処女の証と背徳

シイカ

処女の証と背徳

  飛田春とびたはるが初めてコンドームというものを見たのは高校二年生の頃。

 親友の芹沢せりざわアイに恋人ができたと聞かされたときだった。

「いつ使うかわかんないんだけど、財布にいつも入れることにしたんだよね」

 女の子が使うにしては無骨な黒い財布からアイはソレを取り出し、春に見せたのだ。

 コンドームの実物を初めて見た春は胃薬とかが入ってそうな薄青い袋に丸い輪っかがあるみたいだといった印象だった。

当時の春にはそれが酷くグロテスクなものに見えた。

 春は嫌悪を押さえつつ口から言葉を精一杯捻り出した。

「あ、相手……誰?」

 アイは春の前に来ると長い黒髪を揺らしながら言った。

「春が知らない人」

 背が低いアイは見上げる形で春の目を見ながらさらに付け加えた。

「もちろん、みんなにも内緒だよ」

 アイに恋人……。

 血の気が引くという感覚を春はこのとき初めて覚えた。


 ――身体が寒い。嫌だ。嫌だよ……アイ――


 まるで、子供のような表現だが、春にはアイが妖怪や宇宙人に取って代わられてしまったような気がしたのだ。


 ――アイが違う人間になってしまった――


 普段から恋人が欲しいとお互い冗談で言い合っていたはずなのに、いざアイに恋人ができたとなると胸が裂けるように痛み出す。アイは本当に恋人が欲しかったんだ。

 春は恋愛という話題から逃げるように避けてきた。

 嫌いな科目は保健体育というくらいには『性』に関する話題が苦手だった。

 春は気が付くと周りに置いて行かれていた。

 そして、残酷にも春はそのときに気づいた。


 ――ああ。私はアイが好きだったんだ――


 春は子供の恋心とはいえ、自分で気づいていなかったことに動揺した。

 いや、春自身が気づかないようにしていたのかもしれない。

 親友との関係を崩したくないという思いが潜在的にあったのだろう。

 今、春は自分の目に映るものが全て醜く見えた。恋愛を扱ったテレビドラマはもちろん、結婚、妊娠、離婚、破局といったワイドショーに映る単語も気持ち悪く感じた。

 いくら恋愛が苦手な春とはいえ、テレビドラマとかワイドショーは他人事として、気にすることはなかったのだが、今の精神状態の春はそれすらも耐えることができなかった。


 ――何が恋人だ――


 ――恋人ってなんだよ。いつ、作ったんだよ――


 ――悔しい。私がアイの一番だと思っていたから――


 アイの隣にいるときは誰といるときよりも安心した。

 アイが春を選んでくれたのか。それとも、そこに春がいたからなのか。

 どっちにしろ、アイの隣はもう春ではないんだ。

 親友は恋人には勝てない。

 友情は愛情には勝てない。

 わかっているのに春はアイが好きだった。

 友ではなく愛として。


 春がアイと出会ったのは中学一年生のときだ。

 お互い別の小学校だったから中学からの対面だった。

 春から見たアイの印象は不良だった。

 なぜかというとアイはいつも寝ていたからだ。休み時間は常に寝ていた。

 髪を染めている、校則を破っているといったことは一切ないが、当時の春は学校で寝てる人=不良という図式を持っていた。

 しかし、彼女は授業になるとピッタリと目を覚ます。

 アイは授業中寝ることは決してしなかった。

 成績も良かったアイは、誰に怒られることもなく、自分のテリトリーを確実に作っていった。誰とも話さないかというとそういうこともなく、必要最低限の会話とか、誰にでも、挨拶もして、意外なことにイケてるグループとも仲が良かった。

