。

 カエルの子はあきらめて電話を切ろうとした。

 ママは再びカエルのように受話器に飛びついた。

 「切らないで!」

 大きな声がキーンと頭に響いて、カエルの子は硬直した。

 「隣を見なさい。隣を見るのよ。あなたの兄さんは隣にいるのよ」

 カエルの子は隣に顔を向けた。

 兄さんガエルがぎゅっと繋いだ手に力を込めると、弟は自分の手先を見つめた。

 そこにはまるでランプのような黄色い光が灯っていたのだった。

 「にいちゃん」弟は言った。

 暗闇に隠れていた兄さんカエルの姿が、弟の目の前に現れた。

 「にいちゃん」

 二匹と二人は見つめ合った。

 それからハートを重ね合わせるようにして、完全な一つになった。

 二人はもともと一つの魂の持ち主なのだった。

 「よかったわね」

 ママはその様子を、テレビドラマでも観ているみたいに涙ながらに見守っていた。

 雨がやんで、霧が晴れた。

 一つになったカエルの子はジャンプをすると、元気よく池に飛び込んだ。

 それから二度と姿を現さなかった。

 「それってどういうこと?死んでしまったの?』

 本当のところ、それが良かったことなのか、そうではないことなのか、ママにはよく分からなかった。


******************

 

 そして、また電話は鳴った。

 「はいはい。電話なんでも相談室です」ママは電話の向こうに冗談を言った。

 でも、返ってきたのは風の音ばかりだった。

 風の音はごうごうとやけに騒がしかった。ママは胸騒ぎがした。

 「もし?もし?あなたは誰?」

 ママは風の音の中から気配を探った。

 それを阻止するかのように風の音は勢いを増して耳元に迫ってきた。

 「怖い!切ってしまう」

 ママは受話器を置こうとした。

 「でも、ダメ。切ったら二度とかかってこないかもしれない」

 恐怖と同じくらい強い好奇心が、ママに電話を切らせなかった。

 ママはいつもやるようにホームの淵から下を覗き込んでみた。

 けれど、灰色の気流が分厚く渦を巻いていて何も見ることはできなかった。

 ごうごうと恐ろしい音は、ホームの淵のすぐ近くまで這い上がってきていた。

 「やっぱり変よ。怖いわ。早く電話を切ってしまおう」

 ママは受話器を置こうとした。

 その時、ママの体の中に強い感覚が駆け抜けた。

 「これって何かしら?」

 それは、覚えのある感覚だった。


 よろこんでいいのか、悪いのか。

 電話の相手は、ママのお腹から飛び出た電話線のようなへその緒と繋がっていた。

 ママはそのことにまだ気づかずに、狂おしいほどの恐怖と愛おしさの狭間に立って、受話器を握りしめているのだった。

 

 ごうごうと風が鳴っていた。


                                                  おしまい

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風の向こう側 マツダシバコ @shibaco_3

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