第72話「八年」

 ──あらあら。

 なんの気配もなかった。背後から突然聞こえた女性の声に飛び上がり、慌てて骨の破片を土に埋めようとする。

「もうバレバレよ、ひどい血の匂いだもの」

 振り向くと色素の薄い髪がなびくのが目に入った。すらりとした立ち姿に目を奪われたが、獲物を取られては敵わない。四つん這いになり唸り声をあげると、その女性はその場で朗らかに微笑んだ。

「もう殺してしまったのだから、大切に食べないとね。ただし一つお願いがあるの」

 殺意は感じない。地面からはみ出した頭蓋骨を引っ張り出して抱きしめる。服もなく乱れ伸びた黒髪が泥まみれで肌に張りついていた。前髪の隙間に見えた赤い目が女性を睨みつける。

「私、ここへあなたを退治しに来たのよ。でも私としては傷つけることはしたくない。だからその人を食べ終わったら、もう無闇に人を襲わないと誓ってくれないかしら」

「ヴぅ……ッ」

「そもそも、私の言葉は理解できている? 人喰い妖怪あなたたちは脳を食べると記憶を得られると聞いているけど、あなたは違うのね」

「グル……ゔが……」

「ふぅ、仕方ないわ」

 頭蓋骨を抱いて座り込んでいるところへ手を伸ばし、じりじりと近寄っていく。今までやってきた人間とは違う優しそうな空気に戸惑いながら、少しずつ後ずさった。

「狩人はあなたにひどいことをしようとしたけど、私は違うのよ。あなたを大切にしてあげたいと思っている」

 その柔らかさに違和感しかない。明らかに彼女は被食者だ、そんなものから優しさを向けられることが不思議だった。考えてる間にも女性は気配を一切感じさせずに近づいていた。その手が頬に触れる。

「ゔ、ガァッ!」

「あら、ふふ……危ない。私のことは受け入れてくれると思ってたのに」

 爪を素早く避けて髪を翻し、にこにことしている。胸の中で抱き潰した骨を飲み込んでもう一歩踏み出した。腕を掴もうとした片手がかわされ、大きな牙が空気に噛みつく。

「ヴーッ」

「よしよし、そう威嚇しないで。いい子だから、ね」

 地面へ一度降り立って、足の骨が軋むほど力を込める。土がパキリと乾いた音を立てたのを合図に、ただの人間には目にも留まらない速さで背後に回り込んだ。女性は気づいていないらしい。艶やかな髪の隙間に色白のうなじが見える。

「──あら」

「うぎィ!?」

 あと数センチのところで、とてつもない反発力がかかった。一瞬にして木の幹へ身体をめり込ませ、肺が潰れたようで呼吸もままならない。地面へ崩れ落ちたまま、死んでこの女性に喰われるのかと思った。とうとう捕食者でいられなくなってしまったとひどく絶望した。

「あなたが必要なの。お願い、私と一緒に暮らしてくれないかしら。ねぇあなた……そういえば、名前がないのね」

 女性は少し考える仕草をし、ふと空を見上げて頷いた。

「私の名前はあかりよ。そしてあなたの名前は、ハル。うん、いい名前だと思うわ」

 この瞬間に自分は何かに形作られた世界の一部にはめ込まれたのだと、ハルは後から知った。

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