第三章 賢者は美味しいと言わせたい④

「いただきます、してもいい?」

「あ、ちょっと待って。んと、はいこれ」


 アグリに、チューブ形のお手製ジャムペンを二本渡す。

 赤はイチゴジャム。黒っぽい紫はブルーベリージャムだ。


「これでホットケーキの上に絵を描いてもらえるかな」

「お絵かき? なんでもいいの?」

「うん、アグリの好きなものを描いて」

「すきなもの。んー……」


 早く食べたいだろうに、ごめんね。

 ややあって、キャンバスであるホットケーキを食い入るように見つめていたアグリの口が、「あ」の形になった。何か題材を思いついたようだ。

 ブルーベリーのペンを手に取ろうとし――。


 その直前に、ちらっとだけ私を見た……ような?

 え? もしかして、もしかする? もしかしちゃう!?


 アグリ画伯がペンを走らせている間、私は完成まで見まいと目を背け、リヴちゃんの下顎をたぷたぷすることで気持ちを落ち着かせた。リヴちゃんは迷惑そうにしながらも、諦めた顔でされるがままになってくれている。


「できた」


 大作の予感。

 ドキドキとワクワクで胸を高鳴らせながら、アグリの作品を拝見する。


 が。

 これは…………んん……なんだろう。

 咄嗟に思い浮かんだのは、悪魔大陸の近海に棲息していた巨大生物【クラーケン】だった。

 何本もあるブルーベリージャムの縦線は触手に見えるし、真一文字に引いたイチゴジャムは勇者の必殺技が胴を斬り裂き、中身をブチ撒けている構図に見える。


 あれとの戦いは、慣れない船上だったこともあって、かなりの苦戦を強いられた。武道家と僧侶が触手に捕まり、あわや、にゃにゃーんな展開になりかけたのも、今となっては懐かしい思い出だ。そうそう。あの後食べたゲソ焼きは、お酒にも合って格別に美味しかった。

 じゃなくて。


「何をかいたか、わからない?」

「いや、待って! もう喉のところまで出かけているから!」


 イカの血は青色なので、これが血飛沫を撒き散らしたクラーケンである可能性は低い。

 というか、考えるまでもなく、アグリがイカの化け物なんて描くわけがない。

 えええ、なんだろう。


「アグリ様、これは人の顔だったりするのかしら?」

「うん。これがかみの毛で、これがお口。下手でごめんね」

「そんなことないわ。味があっていいと思う」


 リヴちゃん、ナイスアシスト。

 人の顔ってことは、やっぱり最初の予想は間違っていないんじゃないだろうか。

 だけど、これが私の顔だっていう確証はない。


 好きなものという題材で誰かの顔を描いた。つまり、特別に想い入れのある人物だ。

 まさかとは思うけど、村で出会った男の子とかじゃないよね? ないよね!?

