魔王と妹
魔王は帰らない
ぴぴぴ、という電子音が鳴り響く。
それほどの音量ではないが、無機質な音が一定のリズムで鳴り続けていると鬱陶しくなってくる。
アラーム音が鳴る前から薄っすらと覚醒していたデスターク・エビルフェイズは、布団の中から手を伸ばし、目覚まし時計のスイッチを押す。鳴り止むアラーム音。もう少し寝ていたいという欲望を押し殺し、デスターク・エビルフェイズは起き上がった。
八畳の狭い部屋。あまりにも見慣れた光景。今となっては、この貧相なねぐらについて、何の感慨も抱かなくなってしまった。
毎日毎日毎日同じことの繰り返し。辛いこともささやかな楽しみも、全てが毎日の繰り返し。魔王としての生活に疲れてしまったデスターク・エビルフェイズにとって、繰り返される単調な毎日は、魔王として虐げられる日々を忘れさせてくれた。
「う、う……ん。今日も腰が痛いな……」
腰痛はまるで癒える気配がない。寝る前に背中に張った湿布薬がだらしなく剥がれている。会社に行く前に新しいのを貼らないと。
よいしょ、とため息交じりに言い、ゆっくりと起き上がる。その拍子に湿布薬が剥がれおり、床に落ちる。それを拾い上げようと腰を曲げようとすると電撃が走ったようにぴりっと腰が痛んだ。
「いてて……」
腰を曲げるのを諦め、足を曲げて屈む。それでよくやく草臥れた湿布薬を拾うことができた。
デスターク・エビルフェイズは、湿布薬を持った手をじっと見つめた。しわがれた、薄汚れた手だ。
『はたらけど、はたらけど……か』
この世界に来て、何度この歌を口ずさんだことだろうか。そうするだけで涙が零れ落ちそうになる。
労働という尊い営み。しかし、その尊さの対価として得られるのは僅かばかりの金銭。人はその矛盾を抱きながら、日々の営みを繰り返していく。人の世の無常を感じずにはいられなかった。
魔王などやめてよかったかもしれない。余りある力を見せつけ徒に人に屈服を強いる。その一方で部下からは馬鹿にされ自尊心を傷つけられ、敵からは哀れみを受ける。言ってしまえば、内での鬱屈を外に向けて吐き散らしているだけだのだ。魔王なんてろくでもない職業だ。
「さぁ、会社へ行くか」
デスターク・エビルフェイズは、会社へ行くのがちょっとだけ嬉しく、誇らしかった。
「まったく!どうなっているんですか!」
夕方、営業周りから帰社したデスターク・エビルフェイズは、今日の結果を年下の上司海藤に報告した。今日も成約件数はゼロだった。案の定、海藤は声を荒げた。
「昨日もゼロ。一昨日もゼロ。その前もゼロ。ゼロゼロゼロ。いつまでゼロの大行進を続けるんですか!」
「はぁ。申し訳ありません」
「申し訳ありませんじゃないですよ。入社一年目の社員だってもっと成績いいですよ。山田さん、あんた入社何年目ですか!」
ついに『あんた』呼ばわりか。その程度のこと『禿』と呼ばれていたことと比べれば屈辱ではなかった。
「申し訳ありません」
「山田さん、申し訳ありませんはもういいですよ。そういえば許されると思っているでしょう?」
その考えが甘いんですよ、と畳み掛ける海藤。
「まぁまぁ、海藤君。そう声を荒げなくても……」
そこへ現れたのは渡会であった。山田とは同期らしいが、デスターク・エビルフェイズトスしてはあまり実感がなかった。
「こ、これは渡会部長!」
海藤が面白いぐらいに直立不動になった。下には威張り散らす海藤も、上司である渡会にはまるで従者のように丁重であった。
「山田君には私からも言っておくし、月曜日に大泉さんのところに一緒に行ってくるよ。あの大きな話を持ってきたのは山田君の功績だからね」
ははぁそうでありますか、と時代劇に出てくる小悪党のように仰々しく言う海藤。しかし、山田の言っていることは真実ではない。大泉社長に話をつけたのは渡会で、その功を山田たるデスターク・エビルフェイズに譲ったのだ。
『なかなかできることはでない』
