花の海で
ゆずりは わかば
妄想の波に乗り、現実の淵をなぞる
「いつか一緒に、花の海でこの身を灼きましょう」
空色のリボンがついた麦わら帽子と、白いワンピースが、血のように赤黒く咲き乱れる花畑に映える。つばの広い帽子に隠れて、少女の表情は見えない。
風に乗って舞い上がった花は、炎。
「まって!」
ぼくの伸ばした手は彼女に届かず、足はずぶずぶと地面に沈む。激しくうねる炎が、じゃれつくように少女の小さな躰に絡みつく。白いワンピースが、端からめらめらと黒ずんで……
***
後頭部を壁にぶつけて、飛び上がって起きた。どうやら、電車の中で寝てしまっていたようだ。
いつの間にか、隣には少女が座っていた。さっき夢に見た、そのままの姿。白いシンプルなワンピース、背中に流れる柔らかそうな髪。膝の上でビニールのプールバッグを両手で抱いて、バッグの上に乗せた、つばの広い帽子をあごで押さえている。身体からは、プールの塩素の匂いがほんのりと漂う。ぼくの視線に気づいたのか、少女が小さな頭を傾けて、ニッコリと笑った。
「あ、お兄さん目がさめたんだ」
どこかで聞いた気がする声。
「こわいゆめ、見たの?」
驚きのあまり声の出ないぼくを心配するように、少女は次々と質問をする。
どんな夢だったの? オバケが出てきたの? だれかいなくなっちゃったの?
「もしかして、わたしが出てくるゆめ?」
少女に心の内を見透かされているようで、ぼくは思わず目をそらした。お盆だからか、電車の中にはプール帰りの小学生や、ぼくのように働かざるを得ない大人がちらほらいるのみ。互いに隣合わずとも良い程度には空いていた。しかし、なぜかこの少女はぼくの隣に座っていた。
外の熱気が嘘みたいにこの空間は冷たく、快適だった。
「ねぇ、聞いてる?」
少女の指先が、ぼくの腕に触れる。その指先は、生きているとは思えないほど冷たくて、ぼくは、びくりと身を震わせてしまう。
「冷たい」
思わずこぼしたぼくのつぶやきを、少女は嬉しそうに拾う。
「わたし、ヒエショウってやつなの。プールに入ってきたし、ここは少しさむいし。それに、これからアイスを食べるのよ」
だからわたしの手は冷たいの。
「冬とか大変だろう」
「うん!」
会話の切れ目と同時に電車のドアが開き、外部の熱気と、せみの声が流れ込んでくる。
「あっ、ここでおりなきゃ」
ここでぼくは、電車が次の駅に停まったのだと気付いた。ぴょこんと立ち上がって、少女が言う。
「今日はこれで、バイバイだね。もし会えたら、また明日だね、お兄さん」
聞き覚えのある別れの言葉。
ドアが閉まり、電車がホームから滑り出し始めた時、ぼくは振り返って、少女の姿を探した。
しかし、柱の陰になってしまったのか、それともホームから消えてしまったのか。広いホームの中に彼女の姿は見えなかった。
***
「お盆の間だけしか、お父さんが休めないんだって。だからぼくもお盆が終わったら帰らないといけないんだ」
「じゃあ、お盆明けには帰っちゃうんだ」
花の冠を外しながら、少女がつぶやく。共に林の中を駆け回ったと言うのに、少女のワンピースは入道雲のように純白のままだった。
「まぁ私も、お盆が終わったら帰らないといけないから、一緒ね」
この子も、お父さんのお休みが終わっちゃうんだな。と、この時のぼくは思った。
「来年も、その先も、お盆になるたびに会えるといいね。いつまでもいつまでも……」
少し切なげな少女の流れるようになめらかな髪、地べたに敷かれた薄緑色のハンカチ、柔らかな土の具合、摘まれたばかりの花たちが放つ青臭さ、お日様に焦がされた肌が熱い。
いろんな夏の断片を、せみの合唱が優しく包み込む。
もう終わりが決まってしまったのに、なんだかこの光景が永遠に続いていくような気がした。
***
首筋に冷たい感触がして、ぼくは思わずワッ! と小さく叫んでしまう。
「お兄さん、また会えたね」
昨日と同じように、夢と同じように……少女は白いワンピースに身を包んで、ぼくの隣に座っていた。少女の手にあるラムネの瓶を見て、首に当てられたのはアレかと納得する。
今日は、ビニールのバッグでなく赤いランドセルを膝に抱えていた。
「今日はプールじゃないのか」
「うん。今日は勉強の日なの」
少女はそう言って、ラムネの瓶を傾けた。
「夏休みなのに大変だな」
そうでもないよ。と、首を横に振り、また瓶を傾ける。
「お兄さんはどこ行くの?」
「お仕事だよ」
「大変だね」
「こころが楽になるお薬を飲んでるから、大丈夫だよ」
少女の存在を隣に感じながら、ぼくは考える。やはりこの子は、昔一緒に遊んだあの子なのではないか。いや、バカバカしい考えなのはわかっているが、祖母の家の近くにいたあの子が、何かの拍子にこの電車に迷い込んできたのでは……
