第143話「よければもう一度」
その場に崩れ落ちたマチネはダガーを握り締めた。奎介は病室の天井を見つめている。
「……どうした」
「何これ、切れない」
両刃のどちらに手を当てて勢いよく引いても、鮮血が溢れることはない。天逆海に投げつけたものはすっぱりと肌を裂いたというのに。それはいわゆる、模造品というものだった。
「なんでこんなもの、どうして……!」
ダガーを投げ捨てる。凍らせてしまおうかとも思ったが、心の奥底が安堵しているのを知ってしまった。彼を殺したくないと思っている自分がいた。二度目の人生が始まった日に目を覚ました病室で、視界の隅にいた姿を思い出す。
『自分は、日暮奎介です。どうも』
誠に背を押されておずおずと挨拶をした五年前の姿だ。それは鮮明に、美しく記憶されていた。堰を切ったように溢れ出した思い出で、何日もかけて固めたはずの意思が溶けていく。
「殺すなんて、嫌だよぉ……」
「何を言って」
「けいちんには生きててほしい、ウチも生きてたい。大学が決めた政府公認の決まり事でも、やっぱり……人は殺せないの……」
二人とも涙にむせて咳き込んだ。空調で完璧に整えられた空気の中に、熱くなった吐息が消えていく。やがて奎介がおもむろに口を開いた。
「自分が今、生きているのは」
──マチネのおかげだ。そう告げた奎介に目を丸くし、唖然とする。
「お前がアマテラスの一行にいると知った政府は大学へ自分を殺さないようにと要請をした」
「それって、ご機嫌取りってこと?」
「多分」
「だから手足を押さえつけて、自殺しないようにされてるの?」
「……そうだ」
奎介の表情が不意に緩み、マチネへ向けられる。ゆっくりと身体を起こした奎介を見て、随分と痩せたものだと思った。
「早く死にたいと、毎日それだけ思っていた。だが栄養分は点滴で与えられ、危険物とみなされたものは排除され、娯楽もなくこの部屋に一人居続けた」
「奎介」
「それでも感謝していることがある」
細くなった腕が伸びて、マチネの袖を引いた。
「お前にまた会えた」
思いきり奎介を抱きしめた。細くなってもやはり骨格は太く、広い背中へは腕を回しきれない。それでもいいとさらに力を込めると、弱々しい両腕に包まれる。
「ごめんね、ずっと逃げてて。相棒としてサイテーだったと思う。けど、けいちんがよければもう一度、そばにいたい」
「……こんな貧弱なのが相棒でいいなら」
「もちろんだよっ」
カランと床に落ちた瓶に入っていたのは、何枚かの紙幣。そのラベリングは「お二人に幸あれ」とされていた。
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