4章終話 シャンパンの泡沫

「あ、ピエヒ大尉のことだったの? それなら、僕知ってるよ」

 フレッドが目を丸くし、知ってるのか? っと叫ぶ。

「うん。だって、一時期、よく報道されてたよ? フレッド程ではないけど、有名人じゃないかな。北アフリカでブレナム公の戦車を撃破して勲章もらってるでしょ? その後は、東部戦線で活躍してたよね。それなのに、なぜか急にニュースで取り上げられなくなったから、不思議だったんだ」

「それって、負傷して、戦線離脱したからじゃないかしら」

「負傷したの?」

「ええ、東部戦線で敵の攻撃を受けて、半年くらい入院したって聞いてるわ」

 フレッドがうなずいて、マリーの憶測が事実であると保証する。

 エリスは唐突に、ん? と小顔を傾けた。

「ピエヒ大尉って、フレッドの部下だったの?」

「ああ。七か月だけだが。その入院が終わった後、麾下に加えたんだ」

「ピエヒ大尉は独立重戦車大隊の指揮官で、政府親衛隊の士官でしょ? フレッドは国防軍の将軍だったのに、よく部下にできたね」

「中央で俺を好いてくれてる稀有な爺さんがいてな、その人に頼み込んで、無理を通してもらったんだ。それほどに、フリッツは俺にとって必要だった」

「……一人の男として、とか言わないわよね?」

 マリーの疑惑の視線を正面から見つめ返す。

「戦力としてだ。無論、嫌な奴だったら、無理言って部下にする道理もないが」

 否定になっているようで微妙になっていない返しに、マリーの眉がひくつく。が、グラスを仰ぐと、大仰にソファにもたれかかった。

「まあいいわ。変なことされてないかは、フリッツに直接聞けば分かる話だもの」

「生きていればな」

「生きてるわよ!」

 エリスがグラスを傾けつつ、首を傾げる。その様を視線の端にとらえ、フレッドが補足する。

「マリーはこう言ってるが、公式にはフリッツは戦死したことになっている。黒の森作戦で」

「そうなんだ……それは悲しいね」

「違うわ、エリス! 国と、そこの上官が勝手にそう判断しただけで、誰も遺体を見てないのよ! 私は、黒の森作戦後に弟と一緒にいた部下から直接聞いたの。フリッツがガーリー軍に捕らわれているって! それで、救出するために、私はフレッドを頼ったの。なのに、この男ったら、希望を持たないことにかけてはピカ一の才能の持ち主だから、全然私の言うこと信じてくれないのよ! フリッツが生きてるなんて、根拠のない楽観論だって言うのよ! 酷いと思わない?!」

 フレッドが無言でグラスを仰ぐ横で、エリスは二人を見比べながら頬を掻いた。

「確かにマリーさんの気持ちは分かるし、嘘は言っていないのだろうけど、かと言って、完全に同意するには、僕はフレッドと過ごした時間が長すぎるから……」

 天使の微笑みを前に、マリーは不満と文句の洪水をぐっとこらえ、代わりに短く吐き捨てる。

「難儀な友人を持ったものね。同情するわ」

「そうだね。ただの友人だったら、面倒くさいかもね」

 思わぬ言葉に、フレッドは心臓が止まったかのように血の気を失い、固まった。マリーも衝撃のあまり、飲んだばかりのウィスキーを噴き出す。阿鼻叫喚な二人の様子を、しかし、エリスはあまり気にすることなく笑顔を浮かべる。

「でも、僕とフレッドは、友人以上の仲だから。そんなところを含めて、大好きなんだ」

 フレッドの手が徐々に熱と色を取り戻し、錆びた機械のように腕があがって、濃い酒を胃へ流し込む。心臓が熱い血液を体中に巡らせ、ようやく絶望の底から復活し、目が青銅色に灯る。顔を上げれば、不審感に染まり切った女史の目があった。

「やっぱフレッドって、女性より男性が……」

「エリスとは幼馴染でもあるし、特別な信頼関係なだけだ。それに、俺に妻子がいたのを忘れたか? もっとも子は、生まれる前に殺されたが」

 触れてはならない地雷を自ら持ち出され、さすがのマリーもさらなる追及を躊躇い、口を閉ざす。

 沈黙した二人に代わって、エリスが微笑んだ。

「ピエヒ大尉、見つかるといいね」

「無名戦士の墓を掘り起こすのは気が引ける……」

「だから死んでないって。と言うか、2000万ライヒス・ターラー……ええっと、今だと200万スコーピオン・ターラーも払ったのよ? その分は働きなさいよね」

 分かっているさ、と現金なフレッドは首肯する。それからグラスを仰ぎ、マリーの青目を真っ直ぐ見つめた。

「その点は案ずるな。俺は権力者には必ずしも従わず、神と法には原則従うだけだが、金には絶対服従だ。それに、どうせ次に刃を交える相手は……」

 四つの目が集中する。元帥はさらにグラスを傾けると、琥珀色を飲み干す。すかさず口を離すと、ローテーブルに置き、酒瓶を取った。コルクを抜いて、舌なめずりする。

「まあ、今は飲もう」

 マリーとエリスが目を見合わせる。それから、女史が身を乗り出した。

「続き言ってよ。気になるじゃない」

 だが、フレッドは瓶に栓を戻すと、再び琥珀色に輝くグラスを左手に持ち口を笑わせる。

「いや、業務時間外だから。業務の話はやめよう」

 マリーは一瞬頬を膨らませるも、フレッドの目が曇っているのに気が付き、そうね……と引き下がった。フレッドは一口仰ぐと、一転目に光を宿して足を組み替える。

「ところで、数年内に我が社の文化事業としてオペラハウスを竣工したいと思ってるんだが、もし実現したら、こけら落としの演目は何がいいと思う?」

 急な話に、オーケストラ指揮者に内定しているエリスがびっくりしつつも頬を上気させる。一方でマリーが否一番に身を乗り出した。

「当然『こうもり』よ! こんな大変な時だからこそ、ワルツとシャンパンの泡で華やかにいきましょう!」

「なるほど、そう言うと思った。実は俺もそれは考えたんだが、今のところ個人的には『フィガロの結婚』がいいと思っていてなあ……有名なのはもちろん、市民革命が背景にあるこの作品は、抑圧者からの市民解放を推し進めるグループの事業とよくマッチしている」

「それはそうかもしれないけど、音楽はあくまで娯楽よ! 政治利用みたいなのは、あまり好きじゃないわ」

「ああ……それは一理あるな。エリスはどう思う?」

「そうだね、唐突で驚いているけど……本当にできるなら、『魔弾の射手』を振りたいな。プロイス国民オペラ第一号と言われる傑作だし、僕の大好きなオペラだから」

「なるほどね。特に「狩人の合唱」はホルン奏者として外せないレパートリーだものね」

「うん。それもあるし、その他にも好きな理由はたくさんあって……」


 音楽好きの三人は、日中の仕事や立場を忘れ、酒の入った談笑にふけってゆく。酒が尽き、眠気が全身を支配するまで、苛烈な戦争をひと時忘れ、シャンパンの泡沫のような時間に興じる……。


 大切なひとのための戦いは、まだ号砲が鳴り止んだばかり――。

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