「あ、そうだ」
持ってて、とラムネをぼくに預けて、ランドセルの中を探る。
「これ、お兄さんにあげる」
少女の手に握られていたのは、花の冠だった。
「さっき作ったの」
少女から受け取ったそれは、夢と同じ匂いがした。
せみの声が大きくなる。ハッとして顔を上げると、開いたドアの向こう側に少女がいた。
「今日はこれでバイバイだね。また明日、お兄さん」
日差しの中で、少女の白い姿は幻のようだった。
ガラス越しに見える少女の姿は、夢に見るよりもいくらか大人びて見えた。
***
次の日、ぼくのカバンの中には、祖母に宛てた手紙があった。
小学生くらいの頃、一緒に遊んでいた女の子は何者だったのか。あの一面の花畑はどこにあるのか。もし覚えていたら教えてほしい。あと、野菜送ってくれてありがとう。
要約すると大したことのない文面だ。
返事が来るのは大分先になるだろうが、ぼくは疑問を解消するために手紙を書かずにはいられなかった。
今日は寝ないで少女を待とう。あの子がどこから乗ってくるのかが、何かのヒントになるかもしれない。
日差しがギラつく外をぼぉっと眺めて、少し肌寒い空気を楽しんでいると、何者かに耳に息を吹きかけられた。
驚いて振り返ると、そこにはあの少女が立っていた。
つばの広い白い帽子を取りながら、ぼくの隣に座る。
「今日は、ねてないんだ」
「あ、あぁ」
いつからそこにいたのか。全く気づかなかった。
「今日はね、お兄さんに聞きたいことがあるんだ」
「なに?」
少女とのこの問答で、疑念を確信に変えることができたら。そう思って耳を傾ける。
「花の海でおぼれたいって、そう思ったことはない?」
「花の、海で?」
どういうこと? と動揺を隠しながら問い返す。花の海で『溺れる』? 『灼け死ぬ』ではなくて?
「わたしが住んでるところはね、ここからとっても、とおい所なんだけど」
お手紙を書いても、お返事がなかなか来ないくらい遠く。
「おぼんのこのくらいのころになると、赤いお花がたくさん、さくのよ」
お花の名前は知らないけれど、とっても珍しいお花なの。山一面に咲くのよ。
「夕焼けの海みたいで、とってもきれいでね、いやなことがあったら、あそこを思い出すんだ。あの海にしずんでおぼれたら、わたしは生まれかわって、新しいわたしになるの」
あの花達が、私をいつでも殺してくれる。いつでも私は生まれ変われる。どう? 君にこの感覚が理解できるかしら?
「そうかんがえると、いやなことがあってもちょっとだけがんばれる気がするの」
「そうか」
ぼくには、少女の言っていることの意味が、ほんのりと理解できる気がした。
「いつか、そこに行ってみたいな。きっと素敵で、」
……この世とは思えないほどに
「綺麗な場所なんだろうな」
「うん! とってもきれいなの。だから」
少女の小指が差し出される。
「だからいつか、いっしょにあの花の海に行きましょう。きっと、必ずよ」
絡めた小指は、やはり血が通っていないように冷たかった。
***
それからのぼくたちは、毎日何でもない話しかしなかった。少女が、いつもぼくの知らないうちに隣に座っている理由も、あの頃の姿のままここにいる理由も、花畑のことも、もう話さなかった。
ある日、少女が告げた。
「実はね、明日から会えなくなるの。もう、この電車には来なくなる」
理由は聞かずともわかる。明日で、お盆が終わるのだ。
「知ってる」
「お兄さんはエスパーね」
隔離された空間が開き、終わり始めた夏が流れ込んでくる。
「じゃあこれで、バイバイだね、お兄さん」
冷たい空間から飛び降りて、少女は振り返らずに歩き出す。
いつか一緒に、あの花の海で……
扉が閉まり、あちら側とこちら側が隔絶される。
思わず席を立ってドアにすがりつくが、無情にも、少女の後ろ姿がどんどん遠くに離れていく。
***
宣言通り、次の日から少女がぼくの前に姿を現わすことはなかった。電車で隣に座ることも、夢の中でともに遊ぶこともなくなった。
ぼくは、萎びた曼珠沙華が風に揺れるのを眺めるばかり。10年以上経って、急にあの子がぼくの前に姿を現した理由はわからないが、短い再会は、確かめている間に指の間からすり抜けて、どこかへ行ってしまった。
少女と別れてから1週間ほど過ぎた頃、祖母から絵葉書が送られてきた。絵葉書には、一面のひまわり畑が描かれていて、お寺の住所と、何となく見覚えのある名前が添えられていた。
ぼくは、そこへは行かないつもりだ。
花の海で ゆずりは わかば @rglaylove
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