第13話 異世界の追憶(その一)

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 午前の九時ちょっと過ぎ、エリコは風呂屋に赴いていた。

 場所は福岡県中間市、高速道路を下りた近くにある、昔ながらの銭湯である。

 風呂に入りたい、と言い出したのは自分だ。

 昨夜にフェリーで風呂を済ませたものの、できることならもう一度さっぱりしておきたかった。

 本日の夕方、熊本で自分の存在は消えることになる。

 文太郎が起こすはずの交通事故を回避し、この世界にいるもう一人の自分を助けることになるからだ。

 だからこそ、今生の別れの意味で身を清めておきたかった。

 もちろん、それらの事情は文太郎には秘密にしてある。

 彼に余計な心配をかけたくないのはもちろんのこと、歴史の流れを必要以上に変えたくはないからだ。

 もし歴史の歯車が大きく狂えば、自分や文太郎、一個人の問題ではなくなってしまう。

 なにかのきっかけで戦争が起きるかもしれないし、なにかのきっかけで巨大隕石が落ちることだって考えられた。

 その可能性が限りなく低くとも、細心の注意を払うにこしたことはない。

 でも、風呂に入るぐらいはOKだ。

 おそらく。

 エリコは根拠もないのにそう納得し、湯船の中でするりとお湯を肌に滑らせた。


「おい、エリコ。石鹸、こっちに投げてくれ」

 

