彼女は敵
日本に帰国して一週間。兄の体が穴だらけになるほど観察してきたが、夏休みの兄の生活は怠惰の一言に尽きた。
まず朝起きるのが遅い。昼近くまで寝ていることなんて当たり前で、遅い時なんて午後の一時や二時なんて時もある。折角丹精込めた朝食が昼食になってしまうこともあったし、食べないこともあった。それでも率先して家事をしようとするのは、流石に生真面目な兄であった。その中にカノンとレリーラの世話が入っているのは気に入らなかったが。
しかし、それ以外の時はずっとずっと部屋に篭ってアニメゲーム三昧であった。夕食とトイレ以外に兄が部屋から出てきたところを見たことがなく、秋穂は絶滅危惧種を観察している気分になった。そこまで見るアニメがあるのだろうか。そこまで遊ぶゲームがあるのだろうか。秋穂は疑問に思う。
残念ながらドアには鍵の他につっかえ棒をかまされているので部屋に侵入することができず、部屋の中の様子を伺うことはできなかった。やはり監視カメラは必要だろう。
そして兄は、隣から聞こえている物音などから判断すると、午前二時三時近くまで起きている。まったくもってけしからぬ話である。アメリカにいる両親が知れば嘆き悲しむだろう。
尤も、そんな兄でも外出をすることがあった。ひとつはクラブ活動。この一週間の間に三回、クラブ活動に出かけている。
そんな頻繁に活動することがあるようにも思えないのだが、この時ばかりは兄は早起きで、嬉々として出かけていく。だから秋穂としては、その活動内容をもっと知る必要があると思っているものの、一度部室に乱入し失神した経緯があるので、それきり行っていないのが現状である。
もうひとつが兄の個人的な買い物である。こちらの場合も嬉々として出かけていく。十中八九オタクの殿堂オキバだろう。嘆かわしい話である。こちらの方も兄がどのような場所でどのような物を購入しているかチェックする必要があったが、オタク的なものに拒否反応のある秋穂には、オタク的な物品、サービスが溢れる死海に身を沈めることなどできるはずもなく、帰宅後の兄の鞄と財布のレシートを漁るのが関の山であった。
しかし、そんなことよりも一番気に入らないのは、そのどちらにもカノンが帯同していることであった。いや、クラブやオキバへ行くときだけではない。普段の買い出しても、兄は事ある毎にカノンの名前を呼び、ついて来いと言う。
カノンカノンカノンカノン。昨日数えただけでも、兄はカノンと十五回は言った。一方、秋穂が名前を呼ばれたのはたったの五回だ。これはあまりにもひどい仕打ちだ。
明日、兄はオキバに行くという。きっとカノンも連れて行くに違いない。またカノンの名前は呼ばれ、秋穂は呼ばれないのだろう。そう想像するだけで、秋穂の胸が張り裂けそうになった。
就寝前。秋穂がキッチンに立ち寄ったのはほんの気まぐれだった。喉が渇いていたので麦茶でも飲んでおこうと思ったのだ。
まだ乾かない髪をバスタオルで丁寧に拭きながらキッチンに入ると、冷蔵庫の前で腰に手を当て麦茶を美味しそうに飲んでいるカノンがいた。
秋穂は平静を装ったが、内心緊張していた。考えるまでもなく、カノンと一対一になるのはこれがはじめてであった。
「飲む?」
カノンも、表向き緊張した様子などなく、麦茶の入ったポットを差し出してきた。
「え、ええ」
やや拍子抜けした秋穂は、食器棚から自分のグラスを取り出した。カノンは、秋穂のグラスに麦茶を注いだ後、自分のグラスにも麦茶を注いだ。
二人、無言のまま麦茶をごくごくと呷る。はっきり言って気まずい空気だ。さっさと飲み干して部屋に帰って欲しいものだ。
そんな微妙な空気をカノンも察しているのか、ちらちらとこっちを見てくる。秋穂は急に不愉快になってきた。
「何か?」
思わず棘のある声が出てしまった。
「何でもないわよ」
カノンも不機嫌そのものの声で言った。ますます不愉快になった秋穂。そうなってくると、カノンに対する不快感が増すばかりだった。
何でこんな愛想の片鱗もない女のことを兄は構うのか。
何で何でこの女の名前ばかり呼ぶのか。
何で何で何でこの女と兄は満更でもない雰囲気になっているのか。
何で何で何で何で!
爆発しそうな感情。冷静になれと自分に言い聞かせるが、秋穂の口は、まるで自分のものではないかのように勝手に動いた。
「兄さんのことをどう思っているんですか?」
「兄さん?シュンスケのこと?」
カノンに動揺した素振などなく、不思議そうに秋穂を見返してきた。
「そうね。大事なパートナーよ」
さも当然のように言うカノン。秋穂は心臓を抉られるような衝撃を受けた。大事なパートナーって……。それってどう考えても、恋人同士ってことじゃないか……。
「兄さんと付き合っているんですか?」
「ち、違う違う!そんなんじゃない!」
カノンは、顔を真っ赤にして否定する。
「でも、大事なパートナーってそういうことでしょう?」
「う、う~ん。何て言うのかな……。難しいのわね」
「そうやって誤魔化してお茶を濁すんですね」
「そんなんじゃないわよ。本当に難しいし、いい表現が思いつかないのよ」
あたふたと言い訳をしようとしているカノン。間違いない。この女は兄のことが好きなのだ。
悔しかった。悔しくて堪らなかった。
本来なら自分に向けられるはずの感情が、ついこの間現われたばかりの女に搔っ攫われてしまった。そして、この女自身も、兄から向けられている好意を好ましく思っているのだ。
「兄さんは渡しません」
「え?」
「兄さんは私のものです。あなたになんか渡しません」
当惑顔のカノン。そういうことじゃないの、とさらに言い訳を並べようとしたが、聞く耳など持たなかった。彼女は秋穂の敵なのだ。今、明確にそう認識した。
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