第二章 繰り返す死 05

「こ……怖かったよぉ……」


「お、おい、大丈夫か!」


 俺は慌てて少女に駆け寄る。すると少女は、にへへ、と恥ずかしそうに笑った。


「あ、安心したら腰が立たなくなっちゃったよ……」


「怪我とかしてないか? あいつらに何か変なことされなかったか?」


 真剣に尋ねる俺に、少女は安堵を浮かべる。


「えっちなことされそうだったけどギリギリセーフだったよ……。もう覚悟しないとダメかなって泣きそうだったとき……キミたちが来てくれたの。助けてくれて本当にありがとう」


 へたり込んだまま、少女は長い髪が地面に付くのも気にせずに深々と頭を下げた。


 慌てて俺は少女の肩に手を添えて身体を起こさせる。


「止してくれ。俺たちもたまたま通りかかっただけなんだ。とにかく無事で良かった」


 立てるか? と少女に手を貸して立たせてやる。よろよろと、少女は立ち上がった。羽根のような軽さだった。

 小さくて柔らかい、少女の手。それは、夢で触れた少女の感触とまったく同じで――。


「――ラブコメの波動を感じます」


 いつの間にか俺のすぐ後ろに、気配を殺したカナンが立っていた。

 いつもの無表情だったが、十数年見続けてきた俺だからこそわかる程度のささやかな変化で、どこか不機嫌そうにも見える。

 俺は気を取り直して少女に紹介する。


「えっと、俺は四ノ森イザヤ。こっちは妹のカナン。実質きみを助けたのは、カナンのほうだから礼なら俺よりもこいつに言ってくれ」


「……カナンは別に恩に着せるつもりはありませんが」


 鉄面皮のカナンに、少女は星宿の双眸を輝かせて身を寄せ、両手でカナンの手を包む。


「ありがとう、カナンちゃん! カナンちゃんはわたしの貞操の恩人だよ! しかもカナンちゃん、こんなにちっちゃくて可愛いのに強いんだね! あれハイソフィアってやつだよね!」


「……ええ、まあ」


 珍しくわずかに困惑を示して、カナンはこちらに視線を向ける。こう見えてカナンは人見知りが激しいので、ぐいぐい来られると対応に困ってしまうのである。


 さすがにかわいそうだったので、少女の襟首を掴み引きはがしてやる。

 少女もいきなり見知らぬ他人に迫ってしまったことを自覚したのか、照れたように笑う。


「ごめんね……ちょっと嬉しすぎて興奮しちゃった……。でも、悪気があるわけじゃなくて……あ、そうだ! 自己紹介もまだだったね!」


 言って、少女は佇まいを直し、小首を傾げて微笑んだ。


「わたし、明星アナ。アナでいいよ。怖いお兄さんたちにいじめられてるところを助けてくれてありがとうございました。このご恩は一生忘れません」


 その何気ない言葉に――俺の心臓はドクンと一際強く高鳴った。

 明星アナ。


 やはりそれは、夢で出会った少女と同じ名前で……。

 つまり、夢のアナと目の前のアナは同一人物ということになり……。


 俺はますますわけがわからなくなった。

 正夢だとか既視感だとか。

 明らかにそう言ったものを超越した現象だとしか思えない。


 ならば、俺の身に起きているのはいったい……?

 無意識に思考を巡らせようとしたところで、金髪の少女――アナは話題を変える。


「あ、そういえば、イザヤくんたちこの路地の入り口辺りで仔猫見なかった?」


「……仔猫?」思考を中断し、首を傾げる。「俺は見てないけど……」


 続けてカナンへ視線を向けると、彼女も小さく首を横に振る。

 アナは、「そうかあ……」とどこか残念そうに呟いた。少し気になる。


「仔猫がどうかしたのか?」


「うん、実はさっきこの路地の入り口のところで迷子の仔猫を見かけて……」


 迷子の仔猫って……。俺は少し呆れて尋ねる。


「おまえ、黒服の怖いお兄さんに追いかけられてるのに、迷子の仔猫の心配なんて――」


「えっ!? なんで知ってるの!? イザヤくん、見てたの!?」


 俺の言葉を遮って、アナは驚いたように目を見張る。一瞬その驚きの意味が理解できなかったが……すぐに自分のミスに気づく。


 そうだ……黒服に追われていたのはあくまでも俺が見た夢の話だったんだ……。

 うっかり口が滑ってしまったが、あまりにも不用意な発言だったと反省する。


「わ、悪い! ちょっとまえにたまたま夢で似たような状況を見たことがあってさ、それとごっちゃにしちゃったんだ……」


「そ、そう……? それならいいんだけど……」


 不思議そうな顔でアナは納得してくれる。幸いなことに、俺の失言は軽く流してもらえたが……心の中では新たな疑問も浮かぶ。どうやらアナの様子からすると、黒服に追われていたことは本当のようで……俺の頭はますます混乱する。

 混乱していたのだが――。


 むぎゅるるるるる。


 突如、狭い路地裏に響き渡った間の抜けた音が俺の思考を中断させた。

 何事かと周囲の様子を窺うと、アナが顔を真っ赤にして腹部を押さえていた。


 まさか今の……腹の虫? そんなでっかい腹の虫ある?

