第256話「唇の熱」

 周囲でガラスの割れる音が増すほど煙幕は濃くなり、花の香りが強くなる。阿用郷はさすまたを握り締めてジッと息を殺した。

「ふん、間抜けめ」

 例え姿が見えなくとも、足音や服の衣擦れだけははっきりと耳に届くのだ。視覚と嗅覚を潰されたとしても次に近づいてきた時が最後、真っ直ぐにさすまたを振るえば良い。あのナイフが届くより先にジャスの柔らかい肌が切り裂かれるだろう。

「どうした、そうやって隠れ逃げるだけか。吾輩はここから動かんぞ、好きにかかってこい」

「ワタシは臆病なものデスから。下準備は周到に、倒すのは一発で」

「吾輩を侮り過ぎではないか、小僧」

 終焉はまもなくだ。紳士ぶった男の最期は見るも無残なものが相応しい。一層耳を澄ませた阿用郷の正面から軽やかな足音がした。

 ただ、真っ直ぐに。

「──ッな、に!?」

「貴方の……負け、デス……!」

 彼の身長を考慮して、心臓を狙ったはずだった。しかし、ジャスは上から降ってきたのだ。さすまたが貫いたのは腹で、血しぶきが噴き出す。赤色に遮られた視界の隅で鮮やかに金髪がなびいた。

「Good-bye」

 ジャスの重さでさすまたを腰元へ戻すのが遅れた。防御の体勢を取る前に喉奥まで銃口がねじ込まれ、鈍い一発とともに後頭部が弾け飛ぶ。

「何故──」

 阿用郷とジャスが同時に地面へ倒れた。リリィが甲高い啼泣をあげて弟の頭を抱きすくめた。

「なんで、ナノ……。当たらないヨウに避けるカラって言ってたノニ!」

「フフ……あの速度は、ワタシには厳しいデスね……」

 鳥籠が消える。音を歪めて反響させ、相手の聴覚を狂わせるのがこの技の最も重要な能力だった。自身の足音だけを逸らし、逆にリリィの駆け回る音をよく響かせる。ジャスが細かくちょっかいをかけたおかげで、阿用郷はリリィを忘れていたはずだ。

「これで、帰れマス」

「Don't leave me alone……」

 ジャスは傷のないリリィの姿にひどく安堵した。身体の熱が引いていき、少しずつ肺が動かなくなるのが分かる。

「死なない、デスよ……まだ」

 長い髪が辺りの景色を覆い隠していた。大粒の雨を受け止めながら、指先でそっと唇をなぞる。

 互いに触れた口元から少しずつ、身体へリリィの熱が移ってきた。

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