 アイはクラスで浮いた存在ではなかったが異質な存在ではあった。

 春は遠目で自分には出来ないことを成し遂げるアイを羨ましいと思っていた。

 今思うと、異質な彼女と友達になれたことで自分も特別な存在になった気でいたのかもしれない。

 アイが特別なのであって、春は特別ではないのだから。

 そんな密かな憧れであったアイを変に意識して最初は話す機会が全くなかった。


 春とアイが仲良くなったのは林間学校のときだ。

 一週間という地味に長い合宿イベントにワクワクと少しのイラ立ち。

 決められた時間の中で友達と行動するのは楽しい反面、気を使い続けなければならない。

 集団行動は基本連帯責任。ひとり失敗すれば全員に罰が当たる。

 そして、失敗した子を責める者、庇う者がいて、さらに、ギスギスする。

 だが、意外なことにそういうことも起きずにスムーズに進んでいった。

 最終日前日の肝試し大会が春とアイの運命の分岐点だった。

 中学校の肝試しのレベルはたかが知れていて、左右に雑木林が迫る、暗いけれど舗装された道から自分の部屋に戻るだけのものだった。しかも、お墓や廃墟やらが周りにあるかというと、そういうこともなく、外灯もちゃんとあるという安全第一の肝試しなのだ。

 もはや、肝試しのレベルではないのではと誰もが思っていたが、とにかく『肝試し』と旅のしおりには書いてあった。

 春は大人しい子たちと一緒のグループで、のほほんと部屋に帰るだけの肝試しをさっさと終わらそうとしていたとき、アイが春に声をかけてきた。

「一緒に行ってもいい?」

 春はアイに声をかけられると思っていなかったから驚きを隠せなかった。

「え、芹沢さん? えっと、班の子は?」

「みんな、お目当ての男子の方に行っちゃってね。迷惑じゃなければ一緒に行っても良い?」

 お目当ての男の子と一緒に肝試しなんて春にはとても想像できる発想じゃなかった。

 アイもとくにそういった男子がいたわけではなかったようで、グループからひとりになってしまったらしい。

 アイは多分「好きな子のとこ行っちゃいなよ」ってみんなに言ってしまったのだろう。

 春もアイの立場だったらそう言っていただろう。

「迷惑じゃないよ。私、芹沢さん好きだし」

アイは驚いた顔をしていたが、春は気にせず先に肝試しを開始している同じ班の子たちに大声で声をかけた。 

「みんな、芹沢さんも一緒に行っていいよね?」

 雑木林の向こうから「いーいーよ」とすでに先に進んでいた子たちはまるでかくれんぼしているかの調子で返事をした。

 今思えば、あのときから春の片思いは始まっていたのかもしれない。

あまり話したことないのに、当時は社交辞令だったとはいえ、よく好きって言えたなと春は思い出して苦笑した。

「良いって。なんか、芹沢さんと一緒にいるの不思議な感じする」 

「私も、その……飛田さん好きだよ」

「えへへへ。ありがとう」


 春は自分の気持ちに気づいてからは、この会話を繰り返し思い返していた。


――私も、その……飛田さん好きだよ――

 

