動物戦場

セルコア

第1話 帰還

 草香るサバンナの優雅な午後。ライオンたちは木陰にはべり久々の獲物で満たされた腹を地面に投げ出して白昼夢にいそしみ、たまに体にまとわりつく蠅を尻尾で追い払う仕草にも王侯貴族のような気品を漂わせていた。その横ではガゼルの群れが雨期の雨を吸い込んで育った新緑を食む光景が地平線より遠くへと広がっていた。

 今、ライオンの心は満たされている。百獣の王が夢の中で今まで取ったこともないような大きな獲物に襲いかかっている間、(もちろん、結果は死闘の末その獲物の息の根を止めることに見事成功する。そして、今まで味わったこともない上質の肉を食べるのだ)ガゼルをはじめとした草食獣は安心して草を食べることに専念できた。

 いまや、死の季節である乾季は終わった。

 動物たちは、生命を腹いっぱい謳歌していた。

 ただ、何事にも例外がある。寝像の悪いライオンのそばに横たわる、ハゲワシすらもはや手をつけようとしないガゼルの白骨死体――それとライオンが寝転がる地面の下の穴倉で外の世界に怯えているウサギ達だ。


「耳がもげそうだ」

 暗闇の中、一羽の茶色いウサギがポツリとそう言った。

「ああ、まったくだな。五月蠅いいびきだ。こんなところにまで聞こえてくるなんて」

 もう一羽の灰色が、だるそうにそう答えた。

 人間ならばこの暗闇の中は『静寂が聞こえる』と言ってもいいぐらい静かな場所であったが、こと聴覚の鋭いウサギ達にとっては天井からくる騒音でうるさい程だった――ライオンの大きないびきとあくび、ガゼルの走る音、バッファローがメスをめぐって角をぶつけて争う音、象が自慢の鼻で草を根こそぎにする音。

 ウサギたちは、この穴倉の中で、ただひたすら怯えて暮らしていた。ライオンは眠っているが、ウサギには天敵が多い。他のジャッカルやハイエナ、小型の肉食動物などは、かろうじて飢えを凌いだものの、まだ胃袋を完全に満足させるに至っていない。彼らは、目の前の獲物が例え小さなウサギだったとしても容赦なく襲いかかってくるだろう。

「俺たちも早く新芽を食いてえ」茶ウサギは、天井に向かって祈るように呟いた。

「まず無理だろうな。最初にガゼルが草の上の方を食っちまう。んで、その後に縞馬が来る。奴らはちょうど真ん中のあたりの草を食う。んで、最後の仕上げにバッファローや象がやってきて――

「皿にこびりついたソースまで、舐めてキレイに食べちまう」

 やや目つきの悪いウサギが急に割り込んで、その会話を代わりに締めくくった。

「アンタ、一体誰だ? ここら辺じゃ、聞いたことがない奴だな」

 ウサギは、暗い洞穴で暮らしている。よって、最終的な個体識別は聴覚を生かした声で判断する。

「他の群れからやってきたのか? どうもここら辺のウサギじゃないようだが」

 茶色い方のウサギが訊いてみた。

「あぁ、すごく遠くから――

 眼つきの悪いウサギは曖昧にそう答えた。

 ――帰って来たんだ。長老はいるか?」

「長老どころか、全員いるさ。まだ草原には、危険がいっぱいだ。そんなときに誰も上に行く訳がない」

 灰色はそう言って、暗がりの奥を前足の肉球で指し示す。真っ暗な闇の中、ピクリとも動かずにいる影が一つ。乾季の間、消耗しきって寝返りを打つ元気すらなくなったのだろうか。

「ところで」今度は茶色い方が恐る恐る尋ねる。

「さっき言ってた皿やソース、ていうのは一体何なんだ?」

「すぐ分かるようになるさ。文明の産物だよ」

 眼つきの悪いウサギはそう言い残すと真っ直ぐに教えられた方に、二本の足を使って器用に歩いていった。灰色と茶色の二羽のウサギは、随分奇妙な歩き方をする奴だと思ったし、文明が何かも聞きたかった。だが、すぐに今年の新芽の品評を――食べてもいないのに上の空で話はじめた。腹の減った二羽にとっては、変な兎より空想上の新芽の方が余程重要だった。

