第1話、さいごの話。
練習終わりに後輩に呼び止められた。
どうしたの?と振り返ると、彼女は何度も深い呼吸をして、言いづらい事を何とか口に出すための努力をしていた。
こんな事これまでに経験した事があるわけでもないのに、僕の心は不思議と冷静さを保っていた。
どんな返事をしようか、本当に僕でいいのか、なんて僕が呑気に考えている間にも、目の前の彼女は覚悟を決めていく。
そして、不安のために下がる眉尻をそのままに、恥じらいによって赤らめた顔に緊張のせいで潤んだ瞳を浮かべて僕に向き直り、
彼女は口を開いた。
「あの、私、先輩のこと……!」
僕が聞いたのは、掠れて少し聞き取りづらくなった、それでも普段から聞き慣れた、女性的で可愛らしい声。
ではなくて、何か質量を持った物が、足の置かれている高さまで落ちて、転がる音だった。
それは、重たい、重たい音だった。
彼女の声を、言葉を、存在すらも掻き消す音だった。
僕の目の前、それまで彼女が立っていた場所にあったのは、
見た事もないのに名前も用途も知っている道具、苦痛を軽減するために生まれたという機器、中世の人道的装置、ジョゼフ・ギヨタンの発明品。
つまり、
___一台の、ギロチン。
思考が追いつかず、茫然とする僕に、
ゆっくりと足元に迫る液体に恐怖を感じている僕に、
いつの間にか、ギロチンの傍らに立っていた女が、話し掛けた。
「突然ごめんなさい、驚きましたよね?」
どこか、聞き憶えのある声だった。
ショックで声の出ない僕に向かって、その女は続ける。
「何か、質問は御座います?」
その言葉は、驚きと恐怖で平静を保つ事の出来ていない僕の脳内に、乾いた音で響いた。
「は?」
"驚きましたよね"?
そりゃあそうだ。こんな事になって驚かないはずがない。
"質問は御座います"?
聞きたい事なら山ほどある。
しかしそのどれも上手く言葉にはなってくれなかった。
何も言わない僕に対して、女はただ「手短にお願いしますね、時間が無いので。」とだけ言い放った。
「時間が、ない?」
やっとの事で僕が発した質問だった。
「はい、そうです。もう少ししたら私消えちゃいますんで。」
「消える?なんで?」
「なんで、って…過去が消えればその先の未来なんてあるはずないでしょ。」
「過去?未来?何を言って…」
「あ、そっか。言ってなかったですよね。私、コイツです。未来のコイツ。」
そう言って女は、床に転がる後輩の頭部を足蹴にした。
「未来の、?」
なるほどじっくり見てみれば、確かに女と後輩はよく似ていた。
大きな目に、後ろで一つに結った長い髪。
二人とも同じ眼鏡をかけているし、そういえばさっき聞き憶えのある声だと思ったのだった。
「なんで、こんな事したんですか。」
まともな答えが返ってくるかも分からないまま、僕は問うた。
「過去の自分を、殺してしまいたい!って思うこと、あるでしょう?」
女は飄々と答える。
「彼女が何をしたっていうんだ!?」
「『した』っていうか、『する』んですよ。このままだと。」
女は当然のように答える。
「何かするかなんてわからないでしょう!?」
僕は必死になって彼女を弁護した。
それでも、『未来』には到底敵うわけがなかった。
「ほっといたら、ホントろくなことしないんですよ。フラれてもしつこく貴方の事追っかけ回して、貴方にも周りにも散々迷惑かけて。…自分でやったんだから、分かります。」
女の声には、それまでは見えなかった後悔の色が滲んでいた。
自嘲的で自傷的なその言葉に、僕はもう何も言うことができなかった。
僕達は、しばらく互いに黙ったままでいた。
何も言えなかったし、何か言う気も起きなかった。
何も言わないままでも、時間は過ぎる。
ふと気付くと、女の姿が少しずつ消えかかっていた。
もう、最後なのだろう。
その身体の向こうに見える景色に向けて、僕は呟いた。
「僕は、『彼女』の事を好きでしたよ。人を殺して平然としていられる貴方なんかじゃなくて。…全然優しくなんかない僕のことを優しいって言って、ただ無邪気に笑ってくれたあの子のことを、僕は、好きだった…!」
いつの間にか僕は喉を震わせ、歯を食いしばり、顔を濡らしていた。
俯いていた頭を上げると、目の前の女は、驚きを隠せないとでもいうようにこちらを見つめていた。
踵を返した僕の背に、女の声がぶつかった。
消えかけているせいなのか、泣いているのか、ひどく掠れて、聞き取るのがやっとだった。
「……わたし、」
直後、ガタリと何かが倒れると音がして僕は振り返った。先程まであったはずのギロチンも後輩の身体も、もう無かった。
ただ、天井から伸びる縄に首を吊るした女の身体が、ぶらりと宙に浮いていた。
僕は自分でも驚く程、何も感じられなかった。ただ、過去に戻ってギロチンで自らを殺められるのなら、あの一瞬で首を吊るくらい造作もない事なのだろう、とだけ思った。
僕はいつも通りに荷物を持って教室を出て、ドアの鍵を閉め、帰路へ着いた。
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