 それは、最初の告白であったかもしれない。

 あのとき以降、春とアイは話すようになり、一緒に帰るようにもなった。

 林間学校は春とアイが近づくための分岐点だったのではないかとさえ春は思った。


 アイの長い髪はどことなく漆黒と呼ぶに相応しい気がする。

 背は春の方が少し高く、背の少し低いアイと並ぶとちょうど凸凹コンビと化していた。

 なんだかお互いを表しているみたいで背が高いことがコンプレックスだった春はそれさえも誇りに感じるようになったくらいだ。



 ――それが……。


 春はまるで心に穴が開いた気分になった。


 ――学校に行きたくない。アイに会いたくない……――


 しかし、体調不良でもないのに学校を休む訳にもいかず、春はしぶしぶといつも通り登校した。

 学校まで続く緩やかで長い坂道。ポプラ並木の通学路。

 歩みをとめて傍らを眺めると自分たちの住む街が一望できる美しい環境。

 普段ならキラキラと輝く多摩の流れも遠く望める高台の風景は青春の舞台に相応しい。

 でも、今日、見下ろす眼下の街は、なんだか灰白色に見えた。

 横断歩道を渡り切る頃。そろそろアイに遭遇する。

「春ー……」

 小声で春の袖を後ろから掴む癖。アイだ。

「おはよう」 

 アイは低血圧で朝はテンションが低く、誰もいない学校みたいに静かで、顔を俯き気味にしているからまるで『貞子』だ。

 これがアイと春のいつもの朝。

 しかし、春は困った。アイ自体はいつも通りなのに、春自身が自分の気持ちに気づいてしまい、変に意識してしまう。自分の気持ちがバレる気がしていつもより気持ち五ミリ程離れた。

「春、今日、遠くない?」

 五ミリ離れただけで遠いっていつもどれだけ近くにいたんだろう。

「いや、そんなことない」

「いや、そんなことある」

 アイは春の腕に自身の腕を絡めくっついてきた。

 昨日のあの告白を受けるまではじゃれ合いで済んでたのに、今は、親友じゃなくて『好きな子』が腕にしがみついている状態だ。

 心臓がドキドキと速くなるのがわかる。

 そもそも、アイは昨日のことがまるでなかったことかのようにいつも通りすぎる。

 春の気持ちも知らずにアイはまた、次なる言動をする。

「今日、私の家に来て宿題する日だよね」 

 唐突なアイの提案。いや、いつもしていることだ。ここで断ったら怪しまれる。

「もう、そんな日だっけ? 今回、数学が難しいんだよね」

 毎週水曜日はアイの家で宿題をする日だったのを忘れていた。

 ただでさえ、昨日の今日で頭の整理が春にはついていない。

 今日ぐらい遠慮すればと自分でも思ったが、親友に恋人ができて動揺してるのがバレたくないから、いつも通りに春は約束した。我ながら悲しいプライドだと春は思った。

 

 ――恋人ができた親友の家に上がるのか……――

  

 別に何かが変わったわけではないのに春は落ち着かなかった。

 悪いことをしているわけでもないのに、不思議な罪の意識を感じていた。

 好きな人がいるのをわかっているのに相手を好きになることに対する罪悪感。


 春はアイの恋人の話について聞きたかった。

 いつ、どこで、知り合ったのか。

 そして、誰なのか。

 ――アイは知らない人って言っていたけど、ひょっとしたら、私の知ってる人の可能性だってある――


 春の頭の中にそんな考え方が巡った。


 ――私が知ってる人で私がショックを受ける人とか――


 それでアイが嘘をついているに違いないと春は睨んだ。

 睨んだところでアイに恋人がいることは変わらないし、春の恋心も無くならない。

 


「じゃあ、飲み物取ってくる。お菓子もあれば持ってくる」

「うーん、わかった」


 アイは不用心にも財布を机の上に出しっぱなしだ。

 