 男湯と女湯を仕切る壁、その天井の隙間から、文太郎の声が聞き届く。

 開店早々ほかに客がおらず、ゆったりとしていたとろを邪魔された気分だ。

 それに、童貞だの神様だのという言い争いはまだ尾を引いているし、エリコは少しカチンときた。


「なんで石鹸がないのよ。さっき二人分買ったでしょ」

「石鹸を買ったのは俺だろ。まるで自分が買ったようにして俺を責めるなよ」

「誰が買ったかなんてどうでもいいわよ。なんで石鹸がないのかって言ってるの」

「それが、不幸なことに排水溝から流れていったんだ」

「異世界じゃあるまいし、なんで排水溝に蓋がないのよ」

「そんなこと言われても俺は知らん。てか、異世界ってなんのことだ?」

「なんでもないわよ」

「おまえ、口調がツンケンしてるけど、もしかして怒ってるのか?」

「怒ってないわよ」

「じゃあ石鹸投げてくれ」

「…………………………」


 ダメだとも言い返せず、エリコはしかたなく石鹸を男湯へ放り投げた。

 ほどなくすると――。

 文太郎は体を洗い終えたらしく、チャプンと湯に浸かる水音がそちらから響いた。

 その物静かな水音を耳にし、エリコの頭に不吉な言葉がふと浮かんだ。

 入水自殺である。

 そう、文太郎は自分を轢き殺したのち、入水自殺しているのだ。

 それも肥溜めに頭からダイブして死んでいる。

 なぜそのような死に方を選んだのか、エリコはそれがどうしても気になった。

 まだ生きている本人に訊くもヤボな話だが、彼の根底にその理由があるはずだ。

 ゆえにエリコはそれを問うてみる。


「ねえ文ちゃん」

「なんだ?」

「もし誰かを轢き殺したとして、どうしても罪の意識に耐えられなくなったとして、もう自殺するしかないと思ったら、どんな死に方を選ぶ?」

「入水自殺だな」


 即答だ。

 飛び降りでも、首吊りでもなく、入水自殺。

 やはり彼は死に方を決めている。


「なんで入水自殺なの?」

「一番苦しいって聞いたことがあるからな。楽に死ねたら罪滅ぼしにならんだろ」

「それはそうだけど……」

「だけど、ただの入水自殺じゃダメだ。俺なら肥溜めに頭からダイブして入水自殺する。これ以上ないってぐらい苦しい死に方で、俺が殺めてしまった人に懺悔するんだ」


 文太郎は覚悟を決めたようにそう答えた。

 彼の言葉に嘘偽りはない。

 なにせ本当にその死に方を選んでいるのだから。

 今は亡き、別時間軸の文太郎は、さぞ苦しい思いをして死んだのだろう。

 トラックに轢かれて死んだのはエリコ自身。

 だがある意味、彼を殺したのも自分かもわからない。

 そしてエリコは、自分のせいである人が死んでしまった苦い経験を思い出す。

 そう、あれは今から五年前、異世界年齢は十歳のときまで話はさかのぼる――。



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 北の最果てに位置する地下迷宮、その名もタリア迷宮。

 そこは古代人の墳墓であり、並の冒険者を寄せ付けないとても危険な場所だった。

 地下一階層から出没する魔物はどれもSクラス。

 十歳という若さで名を馳せたエリコでさえ、この迷宮の探索には手こずっていた。

 というか、自身の力を過信し、パーティーも組まずに挑んだのが間違いだった。

 今いる場所は地下五階層、朽ち果てた聖堂のようなフロアだ。

 だだっ広い空間の一番奥には女神像の祭壇が設けられ、壁際にはいくつもの石柱が立ち並んでいる。

 この階層の魔物はすべて倒したものの、これより階下に進めば、最悪、命を落とすことも考えられた。

 魔力回復ポーションも使い切ったし、今が引き時かもわからない。

 ちなみエリコの今日の装備は、フードを被った黒ずくめのローブ。

 それと、先がくるりと丸まった杖である。

 見た感じは、ちんちくりんの黒魔道士といったところだ。

 剣技、攻撃魔法、回復魔法、オールステータスで戦えるのだが、その日の気分で戦闘スタイルを変えている。

 そんなとき――。


「あ、なんか光ってる」


 よく見ると、祭壇の女神像の胸元が微かに赤く光っていた。

 女神像の高さはおよそ二メートル。

 その石像に近づいて確かめたところ、胸元には拳大の宝石がはめ込まれていた。

 埃を被っているのでぼんやりとした光だ。

 台座によじ登ってうんと手を伸ばし、パラパラと埃を払ってみる。

 すると、眩いほどの深紅の光が直線的にビカビカと拡散した。


「ムフフ……これって超お宝アイテムかも……ムフフフ……」


 フードの中から、エリコの青い瞳も怪しげに光った。

 見た目はあどけない十歳の少女でも、精神年齢(日本と異世界を合わせた歳)は三十一歳のおばさんだ。

 高く売れそうな宝石を目にし、いやらしく涎を垂らすのも当然である。

 それに冒険で稼いだ金は、スライムレースなどのギャンブルであっという間になくなってしまう。

 それどころか、あちこちの高利貸しから金を借り火の車状態だ。

 だからこそ、難易度の高い迷宮探索にやってきた。


「バチは当たらないわよね」


 お地蔵様のお供え物をかっぱらうかのように、エリコは宝石をコトリと抜き取った。

 これを売ればそれなりの金が手に入る。

 その金は全額、スライムレースで単勝一点張りに突っ込むつもりだ。

 ぜいぜい1.2倍の払戻金しか期待できないが、一番人気に賭けておけば、まず負けることはない。

 それを何度か繰り返せば、みるみるうちに元手が増えていく。

 今までは、三連単の大穴ばかり狙っていたから負けてしまったのだ。

 これからは手堅くいこう。

 それが人生というものだ。

 エリコは借金苦に陥った失敗も忘れ、単勝一番人気に方向転換することにした。

 そんなとき――。


「え!? なに!? なんなのこれ!?」


 どういうわけか、女神像の足下がガタガタと揺れはじめた。

 さらには、台座を中心にして、ブロック状の石床がどんどん抜け落ちていく。

 エリコはあたふたしながら女神像にしがみついたがもう遅かった。

 これはおそらくトラップだ。

 宝石を抜き取ったことで、落とし穴のトラップが発動してしまったのだ。


「きゃあああああああああああああああああああああああああああああ」


 そしてエリコはフリーフォールのごとく絶叫し、女神像と一緒に奈落の底へ落とされた。




 気がつくとエリコは墓場に倒れていた。

 見渡す限り十字の墓石が不規則に並び、周辺の枯れ木にとまる真っ黒な怪鳥が、いたるところで「ガァガァ」と鳴き声をあげている。

 空には赤茶けた雲がかかっており、地面の土までもが錆びた鉄の色をしていた。

 しかも地面のあちこちには人骨が散らばり、まるでこの場所すべてが大量の血を吸い込んだかのうな、不気味で荒涼とした墓場だった。


「ここって……迷宮の中……?」


 エリコは身を起こし、もう一度空を見上げる。

 やはり雲がある。

 雲は緩やかに動いているし、どう見ても迷宮の中にいるとは思えなかった。

 しかし、迷宮はなんらかの力が作用し、空間そのものが変質している場合もあると聞く。

 ゆえに、森や湖、海の階層があったとしてもおかしくはない。

 それにこの階層は嫌な予感がビンビンする。

 あくまでも感覚的なものとはいえ、これまで経験したことのないようなヤバさだ。


「カレントロケーションスキャン」


 位置情報を得るためのスキルを発動してみる。

 すると――。


『タリア迷宮、地下九十九階層』


 胸元に出現したデータパネルには、そのような情報が記されていた。

 これはマジでヤバい。

 地下五階層の魔物でさえ少々難儀したのに、地下九十九階層まで一気に落とされてしまった。


「ス、ステータス、スキャン……」


 試しに枯れ木にとまる怪鳥をスキルで鑑定してみる。

 そして恐る恐るデータパネルを覗き込む。


 ――【名前】ガラガラス

 ――【性別】♂

 ――【年齢】4806

 ――【LV】89884

 ――【HP】69943/69943

 ――【MP】77501/77501

 ――【古代魔法】デスガス

 ――【古代魔法】ギアガス

 ――【古代魔法】バラガス


 怪鳥のステータスはエリコの想像を遙かに超えていた。

 まず、五千年に迫ろうかという年齢がぶっ飛んでいる。

 おそらく、老衰でポックリ逝くことはないだろう。

 レベルは自分より十倍も上だし、古代魔法に関しては未知の名称だ。

 仮に戦ったとしても、百パーセント勝ち目はない。

 見た目だけはカラスのような鳥なのに、戦闘能力は化け物クラス。

 そんな魔物がそこらにうじゃうじゃいる。


「ガァ」


 あろうことか、鑑定した怪鳥と目が合った。

 その鳴き声に合わせて、周囲の怪鳥すべてがこちらに赤い目を向けた。

 エリコは地面に落ちている自分の杖を手に身構える。

 両手はアル中のようにプルプル震え、視界が滲むほど涙目となり、喉はカラカラに渇ききっていた。

 そんな絶望の恐怖に打ち震えながらも、エリコはこの場から逃げようとはしなかった。

 というか、足がすくんで逃げるどころではない。


「あたし……死んだかも……。てか……確実に死んだ……」


 死を覚悟したエリコのつぶやきと同時――。

 か弱き獲物に狙いを定めた何百という怪鳥は、バサバサと羽を広げていっせいに飛び立った。

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