ソラグ神殿
部屋の扉を開け、少年の眠る寝台の脇にデライラが座っているのを確認すると、ロイズは音を立てないように静かに戸を閉じた。
夜中に運び込まれた怪我人に、神殿の治療師はすぐさま癒しの技を施してくれた。おかげで傷は塞がり、わずかに腫れたような痕を残すのみとなっている。
「傷口は塞ぎましたが、血が止まっているだけで、完治したわけではありません。失われた血は戻りませんし、しばらくは痛みもあるでしょう。一日か二日すれば立って歩けるようにはなりますが、元のように身体が回復するには一月程度はかかると思ってください。それに、治療は肉体を治せばいいというものではありませんから」
治療師は念を押すように長々と念を押していたが、ともあれ彼は助かったのだ。
そのまま扉の脇の壁に寄りかかり、ロイズは思考をめぐらせる。
あの少年は、一連の事件での初めての生存者だ。
そしておそらく、奴の顔を見ているだろう。
とすれば、彼が狙われる可能性が出てくる。
護衛をつけ、傷が癒えるまで神殿の保護を求めるのが賢明だろう。
あの男がいくら腕に自信があるとはいっても、神殿を襲撃するような真似はしないはずだ。神殿は開かれた場所だが、武力を持たないわけではない。むしろその逆だ。王城を除けば、ギエフでもっとも安全で護りの固い場所だといえるだろう。
そこまで考えて、改めて背筋に冷や汗が浮かんでくる。先程の戦い、命を落とさなかったのは僥倖と言ってもいいだろう。
デライラの加勢がなければどうなっていたことか。
ソラグ神殿に仕える彼女はロイズたち同様、街の見回りをしている最中にあの場に行き合ったとのことだった。
とはいえ彼女の助勢も、ロイズたちの敗北までの時間を多少長引かせただけかもしれない。三対一、人数では勝っていたが、あのとき不利だったのは自分たちのほうだった。あのまま戦い続けていれば、三人とも無事ではすまなかったはずだ。
心の奥底がぞっと震える。
同時に、先程から抱いていた疑問がふたたび首をもたげる。
彼は何故、あの場から逃げ出したのだろう。
素顔を見られたくなかったのだろうと言ってしまえばそうなのだが、それならば、あの場にいた全員を殺せば済む話ではないか。
現に、今まではそうしていたはずだ。彼がこれまで一切の手がかりを残していないのは、手口が巧妙だからではなく、行き遭った者すべてを殺していたから。
なのに今度に限って、彼は逃げることを選んだ。それは何故なのか。
生存者というならばあの少年だけでなく、ロイズたちもそうなのだ。
それに、あの少年を殺さなかったという点も気になっていた。よもや仕留め損ねたわけではないだろう。
それとも、ロイズたちが子供を見捨てないだろうことまでを計算に入れて、敢えて致命傷を避けたのだろうか。
──なぜ逃げた?
──なぜ俺たちを見逃した?
──なぜあの子供を殺さなかった?
「……魔術を、使わなかったな」
これまでの現場のいくつかには、魔術の痕跡があった。
事件の報告書によれば、被害者は刃物によって急所を切り裂かれているか、魔術によって身体の一部を叩き潰されているかのどちらかだった。
「それとも、仲間がいるのか」
ロイズは呟き、顔をしかめた。いつの間にか独り言を始めていた。
寒さが衣服の隙間から忍び込み、心臓を握ろうと冷たい手で胸をまさぐっているのがわかる。
胸騒ぎのような、いやな予感が消えない。
なにか、重要なことを見落としているような。なにか、性質の悪い詐術に引っかかっているような。そんな気がしてならない。
言い知れない不安と焦燥にかき乱されながら、ロイズはそれが杞憂であることを願うのだった。
※
「……よかった」
寝台の脇の椅子に腰掛け、デライラは穏やかな寝息を立てる少年をじっと見つめた。
まだ子供だ。おそらく成人前──十三、四歳というところだろうか。比較的陽に焼けた肌に栗色の髪。特徴のない丸い耳は、彼がエルフやハーフエルフではなく、人間であることを示している。
この少年は、正面から犯人を見ている。もしかしたら、人相を覚えているかも知れない。
だがそれは同時に、彼がふたたび犯人に狙われる可能性も示している。
「……いずれにしろ、この子が目を覚ますまで待つしかないか」
語尾に溜息が重なる。あれこれの懸念を振り払うように首を振ると、デライラは小さく祈りの言葉を口にした。
「この者にソラグの加護があらんことを……」
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