かつて魔王だった男は、純粋に海藤という男の度量の大きさに感嘆した。上司とはこうあるべきなのだ。だが、果たして自分は海藤のような上司だっただろうか……。
「今日はこのぐらいにしよう。さ、解散解散」
渡会が介入したことで海藤の説教から開放された。海藤はオフィスから退出しようとする渡会に追従しながら、部長これから一杯どうです、などと言っている。なるほど海藤という男は、ああいう風に上に阿諛追従、おべっかを駆使して今の地位に成り上がったのか。デスターク・エビルフェイズは、とても真似できぬと思った。
ともあれデスターク・エビルフェイズは、この隙に荷物をまとめ退社することにした。
鞄を小脇に抱え、いそいそとエレベーターに向かう。ボタンを押すと、ちょうどエレベーターが到着した。
中には若い女性社員がひとりだけいた。きつい顔立ちながら結構美人で、肉感のある女性だ。会社の制服を着ているからうちの社員には間違いなかったが、見覚えがなかった。でも、妙に何かが引っかかるような……。
デスターク・エビルフェイズは、小さく会釈してその女性に背を向ける。若い女性といるとサリィを思い出していやに緊張してしまう……。
「おい禿!無視してんじゃないよ!」
突如として背後から衝撃が走った。振り返ると件の女性が右足を上げていた。腰に蹴りを入れられたのだ。
「な、何をするんですか?」
「何じゃないよ、無視するなっていっているのよ!」
この口調、この傍若無人な言動……。ま、まさか……。
「サ、サリィ……なのか?」
「そうよ。部下のことぐらいすぐ分かりなさいよ」
上司を足蹴にする部下がいるものか。そう怒鳴ってやりたかったが、怖かったのでデスターク・エビルフェイズは口を噤んだ。
「分かるわけないだろう。随分と見た目が違うんだから……」
「ふん。ま、いいわ。リンドから伝言。いじけてないでさっさと帰って来いよ禿、だって」
「リ、リンドが……」
表面上は服従を装いながらも、自分勝手に作戦を進める軍師リンド。あの知将ぶっている怜悧な面構えが目に浮んだ。
「私は、帰らない」
エレベータが一階に到着したので、デスターク・エビルフェイズは降りようとした。しかし、サリィに背広の後襟を掴まれた。
「ちょっと待ちなさいよ、禿」
そのままサリィは、デスターク・エビルフェイズをエレベーターホール傍の公衆電話コーナーに引きずっていった。
「な、何をするんだ……」
「何をも糞もないわよ。帰れって言っているのよ」
投げるように襟を放すサリィ。デスターク・エビルフェイズは、よろめいた。
「か、帰るもんか。禿禿と言われ、命令も無視する。そんな奴らの所に帰ってやるものか」
「子供か、あんたは。いい年した魔王が駄々捏ねるんじゃないわよ」
「魔王だなんて思っていないくせに……」
「言ったからね。ちゃんと戻りなさいよ」
どうしてこんなに上から目線なんだ。やっぱり自分のことなんて魔王だなんて思っていないだろう。
「早川さ~ん。飲みに行くよ~」
エレベーターの方から声が聞こえた。デスターク・エビルフェイズからは死角になっていて声の主は見えないが、うちの社員だろうか。
「は~い。今、行きま~す」
返事したのはサリィだった。しかも、デスターク・エビルフェイズが聞いたことのない、ぶりっ子声だった。
「早川さん?」
「そうよ。私、ここでは早川沙織って言うのよ。じゃあ」
スキップしながら去っていくサリィ。公衆電話コーナーから顔を覗かせると、若手男性社員四五人に囲まれながらサリィは社屋を出て行った。彼女は彼女でこの世界をエンジョイしているようだ。
『もう、私は必要ないらしい……』
サリィもリンドも、その他の手下達もあっちの世界でこっちの世界で好き勝手に生きている。それでいいじゃないか、それで。
今日は金曜日だ。これから居酒屋福ちゃんに寄ろう、とデスターク・エビルフェイズは思った。
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