 ――まあ、私しかいないし、不用心でもないか――


 と、思ったとき、春は先日に見たコンドームが脳裏をチラついた。


 ――財布にいつも入れることにしたんだよね――


 自分の中でイケない欲望が渦巻いた。 


 ――アレはまだあるのか?――


 昨日、今日のことだ。そんな、すぐには……しないよね。

 ひょっとして、アイはもう……。

 春を昨日と同じ感覚が襲う。

 呼吸が速くなる。嫌だ。私をひとりにしないで。

 アイ……。

 誰かに操られたかのように、アイの財布に手がのびた。


 頭でわかっているのに、もう、春の行動は春自身でも止められない。

 春はアイの財布の中にまだコンドームがあるか確認してしまった。

 人の財布の中身を見ること自体最低な行為だ。しかも、コンドームが入っているかどうかの確認したくて覗く。自分のしている行為が自分でも気持ち悪い。

 でも、手がのびてしまった。

 彼女の財布の中にはまだコンドームが入っていた。

 春はホッとした。

「……まだ、してないんだ」

 春は声に出して現実を確かめてみた。ソレを確認できるだけで良い。

 ただ、見たかっただけ。

 でも、財布から無くなっていたとき春はどうなるのか、このときは考えていなかった。

 いや、考えたくもなかったのだろう。


「春、ジュース切らしてるんだけど牛乳でも良い?」

「うん。なんなら水でも良いよ」

「水はさすがに味気ないんじゃないの?」 

 さっき、『あんなこと』をしたというのに思ったよりも心が穏やかだった。

「アイ……? ここ習ってなくない?」

「いや、習ったよ。しかも、昨日」

「私、ほら、未来から来たからさ……」

「未来から来たなら尚更できなきゃダメでしょ」

 いつも通りの冗談混じりの会話。なにも変わらない。なにも変わっていないんだ。

 そう。アイに恋人ができようと、春がアイの財布を覗こうと何も変わらないんだ。


「じゃあ、また明日ね」


 いつもの別れの挨拶を告げた途端、先ほどやった自分の行為に対する罪悪感が春を襲ってきた。

 血の気が引く感覚。動悸が速くなる感覚。背徳感で潰されそうだ。

 アイといつも通りに接し、いつも通りアイの家から帰ってきたとき、ダムのように堰き止められていた自己嫌悪が決壊した。

 

 ――バカバカバカ。私、なにやってんの。最低最低最低――


 バレなければ良いというものじゃない。自分が許せないのが春だった。

 正義に背く行為をするというのは春にとっては何よりも耐えられなかった。

 

 自己嫌悪にかられた春に、追い打ちをかけるかのように、その日、春は夢を見た。


 ドアの隙間から部屋を覗いている。

 月明かりで照らされた部屋にはベッドしかない。

 その上にふたりの人間がいる。

 アイと……もうひとりは知らない男だ。

 視点がドアの隙間から部屋の中に変わった。

 ベッドの横に立って見下ろしている。

 ふたりは私に気づかない。

 アイは財布の中からコンドームを取り出すと男の部分に取りつける。

 そのときのアイの恍惚とした表情に見惚れつつも嫌悪感を抱いた。


 視点がまた変わる。今度は目の前にアイだけがいる。

 アイはゆっくりと後ろに倒れていく。つられて春の視点もアイを追いかける。

 視点が規則的に揺れ始める。

 苦しそうなのに幸せそうなアイの表情。

 視点の揺れが速くなる。


 ――ああ。これが、俗にいうセックスか――


 ――アイが抱かれている……。抱いているのは……私?――


 春は自分史上最低な夢を見たと嘆き、さらに、自分の手が性器に伸びていることに気が付いた。 

 春はまた自己嫌悪に陥った。


 ――人を好きになるのってこんなに苦しいの?――


 夢に興奮して震えている自分の肩を強く抱きしめると春は布団をかぶり直し呟いた。

「……アイ……好き」


 アイに対する思いが日に日に強くなってくる。

 じゃれ合うノリで抱きしめることができたのに、今は近づくだけでも緊張する。

 でも、親友だからいつも通りに接しなければならない。

 アイの匂いを感じるたびに心臓がドキドキして、最低な夢を思い出す。

 でも、また、あの夢を見たいと思ってしまう春がいた。

 アイが以前とまったく変わっていないことの方に恐ろしさを感じる。

 

