第149話「迷い」

 数ヶ月前まで暮らしていた部屋に入り、眠りにつく。そこは前と変わらぬまま、しかし掃除の手だけは入ったようで小綺麗にされていた。壁にかけられた高校の制服と引き出しの中の教科書が胸の痛みを起こした。三年になる直前に連れ出され、クラスメイトに挨拶もしていない。今ではテレビや新聞でひかりの写真が載せられているはずだ、彼らはそれを見ただろうか。

「わたしは……」

 そろそろ千年経つことは教えられていた。しかしその役目は兄が継ぐのだろうと思い、高校を卒業したら遠くへ引っ越そうとしていた。未熟者の負い目を感じない場所で暮らしたかった。

「わたし……っ」

 儀式もなく突然、身体を奪われ意識の底に突き落とされた時、裏切られたと思った。見守ってくれると言ったではないか、嘘つきとクッションまみれの部屋で罵った。やがてそれにも疲れ果てて眠り、目覚めれば光の森にいたのだ。夜が訪れる度に変わる景色と入れ替わる人々。状況が飲み込めない毎日に心がすり減っていた。

 ──ふと現れた、ずっと隣にいる存在が。目を覚ませば必ず、宥めるように今までの出来事を話してくれる彼女がいることが。どれほどひかりの心を楽にしてくれただろう?

『一匹の妖怪如きにこだわってられる場合じゃない』

 兄の言うことも分かる。人々が死ぬのを見ていられないなら、背負わされた自分がどうにかするしかない。今すぐにでもここを立ち、死屍子とあかりを捜すことに専念した方がいいはずなのだ。開け放った窓から染みてくる蝉の声がうっとおしかった。

「うるさいなぁ」

 窓を閉めようと立ち上がり、枠へ手をかけた時、下から腕を掴まれて外に引きずり出された。ぽよんとした感触に跳ね返り、ハッと顔を上げる。

「どうも、お久しぶり」

「は……」

 黒髪が地面に流れ、赤い目がこちらを見上げていた。

「ハルっ!?」

 何故ここに、と叫び出す直前、むきゅっと口元を押えられる。あまりに柔らかな違和感に手を引き剥がしてみると、肉球が親指を沈み込ませていた。

「な、何……?」

 泣きそうになってぐずぐずとしていた鼻をすすると獣の匂いがする。ハルは見た目こそ肉食獣のようではあるが、匂いは人のそれだったはずだ。

「あの……ハル、じゃないですよね」

「ありゃ? もうバレちまっただか。オラはけっこう化けるのとくいだと思ってたんだけどなぁ」

 ハルの姿をした何かは宙返りをする。途端に小さな狸になってひかりの膝に収まり、腕に頬をつけてすり寄る。

「うわぁ、やわけえ。おなごはこんなにやわけえのか」

「何なんですか、ええっと、化け狸さん?」

「オラは大。ハルを連れてきた姫サマのなじみにおねがいされた、姫サマにおねがいされてここに来ただよ」

「え……も、もう一回言ってもらってもいいですか」

 大という子狸は同じ言葉を繰り返した。要はハルを連れ去った者の使いということだと判断したひかりは気を引き締める。

「ご要件は」

「おめはんをいもうと様んとこさ、連れてけってよ」

 多分妹様というのは、おとめのことだ。それでハルが近くなるというのなら、迷いはない。

「分かりました」

 暗闇が口を開ける。手を引いてくれるハルはいないが、勇気を振り絞った。

 穴が消え、辺りに蝉の声だけが満ちている。

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