第290話「桜」
ひかりの頬が赤らんでいるのがはっきりと見え、自然と口角が綻んだ。ハルにまでその恥じらいが染みるような心地に押し黙ってしまう。しかし決して触れられない距離がもどかしかった。
「わたし、初めてなんです。こんなに人恋しくて想い焦がれたのは」
小さな声が耳に届く。何か返そうにも頭の中が真っ白になってしまい、言葉が出てこない。ひかりの目が真っ直ぐにハルを見上げ、唇が柔らかく形を変える。
「これから先もあなただけを想い続けます」
「……私も。ひかりだけのものになるよ、アンタが望む限り」
例え闇の中だろうと。想いを口にする度に喉奥から溢れそうになる負念の魂を飲み込みながら、身体が今にも裂けるような圧迫感に耐えた。
「言葉に出来ないくらいだ」
「痛みますか? 体内に封じ込めた方々が暴れてるでしょう」
「ああ……天逆海も霧に溶けてるから、少し苦しいかな。本当に行かなきゃ破裂する」
「分かりました」
ひかりの目元は乾いていた。声もしっかりとし、落ち着いている。初めに出会ったあの泣き虫だった彼女の面影は薄くなっていた。ひかりが後ずさって大幣を振るった時、その背後に光の輪郭を持ってアマテラスが現れる。
『よくここまで護ってくれました』
「ああ、役目は果たしたよ。後の現世のことは皆によろしく頼む」
アマテラスはまだ何か言いたげだったが、それ以上は触れてこなかった。ただひかりの祈祷に合わせ、結界へ両手を向けて声をあげる。
『死屍子を抱えたる人の子よ。その身をもってあらゆる憎悪を引き連れ、海底で眠りなさい』
祠の中へと吹き込む風とともに身体がひとりでに浮き上がる。うつむいたあかりの頬へ光る雫を横目に、ハルはぼうっと八年前を思い出していた。
「──桜」
夕陽の空にはらはらと桜が散っている。その中に立つひかりの微笑みがくっきり浮かんでいた。
流れる艶やかな髪、大きく潤んだ両目、少しまだ幼げな顔つきに凛とした表情。ずっと大切に護り通してきた人の最後の笑みを焼きつけた。
「よかった」
祠の中に落ちていく。桜が舞い落ちる現世を真っ逆さまに見つめて、ハルは静かに目を閉じていった。
凍てつくような冬の空気がひかりの足元を吹き払う。降り出した雪は夕陽に照らされ、ほの赤く色づいていた。
「桜……」
いやに沈まない太陽の前に立ち尽くし、ひかりは自分の影の先を見つめる。そこにあったはずの祠は跡形もなく、消え去っていた。
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