 ――恋人ができるともっと舞い上がるものじゃないの?――


 アイが自販機で飲み物を買うときに財布を取り出す仕草にドキリとした。

 春はアイの財布を見るたびに自分がした行いを思い出してしまう。

「春、最近何か悩んでる?」

「え、何かって?」

「それを訊いてるんでしょ」

『アイが好き』で悩んでるとは言いにくいし、アイの財布の中のコンドームを盗み見てしまったなんて、もっと言えない。

 この悩みはアイ以外の人にも言えることではなかった。

「えっと……成績がイマイチかな……」

 春はとっさに嘘をついたが嘘ではなかった。

「じゃあ、今日から私の家で毎日勉強しよう」

「えっ」

 アイの意外なセリフに春は微かに動揺した。。

「成績。良くないんでしょ?」

「そうだけど、毎日って極端じゃない?」 

「じゃあ、週三日」

「いや、そんなにわたしと一緒にいたら……アイ、いつ恋人に会うわけ?」

 胸の鼓動。ほんの微かに目が据わるのが自分でもわかる。

 でも、そんな微細な表情の変化に気付くふうでもなくアイの白い歯が笑う。

「……ああ。そのこと? 気にしなくても大丈夫。元々、遠距離だし」

「遠距離……なんだ。どれくらい遠いの?」

「そんなの、春には関係ないでしょ。春の知らない人なんだから」

「あ、うん。そうだね。ごめん」

 このとき、春はやってしまったと思った。

「私の方こそ、なんかごめん。『カンケーない』は酷いよね」

 ペコリと項垂れるアイの様子に、罪悪感がまた増えてしまった。

 人を怒らせたり、イライラさせてしまう行為をしないように日頃から注意している春だが春自身の焦りからこのような展開になってしまった。

「今日、アイの家行っていい? 勉強教えて」

 試しに言った言葉だったが、アイの顔が少し明るくなったように見えた。

「もちろん!」

 アイは不思議な子だ。アイを怒らせたのは春なのに家に行っていいというと喜ぶ。

 普通なら「今日はやめておこう」って言うものだと思うのに。

 そんな、春にも理解できないのがアイだ。


 慣れているはずのアイの部屋。なのに前回のことを思い出し自分の罪を見せつけられている気になってくる。春の気分はもう取調室だ。

 アイが「証拠は全て上がっているんだ!」……ということがあるかというとそんなことは無い。いつもと変わらない様子だ。

「じゃあ、飲み物取ってくる。お菓子もあれば持ってくる」

「うーん、わかった」

 前回とまるきり同じ会話。

 そして、同じ位置に置かれたアイの財布。

 完全に同じだった。

 まるで、タイムスリップでもして、あの日に戻ったかのように。

 もちろんそんなことは無い。

 ふたりの会話というのは最小限で事足りる。財布を机の上に置きっぱなしだって、春を信頼してのことだ。

 春はまた葛藤にかられた。

 財布の中に入れてるコンドームはまだあるのか。

 気になる。アイはまだしてないのか。

 欲望は春自身にさえ抑えられなかった。

 また、財布に手が伸び、そして……。

 彼女の財布の中にはまだコンドームが入っていた。

 春はホッとした。

「よかった……まだ、してないんだ」

 声に出して現実を確かめてみた。ソレを確認できるだけで良い。

 ただ、見たかっただけなんだ……。


「これがこうなってこう?」

「そうそう……ってなんだ、春できてんじゃん」

「変だな。前はわかんなかったんだけどな」

 

「じゃあ、また明日ね」


 いつもの別れの挨拶を告げた途端、先ほどやった自分の行為に対する罪悪感が春を襲ってきた。

 血の気が引く感覚。動悸が速くなる感覚。背徳感で潰されそうだ。

 アイといつも通りに接し、いつも通りアイの家から帰ってきたとき、ダムのように堰き止められていた自己嫌悪が決壊した。


 ――バカバカバカ。私、また、なにやってんの。最低最低最低――


 二度とやらないと思っていた行為をまたしてもやってしまい、今度は前回と比べて罪が重くなった気がした。

 

 春はその日、また夢を見た。

 

