第三幕・春の夢

日々

第201話「夢うつつ」

 ──独りだった。人々の賑わいは遠いようで、残響の欠片だけが微かに届く。ぼんやりとした視界がパズルの噛み合わなかった街の穴から空を眺めていた。雪がしん、と止んだ。換気扇が吐き出す埃っぽい空気が溜まりきって、地面に転がったまま泣き声を上げる。一坪あるかというほどの空き地に、ひとりぼっちだった。

 疲れ果てて泣くこともやめ、時折ため息のような呼吸をする。日が落ちてから急激に冷え込んで、喉奥がしもやけになってしまったようだ。力が抜けた瞬間、地面から気配がせり上がってくる。指先まで凍え固まった身体へフッと何かが染み込んできた。

 重く、黒い水だ。人々の憎悪や欲望が飽和するほど溶け込んだ汚水、それでいてどこか曖昧な感覚。欲や恨みを抱えても、どうしたらいいのか分からないと迷っている。とうとうそれがつま先からつむじまでを満たした瞬間、身体から闇色の霧が溢れ出して──。そして、何も分からなくなった。


 自分が何者かも知らなかったが、そのうち「妖怪」などと呼ばれていた。腹を空かせればエサを貪り、反撃され山奥に追い払われ、それでも本能のままに生き抜き続けた。暑さと寒さをいくつも繰り返す。視線が高くなり、身体が重くなるほどに向けられる殺意の目はより多くなっていった。

「あらあら。やっと見つけたと思ったら」

 色素の薄い髪がなびく。

「もうバレバレよ、酷い血の匂いだもの。……久しぶり。何だか気配が薄いけど、あなたよね」

 覚えのある人間だった。シナプスが繋ぎ合わせた記憶などではなく、もっと奥深くから訴えかけてくる懐かしさだ。噛みつきたくなる衝動のままに飛びかかると彼女の首元に光が揺れた。紐にくくられた窮屈そうな光がうっとおしい。

「そう警戒しないで、いい子だから」

「はよしてくれん?」

 木の陰に男が腰を下ろして紫煙をくゆらせている。


 ──これは何だ。

 目の前には男女が揃って立っている。しかし本当にそうだっただろうか。そもそもあの空き地さえも存在するのか。自分は今、どこにいる?


「名前……うーん、素敵なものにしたいけれど」

「簡単なやつにせんと、こいつが書けへんで」

「そうね」

 彼女は柔らかく微笑む。

「私の名前はあかりよ。そしてあなたの名前は、ハル。うん、いい名前だと思うわ」

 長いことのだ。満開を過ぎて散りゆく桜に囲まれている彼女達のあたたかな表情を。

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