第80話「懐かしい顔」

 餅のように丸くなりながら、シロウサギが嘲った。右手を横向きに振った状態から体勢を立て直せず、ハルはギチギチと歯ぎしりをし奥歯を噛み砕く。

「クッ……あははァ、残念だねェハル。逃げさせてもらうよォ、ぜェ……ッ」

「なんでだ、動け!」

 指先や目はかろうじて動かせる。辺りを見渡すがシロウサギの呼びかけた「懐かしい顔」というのは見られなかった。気配も感じない。シロウサギがしゃらりと金の懐中時計を引っ張り出した。

「キミは絶対にボクを殺せないってことだよォ。正直勝てる気がしないと思ってたからさァ、ラッキー」

 自分の身体がまるで違うものに思えた。他人に乗っ取られた別の器。ハルは敵とも分からない別人に乗っ取られた自分が不甲斐なくて仕方なかった。

「誰だ、返せよ……!」

 血肉や骨の隅々まで自分の意識を這わせる。神経を通じて身体を巡っていく伝達はたった一つの簡単なものだ。同時に今この身を操っているものを引き剥がしにかかる。シロウサギのことなど忘れ自分へ意識を集中させ、混ざり合うことを求めた。

 力強く拳が握られる。

「うぎャ!?」

 シロウサギの耳の根元を打ち抜いて、拳がひゅんと風を切り音を立てた。固まっていた分の反発もあり、相当な力のかかった左耳はピンと立たなくなっていた。悲鳴をあげるシロウサギの正面で、ハルは再び身体が奪われたのを感じる。この一撃は呼吸と精神が揃った一瞬の奇跡だったらしい。

「あがッ、痛いよォ!」

 地面を転げ回る度に白いスーツが汚れていく。血のぬめりにこびりついた砂や泥がべちゃべちゃと地面へ戻る。その様を眺めているうちに、シロウサギを哀れと思う心象が現れ始めた。彼を殺すという揺るぎない意思が打ち崩される。悔しげに目を閉じたハルはふとまぶたの裏に海を見た。

「──誠」

 これは取り込んだ誠の思いか。ぞっとした。人喰い妖怪が皆、こうして人間の記憶や意思に引きずられて生きていると考えると、彼らの自我を疑う。

「ボク……帰る、ねェ。これは貰ってくよォ」

「待っ」

 その手には勾玉の装飾具が握られている。カチリと懐中時計の蓋を開いた瞬間、シロウサギの姿はそこへ吸い込まれ消えた。ハルは強い憤りに息を詰まらせる。

 ──ふざけるな、ふざけるな。

「アンタなんかに殺されるほど、私は弱い妖怪じゃない……!」

 怒りが身体を覆い始め、再び脳がやけるような感覚とともに、身体がミシミシと動き出す。そうしてもう一歩踏み出した時、バツンと大きな音を立てて意識が切れた。視界に平地となった街が映り、繊月が最後に見えた。



 肺を押し潰される苦しさに呻き、うっすらと目を開ける。頬をスギナやヨモギの葉が撫でた。日陰が心地いい。うつ伏せに倒れたらしく、目の前に投げ出された腕が見える。両手で身体を持ち上げようとしたが、ビクともしなかった。首を捻って見上げる。

「な……!?」

 樹齢何百年というほどの大樹がそびえ立ち、ゆるゆると生い茂った若葉を揺らしていた。幹や枝に絡みついたツタがカーテンのように垂れ下がり、小鳥がその隙間を縫って飛び回っている。ハルはその木の根に巻き込まれるように、背中まで飲み込まれていたのだった。

「こんな木が、一日や二日で生えるわけがない……」

 ひかりを捜さなければならない。あんな別れがあってたまるかと、ハルはもがき始めた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る