 眼つきの悪いウサギは、さらに眼つきを悪くして暗がりの奥に進んでいく。途中で見るウサギたちは、寝ているでもなく起きているでもなく、ただ茫漠たる表情でうずくまっているだけ。

 ――外はあんなに明るくて新鮮だったのに。

 この差は何だろうと考えると、眼つきはだんだん険しくなっていった。もちろん、それを見る者はこの暗い洞穴にはいるはずもないが。

「長老」

 そのウサギは長老らしき年取ったウサギに声をかけた。向こうを向いて横たわっている。確信はないが、さっきの灰色のウサギが示したあたりにはこの年取ったウサギしかいないから、多分間違ってはいないだろう。

「長老、帰ってきました」

 反応がなかった。余りに乾季が長かったため、死んでしまったのか?――そう思って手を伸ばしたときだった。

「その声は――

 長老がようやくと寝返りを打ってこちらに身を起したとき、洞穴の天井から低いひづめの大合唱が耳をつんざいた。

 人間の感覚に例えるなら、間近で特急列車が通過していったようなものだろう。これは、きっと移動中のバッファローの群れだ。

 音の群れは通り過ぎた。

「その声は」

 長老はやっと言いなおす。

「お前か! 大昔にこの穴倉を飛び出していった……!」

 良く見せてくれ、と言いながら長老は顔を近づけて、前足で、眼つきの悪いウサギの毛並みをなでた。その上の大地を、群からはぐれた2、3頭のバッファローがトコトコと走り過ぎる。

「もう生きてはいないと思っておったのに……あの時の仲間で今生き残っているのはワシだけじゃ。他の仲間は食べられたか、それ以外はもう寿命で死んでしまった。それにしても、お前は昔と全く変わっておらんな。ワシはこんなに年老いたというのに――毛並みもツヤツヤのままじゃ。長老などと固いことは言わなくていい。ワシとお前の仲なのだからな」

「長老、あなたが仰っているのは、きっと私の父のことでしょう」

 長老と呼ばれたウサギは絶句した。

「声がそっくりじゃ」

 長老は年老いたといっても聴覚とその分析能力に秀でている。その長老が聞き間違えるなどとは――もしかしたら空腹で頭が朦朧として来ているのかもしれないと長老は思った。

「父は、これを長老に会ったら渡してくれ、と言っていました」

 眼つきの悪いウサギは、懐から一筋の毛の束を取り出した。

「これは」

 鼻を近づける長老。

「ライオンのたてがみ……疑っている訳ではなかったが――正真正銘、本当にあいつの息子なのだな」

「なんでも昔、父はあなた達と一緒にライオンに戦いを挑み――結果的には負けたそうですが――その時、死闘の証として落とし穴にはまったライオンから奪ったものだとか」

「あの時の戦いでたくさんのウサギが食われてしもうた。そなたの父は、そのときの作戦の責任を取るかたちで追放された」

「父は病気で死にました。そして、最後の言葉は『ライオンを殺せ。それが俺への最大の供養だ』です」

「あいつらしい……」

 長老は渡されたたてがみを懐にしまうと、ようやくと四本足で立ちあがって言った。

「ここは見たとおり、何もない場所じゃ。しかし、子であるお前には何の罪もない。むしろ大歓迎じゃ。長旅で疲れたろうから、しばらくゆっくりするのがいいじゃろう。ほれ、あっちが寝床じゃ」

 前足の先には枯れた草が積んであった。しかし、眼つきの悪いウサギは全くそんなものに興味はなかった。確かに、体には旅の疲れがこびり付いていたが、こんなジメジメした洞穴の寝どこより、いい昼寝の場所はいくらでもある。

「ご歓待おそれいります、長老」

 眼つきの悪いウサギは丁寧にそう前置きすると続けて言った。その声には断固とした響きがあった。

「しかし、俺はこんな暗くて湿った場所で昼寝をするために来たのではないのです。もちろん、生えたばかりの新芽を食べに来たのでもない」

 長老はそれを聞いて鼻をヒクヒクさせて考えたが、何をしに来たのか皆目わからなかった。なぜなら、この時期の新芽を食べることは、ウサギにとってはただの祭りを超えて宗教儀式の領域にまで達していたからだ。長老も他のウサギと同じく、それ以上の目的など考えられなかったのだ。

「俺は、父親の供養をするために戻って来たのです」

 眼つきの悪いウサギは、確かにそう言った。それだけは聞き間違いようがなかった。

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