ショートストーリー

ダムい(ダルくて眠いの略)

お題〜とある街角

 アパート前の人通りの少ない歩道で、一人の男がアコースティックギターを弾きながら歌っていた。たまに通る人が一瞬耳を傾けるだけで、その演奏に足を止める人はいない。

 しかし、それも当然だ。

 歌声はいい。軽やかで伸びがあり、聴人に訴えかけるような力もある。歌だけを披露するのならば、彼の前にはたちまち人集りができることだろう。もしそれが、寂れた歩道であっても。

 だが、伴奏が良くなかった。アコースティックギターは外れた音程音を出し、リズムも取れていない。まるで電波の悪いラジオのようだった。

 彼の前を通る人の中には、その不恰好な音楽を嘲笑する人や、これ見よがしに迷惑そうな舌打ちをする人もいる。

 それでも男は歌い続けた。貶すような笑い声や、暴力的な視線に負けることなく、自分自身を表現するための歌と、想いを訴えかけるための不格好なアコースティックギターの音色を奏で続ける。

 何故なら、男の歌は道行く人に聴かせるものではなく、アパートのとある一室に向けられたものだったから。


 私は、両耳を左右の手の母子球で強く押さえ強く塞ぎ、部屋の片隅に蹲っていた。

 あれは、人魚の歌だ。

 一度耳にしてしまえば、大海原へと引きずり込まれるように誘われてしまう。それは凪いだ海面に安堵していると、次の瞬間には大荒れの海へと様変わりし、大波で海面へと叩きつけてくるような海だ。

 私は、一度そこにいた事がある。そして、やっとの思いで陸に抜け出してきたのだ。服は海水に濡れ酷く重たく、潮の匂いが染み付いて陸の人間とは違う異質な臭いがする。呼吸のしかたを忘れてしまったかのように、息苦しい。これならば、海に揉まれている方がいくらか楽だったかもしれない。

 だが、海に戻るわけにはいかない。あそこはあまりにも過酷で耐えられない。

(しかし、ああ……なんて美しい歌なんだろう……)

 こっちへ戻っておいでよ、そっちは窮屈でしょ? と、窓越しに歌声がそう語りかけてくる。下手くそな伴奏が、私を苛立たたせる。

 まるで蛇足じゃないか。もっと伴奏が上手ければ……もっと歌を引き立たせる伴奏を、私なら──

 気がつけば私は、アパートを飛び出し、人魚の横に立っていた。美しい音色で歌う彼の隣に。

 そして覚悟する。もう二度と海からは抜け出せないぞ、と。


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