another world

蜜月~前編~

 「乳房、という表現、硬すぎやしないだろうか…」


 ここまで順調に書き進めてきた僕―新田俊助は手を止めた。指はキーボードの上に置いたまま、パソコンの画面とにらめっこしていた。


 「『乳房』にしてしまうと官能小説っぽくなってしまうなぁ。でも、『おっぱい』じゃ緊迫した場面にそぐわないし、『胸』じゃエロさがなくなっちゃうもんな…」


 人から見れば、なんでもない表現の差かもしれないが、作家(志望)としてはここが天王山であった。


 この『魔法戦記ジオニトロス』が中高生、あるいはいい年をしたオタクを対象としたライトノベルである以上、ヒロインの魅力を十二分に引き出さないといけないし、エロスも必要であった。そうでなければ人気も出ないだろうし、アニメ化しても乳揺れで萌えさせることもできない。


 「やっぱり乳房だな…」


 激しい脳内トーナメントの結果、乳房が選ばれた。マウスを動かし、保存ボタンをクリックした。感動のエンディングまで一気に書き進めてもよかったのだが、気がつけば午前0時。二学期の始業式早々遅刻するわけにも行かないので、そろそろ寝ることにした。


 『魔法戦記ジオニトロス』を書き始めたのは高校入学当初。執筆期間は一年半近くになる。当初の予定では半年で書き上げ、某大手出版社が主催するライトノベルの大賞に応募するつもりでいたのだが、筆が乗りに乗って予定していた物語のボリュームをオーバーしてしまい、随分と時間がかかってしまった。


 しかし、時間をかけたおかげで『魔法戦記ジオニトロス』は、文句がつけようがないほどの傑作に仕上がってしまった。


 剣と魔法が共存する聖リーデア王国。人々は平穏に暮らしていたが、突如として太古に封印された魔王ジオブラスタスが復活する。王国の魔法学校に通うユカリ・マーベラスは、村を襲ってきた魔王軍に両親を殺されてしまい、両親の敵を討つべくユカリは旅に出るのであった。よくある設定かもしれないが、剣と魔法のファンタジーの王道である。何度読み返してみても、感動と興奮と萌えが盛り込まれた超大作である。


 ヒロインであるユカリも、とても魅力的である。美少女なのは勿論、健気で優しくて頑張り屋さん。巨乳で、ちょっとエッチなハプニングもあり、読者どもがユカリに惚れるのは間違いないだろう。アニメやライトノベルで人気のキャラを徹底的に研究した上で、オタクどものあらゆる理想を詰め込んだのだ。ユカリは最高究極の女性キャラである。


 これで大賞は間違いなし。各審査員絶賛の嵐ですぐに単行本の出版、増刷、続編となるに違いない。第三巻が出た辺りで、アニメ化の話がきて、僕は迷うことなく快諾。主人公であるユカリの声は、人気声優ゆかりんこと多村由香里に決定。度重なる脳内再生の結果、ゆかりん以外には考えられなかった。


 「アニメ化か……」


 自分の作ったキャラクターがアニメになって動く。しかも、有名な声優さんが声を当ててくれる。小説家にとってこれほどの喜びはないだろう。


 さらにアニメ化となれば、関連のラジオやイベントにもゲスト出演しちゃうんだろうな。人前に出るのは、そんなに得意じゃないんだけどな……。


 僕がそんな他愛もない妄想に耽っていると、携帯電話にメールの着信が来た。千草顕子―僕の彼女からだ。


 『俊助君、まだ起きていますか?あんまり夜更かしはよくないですよ。早く寝てくださいね』


 僕にとってはまだまだ宵の口の時刻だけど、顕子にとっては完全に夜更かしの時間帯なのだ。


 「寝るかな」


 もうちょっと起きていたいと思ったが、顕子のお願いだ。寝ることにしよう。明日の朝、一緒に登校する約束をしているから、寝坊して送れるわけにもいかないからな。


 『今から風呂入って寝るよ。おやすみ~』


 僕は顕子にそう返信し、風呂に入るために部屋を出た。




 「兄さん、兄さん。起きてくださいませ」


 心地よい声が覚醒しつつある僕の耳元に届いた。僕はまだひっつこうとする瞼を強引に開く。


 「まぁ、兄さん。今朝は珍しく一発で起きましたわね」


 枕頭で妹の秋穂が微笑んでいた。腰にまで届きそうな黒髪が朝日に照らされ艶やかに輝いていた。


 「お早う……っていうか、勝手に入ってくるなと言っているだろう」


 僕は寝惚け眼で抗議する。秋穂は妹という気安さからか、ノックもなく僕の部屋に入ってくることがよくある。まぁ、こうして毎朝起こしに来てくれるのは非常に助かるが……。


 「でしたら、お一人で起きる努力をしてください」


 「努力はしているんだけどな……」


 僕は枕元にあった携帯電話を手にした。画面を確認してみると、やっぱり目覚し機能をオンにするのを忘れていた。今日こそは秋穂が起こしに来る前に起きてやろうと思っていたのに。


 「とにかく起きてください。お味噌汁、冷めてしまいますわ」


 秋穂はそう言い残して部屋を出て行った。


 制服に着替えて一階のキッチンに下りると、食卓には昼食が並んでいた。ご飯に茄子の味噌汁。鯖の塩焼きにほうれん草のおひたし。ついこの間までアメリカに留学していたせいか、ここ最近秋穂が作る朝食は和食ばかりだ。ま、好きだからいいけどね。


 「さていただきましょう」


 自分の茶碗にご飯を装った秋穂が僕の正面に座る。いただきますと手を合わせ、僕は箸を手にした。ご飯はふっくらと柔らかく、味噌汁も塩焼きもほどよい塩加減。どれも僕の舌にマッチする絶妙の味付けだ。


 「いかがです?兄さん」


 「うん。美味いよ」


 「ご飯のおかわりありますからね」


 「じゃあ、早速」


 僕は空になった茶碗を差し出した。秋穂が微笑みながら茶碗を受け取り席を立った。


 炊飯器のところへ向かう秋穂の後姿を目で追いながら、ふと思った。物音しかしない静かなキッチン。リビングに目を転じると、ひどくがらんとした空間。やっぱり二階建ての一軒家に兄妹二人住まいはちょっと寂しいものがあった。


 「どうしました?兄さん」


 「いや、やっぱり二人だけっていうのは寂しいな」


 「そうですわね。でも、兄さん。母さんがいないから夜更かしできるとか何とか言ってませんでした?」


 「そうだったかな?」


 僕と秋穂の両親は、現在アメリカにいる。秋穂も両親と一緒にアメリカに行っていたのだが、日本が恋しくてついこの間帰ってきて、僕と同じ高校に通っている。


 ちなみに僕が両親について行かず、日本に残ると決意したのは一年半ほど前のことだ。自分の中では一大決心だったはずなのに、その時のことをすっかりと忘れていた。


 「そうですよ。母さんにしっかりと言われましたわ。兄さんの生活態度をチェックしなさいって」


 「おかげですっかり健康優良児だよ」


 「嘘ばっかり。今夜は十二時前に寝てもらいますからね」


 やれやれ、秋穂のおかげで生活態度が随分とマシになったのは本当なのにな。


 「さぁ、のんびりとしていられませんわ。早くなさってください。顕子さんとの待ち合わせに遅れますわよ」


 「はいはい」


 まだ時間的には余裕はあったが、秋穂の忠告に従うことにした。顕子を待たすわけにはいかないからな。

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