 もしそうだったら――……。

 内から黒い感情が滲み出していると、リヴちゃんが鼻の頭で私の背中を押してきた。


「殺気が駄々漏れになっているわよ?」

「べべ、別に、この村を地図から消してやろうとか、そこまでは考えてなくなくないよ?」

「どっちなの? どういう流れでそんな物騒な発想になるのか知らないけれど、変なところで臆病なのね。他に候補なんて考えられないでしょう?」

「そう……かな……」


 だけど、私は魔王を……アグリの父親を手にかけた人間だから。

 アグリが何も思っていないはずはない。だって、あんなに泣いたんだもの。


「というか、その感情の浮き沈みはなんなのかしら? 情緒不安定なの? 産後の動物でも、もう少し一貫性があるわよ。見ているこっちの方がついていけないのだけど」

「ほんと申し訳ない。ただ、こればっかりは、いかんともしがたくて」

「知ったことじゃないわ。でも、前にも言ったはずよ。あなたはよくやってくれているって。いつも胸焼けするくらい愛情を注いでいるくせに、もっと自信を持ちなさいな」

「……うん。……うん、そうだよね」


 リヴちゃんは優しい。

 言葉はキツいけど、こうして慰め――とは違うか。発破をかけてくれている。

 沈んでばかりはいられない。そう思わせてくれる。


 アグリが私の解答を待っている。

 ここまでタメてしまうと、今さら上手な絵だと褒めても胡散臭くなってしまうだけだろう。せめて正解を言い当てて、アグリの顔が、これ以上陰ってしまわないようにしないと。

 リヴちゃんに背中を押され、私は覚悟を決めた。


「ズバリ、私の顔かな!?」


 声の大きさとは裏腹に、私の胸中は「違ったらどうしよう」という恐怖でいっぱいだ。

 すると――。

 アグリの表情が、蛍光灯のスイッチを入れたかのように、パッと明るいものへと変わった。


「せーかいー」

「や、やっぱりー? ここの鼻のラインとか、私そっくりだもんね」

「それは耳」

「だと思ったー。どう見たって耳だよねー」


 絵の出来に関して下手なことは言わない方がよさそうだ。


「いやー、感激だなー。の絵を描いてもらえるなん――……」


 と……まずい。ホッとしたら気が緩んで、マジトーンで言ってしまった。

 リヴちゃんが「バカね……」と呟いた。

 アグリも、私が何を思って口にしたのかを察してしまっただろう。


「アオバ」

「は、はい」


 責められたわけでもないのに、アグリに対して「はい」なんて言ってしまった。


「わたしは、アオバがむかえにきてくれて、よかったって思うよ?」


 私も、それを九割信じている。

 なのに、自分に自信がないから。犯してしまった罪が大きすぎるから。

 どうしても、「もしかしたら」を考えてしまう。

 心を許してくれているように見えても、それは私の勘違いで、もしかしたら……って。

 情けない私が何も言えないでいると、アグリが自分自身を抱きとめるようにして、胸の辺りに手を添えた。


「前のおウチは、すごくさむかったの……」


 あの空島は、春のように過ごしやすい気候が保たれる仕組みになっていた。

 つまり、アグリが言っているのは……そういうことなんだろう。


「リヴたちが、たまにあそびに来てくれたけど、おしごとがあるからずっとはムリだったし、一人の時はやっぱりたいくつで……さみしかった」


 私は黙って耳を傾けた。思えば、アグリから弱音らしい弱音を聞くのは珍しい。

 いや、珍しいどころの話じゃない。これが初めてだ。


「わたし、今は毎日楽しいよ。村の人たちはやさしいし、リヴたちもいっしょだし。アオバが外につれてきてくれたからだよ」

「そう言ってもらえると、私も嬉しいな……」


 ダメだ。全然気持ちがこもっていない。こんな小さな子に気を遣わせて――


「アオバ!」

「はい!」


 8歳児に怒鳴られた。


「絵本をね、たくさん読んだよ。でも、アオバがしてくれるお話の方がずっとおもしろいの。白雪ひめとか、しんれれらとか、アオバのお父さんとお母さんのお話とか。ほかにもいっぱいしてほしいの。わたしの知らないこと、たくさん教えてほしい」

「しんれれらじゃなくて、シンデレラだけどね。それくらい、いくらでも……」


 罪滅ぼしには到底足りないのに、他にできることが思いつかない。

 視線が、自然とアグリの顔から自分の足下に落ちていく。

 しかし、その視線を追いかけるようにして、アグリがずずいと入り込んできた。


「アオバが作ってくれるごはんがおいしいの。みんなで食べると、もっとおいしくなるの」


 目を逸らせない。アグリの射抜くような瞳が、それを許してくれない。

 わからず屋には、まだ言い足りないか? もっと言ってやろうか?

 五〇センチ近い身長差があるのに、そう言って胸倉を掴まれているように感じた。


「朝おきたらおはようって言って、夜はおやすみなさいって言えるのが、すごくうれしいの。いっしょにいると、とってもあたたかいの。ぜんぶ、アオバがいてくれるからなの」


 感情が高ぶっているからか、アグリの瞳にうっすらと涙が浮かんでいる。

 訴えかけるようにして浴びせられたことを、私は一つずつ思い返していった。

 その時のアグリはどんな表情をしていた? どんな声で言っていた?

 それらに嘘はあったか? 無理をしていたか?


