雨とアスファルト

西田彩花

第1話

「お姉さん、大丈夫?」


 やけに青く晴れた空だった。私はそれを、ボーッと眺めていた。眩しい太陽に照らされたアスファルトから、脚に熱気が伝わってくる。彼と出会ったのも、ここ。彼に告白されたのも、ここ。彼と初めてキスしたのも、ここ。ここから一緒に眺めたのは、夜空ばかりだ。


 私の顔を覗き込んだ男は、心配そうな風だった。本当に心配しているのかどうかは、分からない。


 私が煙草を口に咥えると、その男はポケットから煙草を出して、私の隣に座った。


「あっついなー。よく地べたに座っていられるね」


 屈託のない笑顔を向ける男。この男のことは見たことがある。この喫煙所の常連だ。


「ね、お姉さん。火ぃ貸してよ」


 横を向くと、煙草を咥えたままこちらを見ていた。溜め息をつきながら、ライターを出す。


「サンキュー」


 それから男は無言だった。私は青い空を見上げながら、煙草を吸った。あまりにも辛くて、銘柄を変えたばかりだった。慣れない味が、口内を侵食する。


 吸い終わって立ち上がると、男に呼び止められた。


「お姉さん、連絡先教えてよ」


 なんともストレートで、笑ってしまった。嫌いじゃない。特に、こんな日は。私はスマホを取り出した。


「名前、何て言うの?」

「柚月」

「可愛いね。俺は幸哉。『幸せになろうや』で、幸哉」


 職場に戻ろうとすると、大声で呼び止められた。


「お姉さん…柚月ちゃん!今にも死にそうな顔してたけどさ、幸せになろうや」


 その笑顔が偽物だったとしても、嬉しかった。精一杯の笑顔を向けた後、青い空を見た。


・・・


 目覚めたときに見えたのは、白。真っ白だった。それが天井だと把握して、視界を下にずらすとチューブがたくさんあった。自分の腕に繋がれているようだ。私はそれを必死で剥がそうとした。


「あ!三滝さん!ダメ、外さないで!…お母さん!柚月さんが目覚めましたよ!三滝さん、それ外さないで、ね?大丈夫だから、ね?お願い」


 看護師らしき女性が、私の手元をつかんだ。抵抗しようとしても、上手く力が入らない。


 母が部屋に入ってきた。ベッドにもたれかかって泣き崩れている。


—私は生きている。


 最後に見た風景はなんだっけか。私はどうやってここに来たのか。私はどうして生きているのか。


 ただただ、悲しい記憶はある。私が今までで唯一愛した人。彼は、私を騙していた。彼には家族があり、私は奥さんに呼び出された。奥さんは、彼を罵倒していた。私が一番の被害者だと言っていた。その横で、彼の子どもがずっと泣いていた。喚くような泣き声が、頭に響き渡った。


 私が唯一愛した人は、私を騙していて、私は彼に愛されていなくって、私も彼を愛してはいけない。


 それからの記憶は混濁していて、知らない山の方に歩いていったような、そんな景色が曖昧に浮かぶ。後から聞いた話だが、私は山奥で「遭難」していたらしい。初夏だとは思えない寒さで、雨に濡れたまま、そこに倒れていたそうだ。向精神薬を過剰に飲んでいたらしく、全く目覚めなかったようだ。2日後、たまたまその近くを歩いた人が不審に思い近づくと、私がいたそうだ。その人が救急車を呼んでくれたらしく、私は病院で数日間眠っていた。


 病院では、何度か彼の名前を呼んでいたらしい。彼がいないのであれば、私もいなくって良い。


 だけど、悲しいのは記憶だけだった。不思議と涙は流れない。泣き崩れているのは母だけだ。私は再びチューブを剥ぎ取ろうとする。止める母を尻目に、ひたすらチューブを剥いだ。


 起き上がろうとしたけれど、酷くふらついて立ち上がれなかった。頭が痛いような、痛みさえ麻痺しているような、そんな感覚だ。


 床を這いながら、窓の方へ行った。泣きながら止める母。なぜ母は、こんなにも泣いているのだろう。


 見上げると、真っ青な空があった。雲ひとつない晴天で、私の代わりに空が泣いてくれれば良いのにとか、そんなことを思った。


 医師は数日入院した方が良いと言ったが、私はその日に退院した。もう、どうでも良かった。


・・・


 幸哉は変わった人だった。良い人なのか、悪い人なのか、判断がつかなかった。だけど、私を救ってくれた人だと思った。「付き合おう」と言われたのは三度目に会ったときで、私は頷いた。その時、煙草の銘柄を変えた。幸哉と同じ煙草にした。過去は話さなかった。