 月明かりだけで照らされた部屋のベッド。

 その上にふたりの人間がいる。

 アイと……もうひとりは知らない男だ。

 わたしには大きい存在のアイがいつもよりも小柄に見える、

 視点がドアの隙間から部屋の中に変わった。

 ベッドの横に立って見下ろしている。

 ふたりは私に気づかない。

 アイは財布の中からコンドームを取り出すと男の部分に取りつける。

 そのときのアイの恍惚とした表情に見惚れつつも嫌悪感を抱いた。

 視点は変わらない。

 アイはゆっくりと後ろに倒れていく。

 ふたりの動きに合わせてベッドも規則正しく動き出す。

 苦しそうなのに幸せそうなアイの表情。

 動きが速くなる。


 ――ああ。また、セックスか――


 ――アイが抱かれている……。抱いているのは……誰?――


 春は気持ち悪くなって起きた。

 前回の夢と違うところはアイが知らない誰かとセックスをしていたこと。

 春にはそれが耐えられなかった。


 ――アイ……わたしだけのアイでいて……!――



 芹沢アイは飛田春が財布の中身を確認していたのを知っている。

 アイは知っていながら、その行動を指摘も注意もしなかった。

 最初からこうなることをアイは予想していたわけではない。 


「お姉ちゃん。これ何?」

 芹沢アイには姉がいた。アイとは対照的なガサツな姉だ。

「コンドーム。授業で習ったっしょ?」

「知ってるけど……」

「アンタも、もう高二でしょ。普通持ってるものよ」

「え、でも、私……そんな」

「良いの良いの持ってるだけで。アンタ、もっと可愛い財布使いなよ」

 アイの姉はそう言いながらコンドームをアイの財布にねじ込んでしまったのである。

 アイは最初、死ぬほど嫌だったが、このとき、イタズラをひとつ思いついたのである。

 

 ――春に見せたらどうなるかな――


 春は周りに合わせて恋人が欲しいと言っているが、本当は恋愛に関することがとても苦手であるのをアイは知っていた。

 

「いつ使うかわかんないんだけど、財布にいつも入れることにしたんだよね」

 ――さあ、春の反応は如何に?――

「あ、相手……誰?」

 思ってもいない応えではなかったが、一応用意しておいた嘘をアイは言葉にした。

「春が知らない人」

 背が低い春を見下げる形で春の目を見ながらさらに付け加えた。

「もちろん、みんなにも内緒だよ」

 この言葉以降、春は黙ってしまい、そのまま、その日はわかれてしまった。

アイはこの日、春が悩んでいたなどと知る由もなかった。

 そして、アイは目撃したのである。春がアイの財布を覗き見ているのを。

 しかし、アイは驚く、引くといったことはなかった。

 なぜなら、元々、飲み物を部屋に運ぶ直前。1分ほど、部屋にいる春の行動を覗くのが趣味だったアイからしたら見てしまったというより、春がいつもと違う行動をしただけのことだったからだ。

 

 彼女の性格から常に良心の呵責、罪悪感、背徳感に悩まされているだろうとアイは確信していた。

 彼女が財布のコンドームを見つけて安心しているときの顔がアイは好きだった。

 春にとって財布のコンドームはアイが『処女の証』だからだろう。 

 本当はアイに恋人はいない。

 姉から冗談で渡されたコンドームを春のためだけに入れている。

 アイは春が好きだから。春が他に見せない顔を見るのが好き。

 春はアイに持っていないものを持っている。


 芹沢アイは勉強ができる。むしろ、勉強しかできない。

 もちろん、県で一番の高校を受験する。

 親もそれを望んでいたから。

 アイに比べて春はとくに勉強ができる人間じゃなかった。

 しかし、アイと同じ高校に行くと言った春は受かってしまった。

 春は一度決めたことは絶対にやるし、注意を受けたら二度とやらない。

 そんな人間だ。


 アイが春を好きになったのは中学一年生の林間学校のとき。

 基本、ひとりでいることが多いアイでも仮の友人たちはいた。

 しかし、彼女たちは好きな男の子のグループにちょっかいを出しに行ってしまい、アイはひとり、取り残されてしまった。

 ひとりでいることが多いアイでも肝試しをひとりで行くのは気分の良いモノではなかった。アイは仕方なく近くに居た飛田春に声を掛けることにした。

 たいして、親しくはなかったけど、他の人よりは話しかけやすかった。

 だから声を掛けただけだった。


「迷惑じゃないよ。私、芹沢さん好きだし」

 この一言になぜかアイは今までに感じたことのないドキドキを感じた。

 アイ自身、春が社交辞令で言っていたのはわかっている。わかっているはずなのにアイはこの一言に恋をしたのだ。 

 アイが春を好きになった決定的な瞬間がもうひとつある。春とアイで映画を観に行ったとき。微妙に不満が残るものの、そこそこ面白かった映画を見終えた時の春が言った言葉を聞いたときだ。

