第2話 第1章 革命前ー2『フランスの絶対王政』
6 【フランスの絶対王政】
フランス・ブルボン王朝の全盛期はルイ14世(在位1643~1715年)、ルイ15世(在位1715~74年)の時代とされる。太陽王と謳われたルイ14世の統治スタイルは、それまでのブルボン朝と違い、宰相を置かず、補佐する機関として最高国務会議を設け、最高国務会議には王族や大貴族を排除し、実力本位の官僚(法服貴族)をあてたことであった。財政部門ではコルベール、軍政部門ではルーヴォワを重用したが、彼らはいずれも市民階級出身であった。
財政を担当したコルベールは傾いていた国家財政の再建を目指し、重商主義政策を採った。国内産業を保護して、王立工場の設立や資金貸し付けなどを行った。コルベールは1644年にフランス東インド会社を再建して海外植民経営の積極化に乗りだし、その路線のもとで北アメリカのミシシッピ川流域に広大な領土を獲得し、ルイジアナと命名した。またインドでも商館を設けて貿易を拡大した。これらの植民地拡大策はイギリスと衝突することとなり、ルイ14世時代を通じてのイギリスとの植民地戦争が展開されることになる。
ルイ14世は積極的な領土拡大戦争を行った。北西の国境をライン川まで及ぼすことを目指し、スペインが支配していたオランダ(ネーデルラント連邦共和国)への侵入を何度も試みた。この侵略はオランダに大きな脅威を与え、オランダ総督ウィレム3世はねばり強く抵抗しただけでなく、旧教徒の国王ジェームズ2世を排除したイギリスの国王に迎えられ(名誉革命)、イギリス・オランダが同君連合となってフランスに抵抗することとなった。
スペイン継承戦争では、スペイン・ハプスブルク家の王位継承問題で、ルイ14世は王妃がスペイン王家出身であったので、孫のフィリップの継承権を主張、イギリス、オランダ、神聖ローマ皇帝、プロイセンなどとの戦争となった。1713年、ユトレヒト条約でフィリップはスペイン王フェリペ5世として承認された。
宗教的には敬虔なカソリック教徒で、新教プロテスタント(事実上カルヴァン派)の信仰を認めない厳しい宗教統制を行った。都市の商工業者、技術者には新教徒の比重が多く、彼らがこの弾圧を逃れて国外に逃れたため、フランスの産業発展は遅れたと言われている。また、50年の歳月をかけて新宮・べルサイユ宮殿を造ったことでも知られる。
ルイ15世は曾祖父ルイ14世の死によりわずか5歳で即位した。当然摂政が政務を取り仕切った。ルイ15世成人後は、優れた政治家であるフルーリー枢機卿が執政にあたり、財政の収支均衡を果たし、貿易額も飛躍させ、フランスに繁栄をもたらせた。
ルイ15世の親政になって、ポーランド継承戦争に参戦して領土を得たが、続くオーストリア継承戦争では得るものはなく、戦争により財政を逼迫させた。七年戦争ではアメリカ大陸の権益を失い、フランスの衰退を招いた。
ブルボン朝とハプスブルク家はもともと敵対関係にあった。オーストリア継承戦争ではフランスはプロイセン側につき、オーストリアはイギリスの支援を受けた。戦争の結果、プロイセンはシレジアの割譲を得た。マリア・テレジアは、プロイセンに対する復讐とシレジアの奪還に燃え、それまで一貫していたフランスのブルボン朝との対立関係を清算して提携する。いわゆる外交転換政策である。ルイ16世とテレジアの娘マリ・アントワネットの結婚はこの一環であった。
7年戦争とは、プロイセンとオーストリアの対立を軸に、プロイセンはイギリスの財政支援を受け、オーストリアはフランス、ロシアと結び、全ヨーロッパに広がった戦争である。同時にイギリスとフランスの植民地における英仏植民地戦争も並行して行われ、世界的な広がりを持つ戦争となった。結果はプロイセンとイギリスの勝利となり、ヨーロッパでのプロイセンは地位を向上させ、イギリスの植民地帝国としての繁栄がもたらされた。同時にこの戦争は絶対王政各国の財政を圧迫し、イギリスは植民地アメリカに過重な課税をかけることになり、アメリカの独立戦争の原因になった。フランスではフランス革命という市民革命が起こる契機となった。
ルイ15世は多くの愛人を持ち私生活は奔放で、「最愛王」と呼ばれた。特にポンパドゥール夫人(公の愛妾)は15世に大きな影響力を持った。この時代、啓蒙思想がヨーロッパ世界を席巻し、ヴォルテール、モンテスキュー、ルソーなどがフランスのサロンで活躍している。ポンパドゥール夫人は美貌ばかりでなく学芸的な才能に恵まれ、サロンを開いてヴォルテールやディドロなどの啓蒙思想家と親交を結んで、フランス啓蒙思想の代表的な成果のひとつ『百科全書、あるいは科学・芸術・技術の理論的辞典』の刊行に援助を与えた。
注釈:ハプスブルク家
中世以来、神聖ローマ皇帝位を継承したヨーロッパ随一の名門王家。オーストリアを本拠とし、ドイツ王の地位を兼ねたほか、婚姻政策で領土を拡大、ヨーロッパに広大な領土有するようになると、オーストリア=ハプスブルク家と、スペイン=ハプスブルク家とに分割される。両ハプスブルク家はいずれもカトリック側の中心勢力としてプロテスタント勢力と戦った。
7 【科学革命】
17世紀、18世紀は科学革命の時代であった。錬金術のようなことからおこった即物的な技法や、カトリック教会の超自然的な世界観に留まっていた。それを一変させたのが、一つは望遠鏡、顕微鏡などの用具の発明に伴う観察・実験という方法論の精密さが実現したこと、数学が自然現象の理論付けに用いられるようになったことが挙げられる。その先駆的な役割を果たしたのがケプラー、ガリレオ、デカルトなどであり、17世紀の科学を体系づけたのがニュートンであったといえる。ケプラーは惑星の運行の法則を発見、ガリレオは望遠鏡による天体の観測によって地動説を証明し、物体落下の法則を実験と数学的公式化の道を開き、デカルトは真理の探究での数学的合理論の基礎を探求した。ニュートンは微分積分という新しい数学を創出し、ニュートン力学という物理学を構築した。
18世紀に入って、フランスのラヴォワジェは燃焼を化学的に解明し、空気が酸素と窒素からなることを明らかにし、物質の究極的な構成要素を「元素」と名付け、水素、酸素、窒素など33種類の元素を列挙し、あわせて「質量保存の原則」を明らかにした。彼の業績は、錬金術から化学に変化させ、近代科学を真に成立させたと言える点にある。
このラヴォワジェは、くしくもフランス革命で処刑される。彼は科学研究の傍ら徴税請負人の仕事についていた。1791年に徴税請負制度が廃止されたが、ラヴォアジエは国王ルイ16世に財政的な腕が買われて国家財政委員に任命されていた。
蒸気機関の発明は、18世紀初頭、イギリスのニューコメンが発明したものであるが、実用に使えるように改良したのはワットである。はじめ、蒸気機関が必要とされたのは、石炭を採掘する炭坑の排水用としてであった。ワットが蒸気力によるピストンの上下運動を円運動に転換させることによって、紡績や織機の動力源、さらに船舶・汽車に搭載され、それまでの人力や畜力、水力・風力に替わる動力とって産業革命をもたらしたのである。科学が実用に供され、経済活動や人々の生活を一変させたのである。
これだけのことを踏まえておけば、フランス大革命を理解する前提条件は全て整ったと言えるのではないか。
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