 ……いいや。


 アグリの力強い言葉と記憶が重なり、少しずつ、心のしこりが削られていく。


「だから――」


 頬を朱色に染めたアグリが、ぎゅっと私の腰にしがみついてきた。

 ――いや、抱きしめられた。


 魔法が実在するこの世界において、「まるで魔法のように」という比喩は存在しない。

 だけど、あえて私は使いたい。

 次にかけられた言葉は、まるで魔法のように私の胸に焼きつき、不安を完全に溶かした。


「好きよりも、もっと好き」


 三十年生きてきた中で、これ以上はないと言い切れる。




「わたしはアオバのこと、大好き」



 それどころか、この感動を超える感動を味わうことは、生涯ないだろう。

 そう思ってしまうくらい、心の底から打ち震えた。


「わっ、アオバ!?」


 だぱあっ。

 決壊したダムのように、自分でも引いてしまうくらいの涙が溢れ出た。

 大馬鹿だ。もっと私のことを知ってもらわないと、なんて偉そうなことを思っていたけど、逆だ。私こそが、アグリのことを全然わかっていなかった。

 アグリにとって、必要とされる存在になれていた。必要としてくれていた。

 それをやっと、頭で理解するだけじゃなく、心で自覚することができた。

 こんなの、泣くなっていう方が無理。


「ちょっと、怖いわよ。そこまで泣くほどのことなの?」

「だって……だって……アグリが、ママ大好きって」

「言ってないでしょ。捏造しなさんな」


 私はアグリを腕の中に収めたまま、できたてのホットケーキに右手をかざした。


「時の繰り手たる女神ベルよ、因果の鎖を解き、悠久の糸を紡ぎたまえ――」


 呪文詠唱。

 魔素に〝呼びかける〟意味を持つこの工程を経れば、ほんの少し魔素の加工効率は上がる。でも中二っぽくて恥ずかしいので、基本的に私は無詠唱派だ。ここぞという時だけ使う。

 屋内だけに留まらず、東京ドーム一個分くらいかな。そのへんは適当。広範囲に呼びかけ、極めて小規模かつ、超濃密な魔素を皿の上に集めた。

 ――これでよし。

 魔法行使を終えると、リヴちゃんが怪訝な眼差しを向けてきた。


「それ、もしかして時間を止めたのかしら?」

「感動と一緒に永久保存するべきかと思って」


 このホットケーキは、永遠に時の流れという無情から隔絶された。永遠に腐ることはなく、術者である私が魔法を解くまで完璧な形を保ち続ける。


「時魔法なんて、大魔法中の大魔法じゃない。バカなの?」

「私の中で親バカは、めでたく褒め言葉に認定されました」

「ただのバカというつもりで言ったのよ」

「辛辣」


 というか、そんな大層なものかな。時間を操る魔法は古代の秘術らしいけど、私は古文書を一回流し読みしたら使えるようになったし。


「今のとんでもない魔力は何事ッスか!? 敵襲ッスか!?」


 転がり込むようにして外から戻ってきたモスくんが、私たちを背にして周囲を警戒した。

 アグリとリヴちゃんだけじゃなく、私のことまで庇ってくれている。やだ、イケメン。


「落ち着きなさい。バカ賢者が、ちょっとバカをしただけよ」

「え? ああ、なんだ、姐さんでしたか。人騒がせッス……」

「嬉しさのあまり、つい。てへ☆」

「てへ☆ じゃないでしょう。可愛くないわよ。歳を考えなさいな」


 バカって言われた時の十倍は威力のあるパンチだった。


「アオバ、早く食べたい」

「そうだね。もう一枚焼こうか」

「え、それは食べないの?」


 永久保存状態にあるホットケーキを指して、アグリが物欲しそうに言った。


「これは記念にというか…………新しく焼くから、そっちを」


 アグリの目線は皿の上にロックオンされたままだ。リヴちゃんとモスくんの、じとっとした視線も突き刺さってくる。私は泣く泣く魔法を解除した。

 仕方ない。また改めて、今度は額に飾れるような絵を描いてもらおう。

 ホットケーキをナイフで四等分し、皆で「いただきます」をしてから実食。


「おいしー」


 こぼれんばかりの笑顔で頬に手を当てるアグリから、待ち望んでいた一言を頂戴した。

 それだけで胸がいっぱいになった。感無量って、今みたいな気持ちを言うんだろう。


「優しい味ね。アタシは気に入ったわ」

「美味いッスね。いくらでも入るッス」


 リヴちゃんとモスくんも、お気に召してくれたようで何よりだ。


「まだあと一、二枚なら作れるよ。今度はアグリに、焼きから引っくり返すまで、全部やってもらっちゃおうかな」

「で、できるかな……」

「大丈夫だよ。一緒にやろ」


 不安。安心。そして笑顔。忙しなくころころと変わる表情は、見ていて飽きることがない。ずっとずっと、いつまでも見守っていきたいと思わせられる。


 でも、見守るだけじゃ足りない。

 アグリの立場が危ういものである限り、この先、どんな困難が待っているかもわからない。たとえ世界に滅びが訪れようとも、この子の笑顔だけは守り抜く。その覚悟と準備だけはしておかないと。必要とあらば、バロル教団との全面戦争も辞さない。

 そうなったとしても、正直、負ける気はしないけどね。

 なんせ、こっちには四帝獣もついているし。

 問題は、その時に新たな魔王と呼ばれちゃうのが誰か……だよねぇ。

 まあ、そうなったらそうなったで、その時に考えよう。


「次は、リヴとモスの顔をかくね」

「光栄だわ」

「楽しみッスね」


 皆で作ったホットケーキを頬張りながら、同時に噛みしめてしまう。

 この世界には、こんなにも幸せなことがあるんだって。

 材料だけを見れば、向こうの世界の方が質は上だろう。

 それでも、この日食べたホットケーキは今までで一番美味しく、忘れられない味になった。

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