第213話「水煙管」
まるで水中にいるような錯覚だ。次の扉の向こうにはポコポコと泡の弾ける音が響いていた。扉のすぐ隣に妙なガラスの壺のようなものが置いてあり、細いホースが伸びている。壺の中はいくらか水が溜められていて、音はそこからしているようだった。
「あんた、誰」
「え?」
「名前だよ」
やはり少し先に影が伸びていた。今度は大きなイモムシがホースの先の金具をくわえ、ぐったりしたように寝そべっている。それでも進み続ける廊下とあまりに釣り合わない光景に、考えるのも疲れてきた。
「聞いてる?」
「あ、あぁ。私は──」
フッと煙を吹きつけられる。これだけの距離を一気に迫ってきた紫煙を吸い込んでしまい、ハルはむせた。同時に頭がぼうっとしてきてその場に座り込む。
「どうしたの、もう歩きたくないのかね」
「私……わ、たしは」
「自分の名前も言えんのかね!」
「待ってくれ、すぐ思い出すから。私は」
目まいがしてうずくまったハルへさらに煙を吹く。どんどんと何も考えられなくなってきて、視界が白く飛び始めた。イモムシは忙しなくポコポコと水音を立てている。
「まったく、分からないなら教えてやろう。あんたはアリスだよ、ア・リ・ス」
「違、ちが……ッ」
「アリス。あんまり寝ぼけていると、三月ウサギに蹴っ飛ばしてもらうよ」
芳香が鼻を通り抜ける度に身体が浮き上がるような感覚になる。イモムシは何度かその名前を繰り返し、ようやく満足げな表情で曇った息を吐いた。
「物語に帰るんだよ、アリス。ほらアリス、早く帰らなきゃ」
「……う、うん」
「よぉしよし、あんたは素直でよろしい」
「今、私は「ううん」と言ったんだ。つまりいいえさ、寝ぼけているなら蹴り飛ばしてやろうか」
まだ頭はぼんやりとしている。しかし血が滲むほど握り締めた拳は確かに痛みを持っていた。
「見えてきたぞ、ここに私を連れてきた理由が」
「この煙草が効かないとはね」
「結構、気分は悪い。でもここで自分を見失うわけにはいかないからな、ひかりのところへ帰るために」
そろそろ扉が現れる時間だ。青ざめた顔をしつつも気力で踏ん張って立ち上がり、イモムシを見据える。
「代わりのアリスを立てようとしてるなら、他を当たることだ。私はここから出ていく」
「ふぅん? ま、頑張りな」
ふわりと周囲が煙に包まれ、気配が薄れていく。手探りで見つけた扉を押し開けた時、少女のすすり泣く声がした。
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