楽園を失った日
@sumochi
魔女の首輪
第1話
初めの仕事はとあるパーティ会場への潜入だった。
「やるべきことを確認しよう」イヤホンから声がする。それと、ヘビーメタルのミュージックも。「まずはターゲットの確認だ」
超高層マンションの最上階にある、テラス付きの大広間。天井から吊るされたシャンデリアの下には、政界人やら資産家の家族や、ショウビジネスのプロデューサーに俳優。総計すると、この国の九割を超えるだろう資産を保有する連中が集まって、シャンパン片手に談笑している。
「ニーナ・モロー。モロー財閥の令嬢で外宇宙の美貌なんて言われているらしいな。黒い瞳がブラック・ホールみたいだからだってさ」
大広間に集まっている者の中でも、ぼくは取り分け例外だ。語らい、笑いあう人たちが集まる中で、人々をちょっとした混乱に陥れるようとしている。
「傘下の映画配給会社は、娘のホームビデオを撮るために買い上げられたって話ぞ」
イヤホンの向こうで笑っているジャックは別の意味で例外だ。経済用語、撮影秘話にロビー活動。思惑渦巻く会場で、あいつは更なるカオスを引き起こしたい。
「ゴシップを真に受けるなよ。それとそのクソでかい音楽は消してくれ」
ドラムの連打。弦楽器の揺らぎ。下卑た笑い声。食器のぶつかる音。ボーカルのシャウト。ジャックの冗談。ぼくは目が回りそうだ。
カクテルグラスを載せたトレイを手に、人混みの中を練り歩く。どこからともなく腕が伸びてきて、ぼくが運んでいたグラスは一つずつ消えたり、空のグラスと入れ替わったりする。
紅いネイルのしなやかな指先がぼくの前を遮った。彼女の名前はニーナ・モロー。どでかい財閥の令嬢で、持ち前の美貌を武器にモデル業界の頂上に君臨してる。
「その時計、素敵ね」
ぼくはニーナが差し出した空のグラスを受け取った。
ジャックは囁く。「遺伝子改良(エンハンスメント)された微笑みだ」
「スパイ映画のガジェットみたい」
ジャックは囁く。「人の叡智による造詣さ。透き通る肌も、柔和な眼差しも」
「貰い物なので、残念ながら価値は解かりません」
いずれ声をかけるつもりではいたものの、まだそのときじゃない。
逃げろ。顔を覚えられるぞ。ぼくの中のぼくが警告する。
「誰かに自分をアピールするため?」ニーナはぼくの進路に立ち塞がった。
「まるでメロドラマだな」イヤホンの奥でジャックが笑った。ぼくも笑顔を装ってるけれど、その頬は引き攣ってる。「仕事。忘れるなよ」
大きなお世話だ。
「素敵でしょう?」ぼくの視線に気づいたニーナは、胸元で青白く光るキューブを摘んで見せびらかした。「あなたも、これを狙ってる?」
「ぼくには宝石の値打ちが解かりませんから」
ぼくのトレイから、また一つグラスが消える。カクテルグラスを手にした中年の男がニーナに挨拶した。その目はニーナのルックスに夢中で、まるでぼくなんかこの場にいないって態度で、彼女を連れて行こうとする。
「広告代理店の社長さ」ジャックは言う。「スケベ親父に助けられたな」
人混みに消える寸前、ニーナはこちらを振り返った。
「あなた、仕事で来たにしても、肩の力を抜いた方がいいと思う。その顔、それじゃあ戦場に立ってるみたい」
ニーナの背が見えなくなってから、ぼくはトレイを配膳台に置いて便所に向かった。別に催してきたってわけじゃない。
「やるべきことを確認しよう」イヤホンから声がする。
会場の照明が落ちるまで後十分。
「標的はニーナ・モロー」
照明が落ちてから間もなく、電力異常を感知したセキュリティが契約先の警備会社に通報する。町のどこかでは、通報を受けて出動した警備隊とコロシ
モ・ファミリーの銃撃戦が繰り広げられることになるだろう。
「目標はニーナが持っているキューブの奪取と――」
「解かってるさ。……解かってる」
たった一つのネックレスを強奪するためだけに、自分じゃ一生かけたって稼げないような予算がかけられた騒動の渦中に、ぼくはいる。鼠が這うような、日の光なんて一切届かない掃き溜めのようなところで暮らしているぼくが、炭酸の飛沫が輝くシャンパングラスだとか、丁寧にアイロンがかけられたベストやエプロンに相応しい自分を演じようとしている。シャンデリアがなんだ。テーブルクロスがなんだ。燭台がなんだ。自分とは無縁の品々に囲まれて、ぼくは眩暈がしてしまう。馬鹿げた話だ。身に余るって言葉を気軽に扱う連中に同じ立場を思い知らせてやりたいよ。
洗面台で顔を洗っていると他の給仕係がやってきた。ぼくたちは一瞬だけ視線を交わす。名も知らない給仕係は何事もないかのように、個室便所に入っていった。
入れ替わりで高級スーツに身を包んだ青年が入ってくる。顔立ちに取り立てる特徴はない。冷や汗を掻いた青年は小便器の前でズボンのチャックを降ろす。滝壺をスケールダウンした音。青年は溜め息を吐いた。間に合って良かったな。
ある種の開放感に青年が浸っている中、個室便所のドアが開いて、中から給仕係の格好をした男が現れた。その男は膀胱を空にするので忙しい青年を羽交い絞めにすると、自分がいた個室に引きずり込んだ。戸が閉まる。ぼくは備え付けのハンドティッシュを数枚使って顔を拭く。閉じた戸の向こうからくぐもった悲鳴が聞こえるが、数度の殴打のあとにそれも消えた。尿意に屈してお抱えのボディガードから離れたりしなければ、こんな不幸な事態に見舞われることはなかっただろう。
なんて他人事のように語ってみたものの、白状すると、実は青年が催した原因は、ぼくたちが配って回ったシャンパンに仕込まれた利尿剤によるものだ。
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