出門さま

涼森巳王(東堂薫)

序の文

序の文



 京の都は寝静まっていた。

 草木も眠る丑三つ時。

 月初めとは言え、如月きさらぎにはめずらしい、息も凍りそうに寒い夜だった。


 季節外れのぼたん雪がふっていた。

 人影のない通りにも、うっすらと雪がつもっている。


 ひとけのない通りを娘が一人、走っている。年は十六、七。きゃしゃな体つきの、たよりなげな娘だ。顔立ちも、なかなか美しい。

 だが、ぬれたような黒い瞳には、恐怖の色がある。


 吐く息も白い寒空だというのに、長じゅばん一枚、足袋たび裸足で雪をふんでいる。


 しきりに背後を気にしているのは、追われているからだ。


 走りとおして半刻?

 いや、一刻はたっただろうか。

 追っ手の姿は、いちおう見えなくなった。

 もう逃げきれただろうか?


 だいそれたことをしてしまった。

 誰も知らぬのをいいことに、お城を逃げだして……ほんとに、うまくいくだろうか。すぐにウソがばれて、今よりもっと困ったことになるかもしれない。第一、これから、どこへ行くあてもないのに。


 だが、そこで娘は首をふった。


(これで、ええんや。あのまんま牢獄のなかで暮らすより、たとえ、ここで行き倒れても、そのほうが、うち、なんぼか幸せ)


 ようやく望んだ自由を手に入れたのだ。

 そう思えば、心もはずむ。


 ただ、それも、今このときを無事に逃げきれたらの話だ。


 見つかれば、殺される。

 助けを求めに帰っても殺される。

 それなら、逃げきるしかない。


 大きな屋敷のならぶ通りだ。

 始めは東に向かっていた気がするが、すぐに追われていることに気づき、やみくもに走りまわった。今はもう、どのあたりを走っているのかさえ、わからない。


 足どりはふらつき、ぬれた足袋が足さきの感覚をマヒさせる。


 ただ、自分が南へくだっているのだということは、遠くの空が、ぼんやりと光っていることからわかった。妖しい橙色オレンジいろの光だ。


 あれが話に聞く出門町というものだろう。

 七条大門より南は地獄というが、ほんとうだろうか?


 南蛮人や紅毛人が大手をふって歩いているというくらいは、まだ信じられる。

 だが、遠く江戸や蝦夷地えぞちまで、またたくまに旅ができる“すてえしょん”だとか、空飛ぶ乗り物だとかの話は、とても信じることができない。


 それに、何より恐ろしいのは、出門でもんさま——


 そのひびきには、どことなく不吉なものがある。


 出門さまは若い娘の血肉が大好物で、夜な夜な、闇にまぎれて娘をさらうのだとか。

 都で神かくしがひんぱつするのは、きっと、そのせいだろう。


(もし今、出門さまに会うたりしたら……)


 出門というのは、南蛮渡来の物の怪のことだ。そんなこと、誰もが知っている。


 尊王攘夷そんのうじょうい、倒幕の気風の吹きあれた激動の時代。

 出門さまは、どこからか現れた。

 そして、みごとに、えげれす、おらんだ、めりけん、ふらんすの四国艦隊を下関で撃破した。日米修好通商条約に始まった開国を白紙にもどし、日本国から異国人をあっさり追いはらってしまった。


 さらには、出門さまは傾きかかった幕政を改革し、立て直した。そればかりか、それまで誰もなしえなかった公武合体さえも成功させた立役者なのだ。


 そのあと二百年間、日本国の真の支配者は、時の帝でも上様でもなく、出門さまだ。とつくにの恐ろしいカガクリョクから、日本の国を守ってくださっている。


 けれど、その出門さまの姿ときたら、まるで平安の御代に都をばっこした人喰い鬼のようだとか。

 人を狩って歩く姿は、まさに百鬼夜行……。


 夜道を逃げまどう娘の脳裏には、そんなことばかりが浮かんでくる。


 とは言え、娘にとっての危険は、別の形でせまっていた。

 背後ばかり気にしていた娘の前に、とつじょ、四辻のかどから男が現れた。浪人風に作った身なりだが、物腰がふつうでない。あきらかに忍びだ。


「裏切る気か? お咲」


 じりじりとせまっくる男を、娘はふるえながら見つめた。


 ここで、自分は殺されるのだ。

 たった十七の、思えば、はかない人生だった。


(なんの因果で、こないなめにあうんやろ。せめて、いっぺんくらい、恋もしてみたかった……)


 観念して目をとじると、目尻に熱いものがこぼれおちる。


 だから、その瞬間、何が起こったのか、娘にはわからない。

 うッと小さな声がしたあと、誰かの手が肩にかかった。

 娘はビクリとこわばった。が、その手は思いがけず、娘の両肩に薄くつもる雪をはらいおとした。


 ビックリして、娘は目をあけた。

 目の前に男が立っていた。

 うつむいた娘の目に、足駄あしだをはいたつまさきが映る。


 それから、濃藍色の綿入れのすそ。

 着物も同じ紋織りの長羽織。

 つむぎの帯。

 無印の唐傘をにぎった手が。


 おりしも雲間から顔を出した月にてらされて、男のおもてが見てとれた。


(……なんて、きれいな人。雪の精みたい)


 雪のように白い肌と、吸いこまれそうな涼やかな目元をしていた。


 見つめるうちに、姿がぼやけてくる。

 娘の意識は遠のいた。

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