一章 めぐりあひて 見しや それともわかぬまに
一章 めぐりあひて見しや それともわかぬまに 1—1
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梅の香がしていた。
甘くはないが、どこかなつかしいような、その高雅な香りのせいだろうか。
長い夢を見ていた。
血のように赤い夕焼けの空。
満開の梅の花。
気高い白梅。あでやかな紅梅。
におやかな花にかこまれて、かがんで見おろす誰かの影。
花と同じ数だけ、あたりには死体がころがっていた。血だまりのなかで争う人々。みな倒れて朽ちていく。
そして、あとには、いちめん白い死の世界……。
誰かに呼ばれたような気がして、娘は目をさました。
いやな夢。気分が悪い。
少し寒気がするのは、寝汗をかいたせいだろうか。
これ、多絵や、てぬぐいを持ってきておくれ——と言おうとして、娘は口をつぐんだ。
いつもの寝所ではない。
六畳ほどのせまい一間だ。
床の間に違い棚。
暮らしむきにゆとりのある人の茶室のように見える。
だが、離れに作った
町家のなかの一間らしい。
梅の香は床の間にかざられた白梅のせいだ。それで、あんな夢をみたのだろう。
離れたところから話し声が聞こえる。商談をまとめる声のようだ。ここは商家らしかった。
障子のむこうが明るい。
もう日がのぼってから、だいぶ時刻がたっている。四つか四つ半。ことによると、九つにはなるのかもしれない。
娘は寝具をはいだし、そっと障子をあけてみた。
障子のむこうは縁側だ。
庭が見える。小さいながら手入れの行きとどいた風流な庭だ。
庭は、すっかり雪をかぶっている。
南天の葉から、ばさりと雪が落ちた。赤い実が雪の白に映えて、つやつや輝く。
そのとき、ふすまがひらいて、女の声がした。
「あれ、そない障子ひらいて、風邪ひきますえ」
ふりかえると、お歯黒をした、きれいな女が立っていた。近ごろは既婚者でも、あまり歯をそめたり眉を落としたりしない。女の古風ななりに、娘はおどろいた。
「気ぃつかはったんどすな。心配しましたえ。あんさん、雪んなかに倒れとったんやって。裏のセンセが見つけてくれはらへんかったら、今ごろ、どないなっとったことか。お熱はあらしまへん? ぐあい悪いとこあったら、なんでも言うてや」
言われて、思いだした。
そうだった。自分は追われていたのだ。このまま、やっかいになっていれば、いずれ必ず迷惑をかけてしまう。
「おおきに、ありがとうございます。せやけど、うち、もう行かなあかんのどす。助けてもろて、勝手な言いぶんやけど……」
「あきまへん。あんさんのことは、センセによう頼まれとるんえ。なんぼでも甘えておくんなはれ。今、センセ、呼んできますよって。待ってておくれやっしゃ」
追っ手に見つかる前に逃げなければ。
そう思う反面、ドキンと胸が高鳴る。気絶する前に見た、幻のような姿が脳裏によみがえってくる。
あれは疲労の見せた、さっかくだったのだろうか? なにやら、たいそう美しい男だったが……。
「あのぉ、センセとおっしゃるのは、どんなかたどす?」
「裏のリョーウ先生。男前でっしゃろ? うちでお世話しとる大切なお人どす。蘭学のえらい先生で、お医者はんをなりわいにしてはります。あんさん、言葉に
東訛りと言われて、娘はふくざつな気分だ。以前は京訛りがあると、厳しく叱責されたものなのに。
考えているうちに、女はいなくなっていた。
これからの身のふりかたを思いながら、娘は火鉢の前にすわった。
頼れる人もいない。遠くへ逃げるにしても路銀さえない。実家へ帰るわけにもいかない。
無謀なことをしてしまった。進退きわまるというのは、こういう状態のことなのだろう。
せめて路銀だけでも工面できたら、と思っていると——
とつぜん、カラリと、ふすまがひらいた。
(あれ、うち、髪もグシャグシャやし、顔もあろてへん。こんなん、あの男前のセンセに見せられへんわぁ)
急に身だしなみが気になって、あわてる。
だが、かえりみても、ふすまのむこうには誰も立っていなかった。
黒光りするろうかと、むかいの部屋のふすまが見える。ひらいたふすまから顔を出して、のぞいてみても誰もいない。
話し声がするのは、むかいのふすまの奥だ。そこは、ふすまが閉まったままで、誰かの出入りしたようすはない。
そう言えば、足音も聞こえなかった。キツネかタヌキにでも化かされたような気分だ。
ふすまが誰の手も借りずに、ひとりでにひらいたとでも言うのだろうか?
首をかしげていると、今度こそ足音がした。
リョーウ先生のおでましだ。
ろうかに首だけ出した娘を涼しい目で見おろしている。
それにしても、見れば見るほど、ほれぼれする男ぶりだ。錦絵からぬけだしてきたように美しい。
六尺ゆたかな身丈。
りゅうとした立ち姿は、一見すらりと細身だが、よく見ると、肩幅もあり、粋な着流しの下には、しっかり鍛えた筋肉がついているようだ。
学者らしく総髪にした長い黒髪を、結わずに背中に流し、目鼻立ちは、あくまで端正。
武者人形のように切れ長の双眸は、のみで刻みこんだように、くっきりした二皮目だ。
女のようになめらかな肌は、雪のごとく白い。
酔ったように見ほれてしまった。
すると、リョーウ先生、能面のように無表情なまま、すっと大きな手を伸ばしてきた。娘のひたいに、その手をあてる。
「熱はない。あれだけムチャをしたにしては、運がいい」
先生、声まで素晴らしくいい。
にごりのないさわやかさで、びんと腰までひびいてくる。
「しもやけぐらいにはなるかもしれぬが、すぐに治るだろう。娘、名は?」
問われて、娘はとまどった。
正直に答えていいのだろうか?
いや、よくない。
今だって充分、迷惑をかけている。これ以上の迷惑をかけるわけにはいかない。
「ええと……」
娘はたっぷり三十数えるほどは考えた。
「ハル! 春と申します」
「春夏秋冬の春か?」
「はい」
先生の目に、一瞬、おもしろがるような色が見えた気がした。
気のせいだろうか?
端正なおもてに微笑が浮かぶ。
「絹から聞いただろうが、私は
先生は裏庭の塀のむこうに見える蔵をさした。白壁に黒いかわら屋根の、りっぱな土蔵だ。塀ごしでも、二階の部分が見えた。
しかし、蔵では、へっつい(かまど)もなかろうし、日差しが暗いだろう。家事が大変だ。
さっきの女の人が、きっと、お絹さんだろう。
先生のご妻女だろうか?
すると、先生は春の考えを読んだように言う。
「私は独り身でな。うるさく言う者がいないので、住めればいいのだ」
独り身と聞いて、春は、ほっとした。
「ほなら、お絹さんは、糸屋さんのおかみさんどすか?」
「そうだ。春、そなた、行くあてがないのだろう? ここにいては、どうだ? 糸屋夫婦なら快く承諾するぞ」
それは命令口調ではなかったが、否とは言えぬ力があった。
この先生、話しぶりと言い、すきのない身ごなしと言い、武家の出ではないだろうか。それも、そうとう身分のあった者らしく思える。
見れば、まだ二十五、六という若さなのに、どうして二本差しをすてたのだろうか。
春はおとなしく、うなずいた。
「はい。ご迷惑でなければ……」
「迷惑などではない。私のそばにいるほうが、そなたは安全なのだ」
謎のようなことを言って、先生は微笑した。
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