第220話「羽化」

 何度かキノコを口にして元の大きさに戻ったハルは立ち上がる。アリスがシロウサギへゆっくり歩み寄っていった。

「誰かを身代わりにする自由ならわたし、そんなもの要らないわ。だから『不思議の国のアリス』として生きていきたい」

「キミはいつか、その選択を後悔するよォ」

「そうかな」

「ボクが塞ぎ込んだキミをこの場……物語の狭間に招き入れたんだよォ。ここを出た瞬間、キミはこの場所の記憶をなくすんだァ」

 物語には必ず、描かれないが存在する時間軸があるのだとシロウサギは語った。例えばアリスが狂ったお茶会に参加していた時間があったとして、その裏ではシロウサギが城へと急いでいたりする。表面には現れない、読者の死角が『物語の狭間』なのだ。

「またあのループに戻りたいのかなァ? ここでの時間はなかったことにされてしまうけどォ」

 本来そこに居ないはずの人物が登場すると、狭間は歪みを直そうとする。そのために彼らの記憶の方が修正されてしまうのだった。

「穴があるだろう。そのルールから逃げ出すための穴が。アンタや帽子屋はそこを使って、いるべき物語の中から出てきた」

「うんうん、やっぱり中身に誠が入ってると鋭くなるねェ。その通りさァ」

 シロウサギが見ているのは、ハルの奥に潜む彼の姿だ。

「ただの思念体でしかなかったボク達に形を与えてくれたのは誠だった。アリス、キミが自由になりたいと思うなら自我を持つことだよォ」

「なぁに、それ?」

「ボクが自分を気狂いに見せかけているように、帽子屋が大砲なんか持つように。自分が願う自分の姿になるんだァ。キミは、どんな人間になりたい?」

 表情が変わり、アリスの目が光った。そしてぐっと顔つきを引き締める。それを確かめたシロウサギは外が映っている窓へと彼女を導いた。

「その先に、自由がある」

 アリスは溶けるように窓と一体化し、姿を消した。急に視野が低くなって青のエプロンドレスが揺れる。

「この世界は『不思議の国』と呼ぶにはあまりに理路整然とし過ぎている気がするねェ。もっとおかしくなくっちゃ」

「なら、本当の居場所に帰ればいい」

「……もう少し。彼女を見ていたいよォ」

 晴明とあかりが駆け寄ってきて、何やら優しく言葉をかけている。しばらく言葉を交わしていたアリスの頭を、晴明は慈しむようにそっと撫でていた。

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