「映画を見終えたときの感覚が好き。見終えたわたしがラストカットの一部なんだって気がするんだよね」

 春がこの言葉を言ったとき、アイには無いモノを確実に持っていると確信した。

 だから、アイは春が好きなんだ。


 アイは春に本当のことを告げることを決意する。

 恋人がいないこと。春を好きだってこと。


 アイは今日もわざと机の上に置いてみた。

 

 そして、今日も春が財布の中身を覗いていた。

「よかった……まだ、してないんだ」

 前回と同じセリフをまた声に出していた。

 多分、それで、自分を安心させているのだろう。

 アイが処女であることの証明のように。


「これがこうなってこう?」

「そうそう……ってなんだ、春できてんじゃん」

「変だな。前はわかんなかったんだけどな」

 


「じゃあ、また明日ね」


 いつもと変わらない会話でまた締めてしまった。

 アイは本当のことを言うはずだったのに、言えなかったことに後悔した。

 ――これ以上春を悩ませたくないのに……――




 アイはその日夢を見た。


 

 月明かりだけで照らされたベッド。

 その上にふたりの人間がいる。

 私と……もうひとりは知らない男だ。

 春がベッドの横に立って見下ろしている。

 私は財布の中からコンドームを取り出すと男の部分に取りつける。

 その姿を見ている春は酷く軽蔑しているような顔をしていた。

 私はゆっくりと後ろに倒れていく。つられて男も私を追いかける。

 男の顔が規則的に上下に揺れ始める。

 苦しいのに幸せを感じてしまう。

 視点の揺れが速くなる。


 ――ああ。これが、俗にいうセックスか――


 ――私が抱かれている……。抱いているのは……春?――


 目が覚めた時、興奮で息が荒かった。

 夢に興奮して震えている自分の肩を強く抱きしめてアイは呟いた。

「……春……好き」


 ――春に言おう……本当のこと――


「私、本当は恋人なんていないの。ソレも、お姉ちゃんに面白半分で貰ったもの」 

 春から思いもよらない言葉が返ってきた。

「アイ、私のこと、どう思ってる?」

 春からの先手にアイは一瞬、焦った。

「好きだよ」

「親友として?」

「親友以上に」

「私とキスできる?」

「春となら、キス以上のこともしたい」

 アイの言葉に春は泣き出してしまった。

 ――どうしよう、自分の気持ちを見せすぎてしまったもしれない――

 アイはあくまで冷静を装っていた。

「春、ひょっとして嫌だった?」

 アイの動揺が止まらなくなった。

 アイは春が自分のことを好きなことを確信していた。

 だから、春が泣くことを想定していなかった。

 ――春に嫌われる。それはイヤだ――

「春、ごめん、今のじょうだ……」

 アイはなんとかなかったことにしようと言いかけた時、春はアイの頬を両手で包み込むと強引に唇を重ねてきた。

 初めての感触にアイの心臓が高鳴り出す。

 唇が離れたとき、春は泣きながら言った。

「私、アイが好きなのが辛かった。アイに恋人ができたって聞いたときね、血の気が引くって感覚を初めて味わったの。ずっと、辛かったよ……」 

「春……」

 こんなにも苦しそうな春を見たのは初めて。

 苦しめていたのはアイ自身であることに悲しくなった、

 涙の道が出来た春の頬に手を触れる。

 アイ自身、こんなにも思われていたことに対して驚きを隠せない。

 春をゆっくりと抱きしめた。

 制服越しに伝わる彼女の体温はこんなにも暖かかったのか。

 今までの触れ合いとは違う感覚。 

 私は腕に力を込めた。春を感じるために。

春の匂いが鼻孔をくすぐる。

 それだけで私の中の獣がうごめく。

「どうしよう。すごくエッチな気分になってきた」 