 懐疑的な視線を向けると、アナは心底恥ずかしそうに照れ笑いを浮かべる。


「何か緊張しすぎておなか空いちゃった……っ!」


「お、おう……まあ、そういうこともあるよな……」


 それにしても音でかすぎだろう、とは思ったがさすがにかわいそうなのでこれ以上は突っ込まないことにする。

 するとアナは、名案を思いついたように眩しい笑顔で手を叩いた。


「そうだ! もし良かったらこれから一緒にごはんでもどうかな? 助けてくれたお礼にご馳走するよ! わたし町歩くの初めてだから、美味しいお店とか教えてくれると嬉しいな!」


 それはとても魅力的な提案に思えたが……。


「――申し訳ありませんが、兄さんとカナンは今、取り込み中なので」


 一も二もなく、カナンはその提案を断る。さすがに《熾天使セラフ》という立場もある以上、仕事を途中で放棄するつもりはないらしい。


「……そっかあ。忙しいなら仕方ないね……」


 明確な拒絶にアナは肩を落とす。まるでごはんを取り上げられた愛玩犬のような落ち込みように、胸がちくりと痛む。

 ここでアナと別れるのは、良くない気がする。


 夢のことを考えるのであれば……少なくともしばらくはアナと行動して様子を窺うべきだろう。

 カナンの約束とアナの提案を天秤に掛け、俺は判断を下す。


「……わかったよ。じゃあ、俺だけ付き合おうか」


「兄さん――っ!?」


 珍しく、本当に珍しくカナンは動揺を見せる。どうやら俺からそんな提案が出るとは思っていなかったらしい。さすがに申し訳ないので、俺はカナンを見つめながら説明する。


「考えてもみろ。ここでアナを一人で行かせたら、また不良連中に絡まれるかもしれないだろ。関わった以上、最後まで彼女の身の安全には責任をもつべきだ。それに《悪魔》相手の見回りには俺は何の役にも立てないけど、不良相手なら……時間稼ぎくらいはできる。合理的に考えれば、俺がアナに付いていくのがベストだろ?」


「そ、それはそうかもしれませんが……」


 カナンは逡巡するように、俺とアナの顔を交互に見る。


「年頃の男女が二人きりで食事に行くなんて……逢い引きではありませんか……っ!」


「逢い引きって……」


 古風か。


「あの……忙しいなら無理しなくていいよ? わたしもその、思いつきで提案しただけだし」


 様子を窺っていたアナが控えめに発言する。俺は笑みを返す。


「いや、ちょうど俺も腹が減ってたところだし、是非ご相伴に与らせてほしい。妹はちょっと用事があって同伴できないが……まあ、仕事だし仕方ないから気にしなくていいよ」


「に、兄さんっ!」


 ありありと動揺を示しながらカナンは俺に手を伸ばすが、それを遮るように俺は彼女に告げる。


「カナン、この埋め合わせは近いうちに必ずするから、今日は我慢してくれ。おまえも全人類の未来を背負った尊いお勤めをしっかり果たすんだぞ」


「ま、待って兄さん……っ!」


 追い縋ろうとするカナンに背を向けて、俺はアナを押して歩き出す。


「じゃ、行こうか。何か食いたいものはあるか? お勧めはそうだな……肉かな。もし嫌じゃなかったら、近くに美味いステーキハウスがあるからそこへ行こうか」


「え、あ、うん……。お肉は大好きだから是非お願いしたいところだけど……カナンちゃん、その、本当にいいの……?」


 アナは後ろ髪を引かれるように問う。俺は力強く頷く。


「残念だが……こればかりは仕方ないんだ。カナンには人類を守るという崇高な使命があってな……我々一般人とは違って忙しいんだ……。そして何もできない俺たちは、カナンたちが守ってくれた平和を謳歌することが義務なんだ……。そんなわけで、気にせず食いに行こう」


 半ば強引にアナの背中を押して進んでいく。


「ううううぅぅぅぅッッッ!」


 ……なんか背後から手負いの獣のような唸り声が聞こえてくるが気にしない。そして、そのまま十メートルほど進んだところで――。


「……わかりましたっ! カナンもご一緒しますっ!」


 ててて、とこちらに駆け寄り、これまた珍しくわずかに頬を染めながらカナンは叫んだ。


「いや、でもおまえ、仕事の途中じゃ……」


「途中ですけど! 本当はダメですけど! 人類存亡の危機よりも今この瞬間だけは、兄さんの貞操のほうが大事です!」


「貞操って……」


 古風か。


 まあでも、カナンが同行したくなるようにわざと煽るようなことを言ったので、見事にその作戦がハマったというのが正直なところ。せっかくの機会だしカナンも一緒のほうが賑やかで楽しいだろう、というささやかな兄心なのである。


 それにいつも《熾天使セラフ》の仕事で忙しいみたいだし……たまには息抜きも必要だ。

 呼び出しが来ないように携帯端末の電源を切るカナンを横目に見つつ、俺は無駄に大げさに宣言する。


「よし、それじゃあいっちょみんなで肉食い行くか!」


 そんなこんなで、俺たちはステーキハウスへと向かう。

 夢の中いちどめの出会いとは異なり、現実にどめは少しだけ賑やかなものとなった。

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