 私は幸哉を知るのが怖かった。幸哉は私の家に入り浸るようになり、私もそれを受け入れた。彼は生活費を一切出さなかったけれど、何もかもが怖くて要求できなかった。幸いにも、2人で暮らしていけるだけの給与はある。


 ある日彼は、仕事を辞めたと言った。私が生活費を工面しているので、理由は聞かなかった。ここで暮らしているなら、少なくとも結婚はしていないはずだ。それだけで十分だ。


 それから数日後、金が必要だと言われた。10万。私はそれを渡した。そして月に一度、金を無心されるようになった。その金額は徐々に増えていき、流石に理由を聞いた。よく分からなかったが、付き合いのあるグループが大変だそうで、彼が金を用意できないと、彼の命に関わるかもしれないらしい。


 私は彼が側にいるだけで十分だった。仕事から帰ると彼がいる。それだけで十分だった。


 貯金は底を突きた。生活費を工面できなくなった私は、夜の仕事を探した。体を売るのに、抵抗はない。


 昼も夜も働いた。幸哉といる時間は減ったけれど、平気だった。幸哉は私を救ってくれた人だ。だから、大丈夫。


 知らない男が怖いとは思わなかった。無理して笑っていたかもしれない、だけど、平気だった。


 ある日、夜の仕事から帰ると、神妙な面持ちをした幸哉がいた。そして今にも泣きそうな顔になり、その場で土下座した。


「柚月、ごめん。夜の仕事、辞めてくれないかな。柚月がいなくなるんじゃないかと思って、不安で不安でたまらないんだ。他の男のところに行っちゃうんじゃないかって。だから、この通り、夜の仕事を辞めてほしいんだ」


 全身が脱力するようだった。安堵。確かにその時、私には安堵があった。体を売るのは、辛かったのかもしれない。少しだけ貯金できたから、数ヶ月はなんとかなる。その間に考えよう。2人で暮らせるように。


 私は涙を流していたようだ。幸哉は私の涙を拭った。だけど、幸哉も泣いていた。それがおかしくって、2人で笑った。


「幸せになろうや」


 前に聞いたことのある台詞だ。私は泣きながら頷いた。この人を愛しているのかどうか分からないけれど、泣きながら頷いた。私を救ってくれた人。


・・・


 しばらくして、彼は就職活動を始めた。私はそれを応援した。これなら、2人で暮らしていけるかもしれない。最近は、金を要求されることもない。これなら、きっと大丈夫だ。


 そう思っていた矢先だった。帰宅すると、彼がいない。いつもそこで待っていたのに。スマホも繋がらない。


 酷く不安になって、警察に行った。すると、あっさりと彼の名前が出てきた。彼は、詐欺グループの一員だったらしい。下っ端だったらしく、ノルマに困っていたようだ。だから私に金を要求していたのか。


 任意の事情聴取を受けた。数日間、しかも一つひとつが長い。警官は、疲弊した私を気遣ってはくれたが、これが延々と続くような気がした。


 結局彼は逮捕されたそうだ。私も被害届を出すよう勧められた。だけど、私はそれを拒否した。私自身は騙されていないと感じていたからだ。


 彼のことは忘れよう、そう思った。全ては私が悪いのだ。何にも聞かず、何にも気づけず、加担してしまう私が。私は加害者だ。


 なんだか感情がなくなってしまったような気がした。私自身は傷ついてはいけないはずだ。だから、自分本位な感情は捨てなければならないんだ。見ず知らずの被害者に対して、何ができるだろう。警官はそれを教えてくれなかった。警官は同情の目で見ているようだったが、それは随分と的外れだ。そんな視線を向けられる資格は、私にはない。


・・・


 あの喫煙所に向かった。その日は曇っていて、どんよりと暗かった。煙草の銘柄は何にしたら良いんだろう。コンビニで目に入った煙草を買ってみたが、なんだか甘くて、口に合わない。


 ぽつぽつと、雨が降ってきた。やっと、やっと、私の代わりに空が泣いてくれた。そんなことを思う私は、やはり身勝手なんだと思う。身勝手にも、悲しいと思ってしまっている。


 この雨が、私だけでなく、他の悲しい人の代わりにもなってくれていれば良いのに。できれば、私が出してしまった被害者の代わりにも。そうしたら、いくらか私が救われる気がした。


 …今日のアスファルトは冷たくて、それが妙に心地好かった。

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