「わたしは、ずっと前からエッチな気分だった」 

「春。エッチしよう?」

「わ、わたし、やり方わかんないよ……」

「私がリードする。漫画とか小説で読んだことある」

「アイ、なんだか怖いよ……」

「大丈夫。好きな人同士がやる素晴らしい行為よ」

「そう……なの」

 私は本で得た知識を思い出しながら春に触れていった。

 春が動くたびに汗が止まらなくなる。

 まるで、春を解剖していっているかのような気分だ。

 いや、ある意味間違いではないのか。

 

 春が決して誰にも見せない、見せたことない姿を私が今、独り占めしている。

 私だけの春。春。春。好き。好き。愛してる。好き。好き。大好き。

 止まらない、愛が止まらない。もう、これは溢れだしているといった方が良いだろう。

 春、可愛い、私の可愛い春。怖いよね、私が、怖くないようにするよ。

 ふふふ。見たことない春がいっぱいだね。初めて、見る春。大好き。


「ア……イ……」

 されるがままになっていた春が急に言葉を発して動揺した。

「なに……?」

「ちょっと、休もう……アイが凄くて……」

「そうだね、ちょっとはしゃぎすぎた」

「アイ、初めて……なんだよね。こういうの」

「初めてだよ。春が初めての相手……」

「……その……わたしも初めてだから正解がわからないんだけど、その、気持ちいいね」

「春ってひとりでしたことある?」

「はあ!? いきなり何?」

「だって、気になるから」

「アイが言ってくれたら……」

「あるよ。毎日してる。昨日も春を思いながら……」

「そこまで言わなくて良いよ。ねえ、アイ。わたしは、貴女を抱く夢を見たの。だから今度はわたしからさせて……」

 私は春に喜びのあまり抱き着いていた。

「抱いて、春に抱かれたい」


 アイ、わたしはずっとこうしたかったよ。アイのわたしに対する思いがすごく伝わってきたよ。アイの漆黒と呼ぶに相応しい長い髪が揺れるたびにドキドキする。アイの髪がわたしの手から砂のように落ちていく感覚が堪らなく愛おしい。

 アイ、わたしだけを見て。わたしもアイだけを見る。アイ。今までで一番可愛いよ。でも、これからもっとたくさん可愛いアイを見るんだ。アイの全部に触れていきたい。ここも。ここも。ここも。全部がアイ。恥ずかしがらないで、素敵なアイ。


「は、春……激しいよ」

「アイだってこれくらいだったよ」

「でも、私、そんなところまでしてない……」

「わたしの気持ちが止まらないの。ごめんね。アイ」

「……いいよ。全部、受け止めて見せるから」

 お互い抱きしめ合ってその日からアイと春は親友から恋人になった。

「なんかアイと両想いになったって思うとくすぐったい」

「元々、両想いだよ」

 そう、最初から、出会ったときから両想いだったのかもしれない。

 あのときから二人の恋は始まっていたのだから。

「財布の中のアレ。もう捨てようかな」

「捨てちゃうの?」

「だって、もう……処女じゃないもの」

 そういったアイの顔は喜びと恥ずかしさの混ざった笑顔だった。

 春は意味もなくアイの長い髪を手で梳くう。

 その触れ方はまるで、絹の糸でも扱うかのように繊細だった。アイにとってこんな触られ方をされたのは初めてだった。

 髪の毛を触られているだけで緊張が解けない。

「春」

「アイ」

 春はアイの頬を引っ張った。

「コンドームの件は良いとして、恋人ができたってまで嘘をつくことはなかったんじゃないかな?」

「うう。嘘にリアリティを出そうと思って……」

「……ばか」

 イタズラが生んだ恋の結末はふたりの恋人を生み出して幕を閉じた。 

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