知人 楠木美緒
目覚めの悪い朝であった。
雨戸を閉め忘れたらしく、朝日が容赦なく顔面に降り注いでくる。あまりにも眩しく、だからといって体と意識は目覚めることを拒否しているようで、すっきりと目覚めることができなかった。
半分起きた状態で、ベッドに潜り込む。このまま二度寝をしようと思ったが、頬がずきずきと痛んで眠りに落ちることができなかった。
不愉快な夢を見たばかりではなく、リアルに頬まで痛いとは。きっと寝ている間にどこかにぶつけてしまい、それがカノンモドキに殴られる夢となって現れたのだろう。
「くそっ!!」
眠れない以上、もう起きるしかない。上体を起こし、微かに残る眠気を払拭するために軽く伸びをする。
時計で時間を確認すると、六時ちょっと過ぎ。いつもの起床時間よりも一時間ほど早い。
「せっかくだ。溜まった洗濯物でも片付けるか……」
軽くひとつ欠伸してから、パジャマ姿のまま一階に降りた。
洗濯機は一階の洗面所にある。脱衣籠にはここ一週間ほどの洗濯物が山のようになっていた。洗濯機に適当に水を溜め、ごっそりと洗物を入れる。洗剤も適当にぶち込み、タイマーをまわす。ぐおんぐおん、と洗濯機が回り始めたのを確認して、洗面所を出た。
賢明な諸氏ならすでにお気づきかもしれないが、僕は現在、独り暮らしをしている。
その理由は極めて単純。海外への転勤が決まった父親に、母親と妹がついて行き、僕だけが日本に残ることになったからのだ。
じゃあ、どうして僕だけが日本に残ることになったのか?その理由も単純。リアルタイムにアニメが見られなくなるからだ。まぁ、他にも理由はあるのだが、一番大きな理由はアニメである。
高校生にして二階建て一軒家でひとり暮らし。まるでエロゲーかハーレムアニメの設定である。女の子が押しかけてきて、うっはうはな同居生活が繰り広げられる……わけでもなく、男子高校生のひとり暮らしなどやるものではない。
炊事洗濯掃除は勿論ひとりでやらなければならないし、毎日の買い物はかなり面倒くさい。場合によっては、町内会の行事に出たりしないといけないのだ。母ちゃんはよくやっていたなと思い、いなくなって感謝する日々である。
洗濯機が回っている間、豆乳とパンで朝飯を済まし、二階に戻って制服に着替える。着替え終わると洗濯が終わっているので、庭に出て干す。今日は天気が良いのでよく乾くだろう。
洗濯物を干し終わってリビングに戻ってみると、出掛けるまでまだまだ時間があったので、うだうだと朝の情報番組を見て過ごす。どこの放送局もくだらない内容ばかりであったが、時間を潰すことはできた。
「さぁ、行くか」
玄関で靴を履き、鞄を持つ。今日は始業式だけで授業がないから、とても軽い鞄だ。ドアノブを回し、軽やかにドアを開ける。
「おっす!俊助。おはよう!新学期早々気分がいいね!」
目覚める時は不愉快だった太陽の光も、今となっては心地よい。新学期に相応しい清清しい朝だ。
「今日から二年生だね。今度こそ同じクラスになれたらいいね」
おっ!どこかで小鳥が囀っている。季節的には鶯かな?実際に聞いたことないけど。
「ちょっと!!無視しないでよ!」
何者かが背後から制服の襟を掴んでくいくいと引っ張る。こんな平穏で気持ちのいい朝を妨害してくるなんて、きっと悪魔か何かの仕業だ。しかし、今日の僕は悪魔なんかに屈しない。断じてこの歩みを止めるものか。
「俊助ぇ!!」
悪魔が悪魔らしい馬鹿力で制服を引きちぎらんばかりに引っ張ってきた。新学期早々、破れた制服で登校するほどの猛者になれない僕は、悪魔に屈して歩みを止めた。
「何しやがる!」
「だって、無視するんだもん!ひどいよ!」
振り返るとそこには顔見知りの知人、楠木美緒が腰に手を当て仁王立ちしていた。
ベリーショートの髪型に、くりっとした大きな瞳。顔立ちはそれになりに整っていて、三次元世界では美少女の部類に入るのだろうが、僕にとっては魔族のカテゴリーである。
「どういうご用件でしょうか?楠木さん」
「やだなぁ、俊助。他人行儀なんだから。幼馴染なんだから、一緒に学校に行こうと思っただけだよ」
楠木美緒と名乗る悪魔は、気軽に僕の肩をばしばしと叩いてくる。馴れ馴れしい。それに……。
「気軽に幼馴染なんて言葉を使うな。僕とお前は幼馴染なんかじゃない」
「どうしてよぉ?ご近所さんでしょう?」
「徒歩二十分圏内は、ご近所さんじゃない」
「ほ、ほら……。小中高と同じ学校だったじゃない」
「そのうち同じクラスなったのは、たった2回だけだろ。それで幼馴染なら、学年中幼馴染だらけだ」
そういう設定もありか、などと思っていると、膨れっ面の美緒が正面に回りこんできた。
「どうして俊助は、あたしと幼馴染になりたくないわけ?」
「お前こそ、どうして僕と幼馴染になりたいんだ?」
質問に疑問で返してやると、美緒はさっきまでの威勢を潜め、急にしどろもどろになった。
「え、ほ、ほら……。あれだよ。俊助とは付き合い長いしさ、幼馴染でもいいかなと思って……。そういう関係はアドバンテージもあるしさ……」
俯き急に訳のわからないことを呟く美緒。ひとつのことに嵌り込むと、急に周りが見えなくなるのは相変わらず。不本意ながら長い付き合いをしているので、彼女の特性はよくよく承知していた。
「遅れんなよ」
知人としてのせめてもの情けで声を掛けた僕は、美緒を置いて学校へと向かった。
僕の通う私立明王院高等学校は、現役で難関国立大学の合格者を輩出している県内有数の進学校である。それでいて課外活動も盛んで、スポーツでは全国大会常連のクラブも多く、文化系でも数々のコンクールでその名を轟かせている、らしい。
しかも、制服が可愛いことから近隣の女子中学生にとっては憧れの的らしく、わざわざ県外から二時間近くかけて通学してでも入学したいという強者もいるらしい。僕の妹なども、日本に帰ってきたら絶対明王院に通いたいと何度も言っていた。
僕が高校進学に当たり、そんなリア充の巣窟っぽい明王院を選んだ理由は、やはり単純であった。家に一番近い学校だから。徒歩十数分の距離であり、これならダッシュで帰れば夕方のアニメに間に合うのだ。
録画でもしろよ、というご意見もあるかもしれない。ちなみに言えば、お気に入りはちゃんと録画している。しかし、リアルタイムで放送しているのを見て、ネットの住人達とリアルタイムで意見交換するのも楽しみのひとつなのだ。
と力説している間に、我が明王院高等学校に到着した。正面玄関脇の掲示板にはクラス割が貼り出されていて、すでに黒山の人だかりができていた。
僕も人だかりに紛れ、クラスを確認する。二年A組だ。クラスの他のメンバーも確認する。幸いにして美緒の名前はなく、僕にとってはベストのメンバーだった。ちなみに美緒の名前はF組。教室は随分と離れているはずだ。
「ねぇ、俊助。どうだった?同じクラスだった?」
遠く背後から悪魔の叫びが聞こえたので、僕はこっそりとその場を離れた。別々のクラスと知った時に美緒がどういう反応を示すか観察したかったが、八つ当たりをされても困るので、このままA組の教室に向かうことにした。
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